3-1. それはきっと(1)
小さく唸る音が聞こえる。
おでこの生え際あたりがこそばゆく、シトラはかすかに眉根を寄せた。何かがこめかみを掠め、それを避けようと寝返りを打とうとして――
「痛っ」
髪が何かに引っかかり、思わず声を上げる。
「っ、すまない」
唐突にクレイスの声が降ってきて、まだ閉じていたいと抵抗する瞼を、シトラは思い切り見開いた。
すぐ間近に、覗き込むような碧眼。困ったような、戸惑ったような顔で、クレイスが見下ろしている。いや、待って。戸惑ってるのはこっちなんだけど。いったいどうなってるの。
「おおかたは解けたのだが、まだここが絡まっていて……」
珍しく焦りの色を滲ませながら、やや早口で彼が呟いた。
彼の頭越しに見えるのは魔塔居室の吹き抜けの高い天井、大窓から射し込む光で白々と明るい。どうやら自分は居室の長椅子に寝かされているらしかった。しかもなぜか、クレイスの髪と自分の髪が絡まっているようだ。昨日は確かにこの魔塔を出て、森に行き、精霊に導かれて森で眠ったはずなのに、どうしてこんなことになっているのか、シトラはさっぱりわからない。
クレイスはこちらに視線を寄こさず、絡まりあった髪を無心で解いているようだった。彼の頭と自分の頭がくっついている。彼は手探りで絡まりを解こうと苦戦していた。目覚めた時は目が合っていたのに、それ以降は、気兼ねするように決してこちらを見ようとしない。ただ一心不乱に指先を動かしている。その気の毒なほど懸命な姿がおかしくて、シトラはひそやかに笑った。
あんなに苦しんで出たはずの魔塔に戻っているのに、なぜこんなに安堵しているのだろう。
シトラは必死な彼の姿をぼんやりと眺めながら考える。
彼のために、自分がここにいるのはよくないとわかっている。
自分がいれば生家は彼に接触を続け、金銭をたかり続けるだろう。そして彼は、その責任感から、自分に関わらせず対処をする。彼の命にも等しい、知的探求を諦めてまで。
それが耐えられなくてこの魔塔を出たのではなかったか。
なのに、こうして彼の姿を見ていると、溶けそうな安心感に包まれる。
(自分勝手だな、私)
彼に申し訳ない気持ちが湧き上がり、シトラの胸が痛んだ。安心しながら自責していて、我ながら気持ちが忙しいな、と呆れた思いまでくっついてくる。
「ああ。やっと、解けた」
声と同時にクレイスの体が遠ざかった。
何を話したらいいかわからず、シトラはゆっくりと身を起こすと、長椅子の上に、ちょこん、と妙にかしこまって座り直す。
話さなきゃと思うことはたくさんあった。訊きたいこともたくさんあった。しかし、一つを考えようとすると横から別の思いが溢れてきて、次々に積み重なり、何を言葉にすべきかわからなくなってしまう。
「今、茶を淹れるから。待っていて」
彼は長衣を脱ぐとそれを椅子の背にかけて、台所に向かった。
純白の長衣の裾は土にまみれ、無残なほど汚れている。ところどころほつれたような布の傷。
「クレイス、あの……」
ぼろぼろの長衣を見て、シトラは腰を浮かせて声を掛けた。
「……裾が……」
「いいんだよ。そろそろ新しくしようと思ってたんだ。それに洗濯すれば、魔塔で着る分には十分さ」
流しで手を洗いながらクレイスが答える。
シトラは中腰で固まり、紡ぐ言葉が出てこずに、再びすとんと腰を下ろした。
何か、言わなくちゃ。
湯を沸かす準備をする音を聞きながら、ちらりと彼の背に視線を送り、すぐに戻す。
形にならない気持ちが、あとからあとから、シトラの体の中をこすり上げていた。自分の両膝の脇、長椅子の座面に手をついて、指先で座面の革を撫でる。目を伏せたまま、さらり、さらりとその感覚を確かめていると、いつの間にかクレイスが戻ってきていて、卓上に茶器と砂糖菓子、砂糖壺を置いた。
彼はそのままシトラの隣に腰を下ろす。
「茶を飲みながらでいいから、聞いてほしいんだ」
座面を撫でていた手がさらわれた。彼の大きな骨ばった手が、自分の左手を包んでいる。
「あの、私も、言わないといけないことがある……」
彼の親指が、自分の手の甲を確かめるように撫でていた。
「それなら、あなたの話から聞いてもいいかな。でも、『ごめん』は無しだよ」
先制され、シトラは言葉に詰まってクレイスを見つめた。ずるい。
「そんなの、言うに決まってるよ。言わせてよ」
「あなたが謝る必要がどこにある?」
「ありすぎでしょ。勝手に魔塔を出たんだよ……」
彼はくすくすと笑って、手を軽く叩いた。
「それもそうだ。悪い子だな。まったく、お母さんの言うことを聞かないんだから」
「ごめんなさい……」
真摯に謝るつもりが、なぜかお母さんへの謝罪となってしまっていることに気づき、シトラははっと息を呑んだ。
「違うの。真面目に謝りたいの。嫌な思いを、させたと思うから。本当に……ごめん」
深く頭を下げると、呆れるような嘆息が降ってきた。
「嫌な思いか……少し、違うな」
下げた頭が撫でられる。
「聞かせてくれないか。あなたはなぜ、魔塔を出たんだ?」
え、とシトラはクレイスを見上げた。
自分の気持ちは、手紙にすべて書いたはずだ。彼がそれを読んだからこそ、自分が今魔塔にいるのだと思っていた。手紙を見ていないのだろうか。でも、卓の上には手紙も杖もない。そうだ、杖は?
「あの、そこに杖なかった?」
「杖なら、私が持っているよ。……あれがぽつりと置かれているのを見た時は正直、焦った」
咄嗟に詫びようとしたシトラを制するように、クレイスの指が立てられる。
「理由を知りたい。無理にとは言わないが」
シトラは喉まで出かかった言葉を呑みこんだ。
『手紙はなかったの?』と。
自分は確かに手紙を置いて出た。杖と揃えて、そこに置いた。でも、彼は見ていない。
考えられることは、ひとつしかなかった。
――手紙は処分されたのだ。彼女の手によって。
シトラは、唇をきゅっと引き結んだ。
あまりにも、ひどい。
でもシトラには、なぜ彼女がそうしたのか、その理由がわかる気がした。
補佐官として、あるいは、昔からの友人として。それから、エレナ個人として。彼女はクレイスを案じていた。それが正しいかはわからない。でも、自分だって、彼女の論理のひとつひとつには、頷くところがあったのだ。動機はともかく、考えていたことはそう変わらなかった。
あの手紙を残すことが、自分は誠意だと思った。
しかし彼女にしてみれば、クレイスを惑わす言葉でしかなかったのだろう。だから処分した。
シトラはクレイスを見つめる。
「どうした?」
「うん……」
手紙のことは言えなかった。これ以上彼に負担をかけたくない。それに理由なら、今自分がここにいるのだから、自分の口から言えばいい。けれど、あの時――体を手づかみで引き裂かれるような思いをしながら綴った言葉とは、きっと変わってしまう。こんなにふわふわとした気持ちで話す言葉は、手紙に書いたものとは、まるで手触りが違うはずだった。どちらがいいのかは、わからない。
「私が魔塔を出たのは……クレイスの、重荷になりたくなかったから。新聞で、ユーネルディア家が旧領の買戻しをしてるのを読んだんだ。それで帳簿を見て、クレイスが研究費を削っているのを知ったよ。プルガトリア・オパカ。アウレアの代替品でしょ?」
「なぜそれを……」
「パーゼル様に教えてもらった。庭園の研究室で」
クレイスは額を押さえて、溜息をついた。
「びっくりした。単価が全然違うのに、前年と変わらない額が計上されてて。……おそらく父が、私を引き合いに、お金を要求したんだとわかった。それはきっと、私がクレイスの前から消えない限り、ずっと続くと思ったの。そういう人たちだから……」




