2-3. 希う(3)
森は既に暗く、足元には闇が落ちている。彼は、糖がその身に吸収されたのを確かめながら、視線を流して注意深く光を灯した。魔力回路が緩やかに稼働しているのを感じる。魔力を節約しながら魔術を行使するのは初めてのことで、加減が上手く掴めない。
クレイスは自身の足元と、目線の高さの数歩先に光を灯し、己の移動に合わせて動かした。
初め、精霊とは魔力が意思を持ったものだとシトラには伝えたが、その後の座学で、精霊の意思とされるものは人間に近しいものではなく、むしろ自然の理に近いものだと教えていた。草木が日の光を求めるように。水が低きに流れるように。炎が風に揺れるように。精霊たちもまた、彼らの論理の中で生きている。
流れるように在り続ける彼らの、個々としての意思は薄く淡い。彼らは人間のような確固たる自我を持たない。ゆえに、意思を持った魔力を浸透させることで、彼らの意思を上書きし、服従に近い状態を作り出す。
よって、クレイスの魔力を精霊が受け付けずに拒絶している今の状況は、精霊術の在り方からすれば、前代未聞の事態だった。
人ならぬ、更に上位の存在に精霊が侵されているのではないか、という最悪の推測がクレイスの思考を掠めた。悪鬼か、妖魔か。結界すらも易々と通り抜けるほどの存在だとすれば、今の、魔力が枯渇しかけた自分では討伐できるかわからない。
気ばかりが焦り、大股で歩いては、足裏に木の根を感じて危うく倒れそうになる。森をあてもなく歩き回り、大声で彼女の名を呼び続け、クレイスは必死にシトラを捜し求めた。
「シトラ、いたら返事をしてくれ!」
もう、月は中天をだいぶ過ぎているだろう。声はひび割れたように掠れ、額に汗が浮き、乱れた髪が唇の端に引っかかっていた。それを手で払い、クレイスは深夜の森を一心不乱に歩き続ける。下生えを掻き分ける手は幾つもの傷がつき、血が赤く滲んでいた。痛みは感じない。
歩きながら妖魔の類の痕跡を探るが、それらしいものは一切感じられなかった。侵入者がいないことに安堵しつつ、そうであればなぜ精霊が応じないのかが謎のままで、クレイスはただ己の体を動かすことしかできない。
気が付けば、空が白みかけていた。
クレイスは肩で息をしながら、そばにあった樹の幹に手をついた。
「頼む……」
聞き取れないほどの声量で、クレイスは呟いた。
倒れ込むようにして、その場に膝をつく。純白の長衣が土にまみれるのも構わずに、彼はその場に崩れ落ちた。
「シトラを、返してくれ……」
地についた手が、ぎゅっと土を握り込んだ。
人生の灯火。彼女が笑い、息をしている。ただそれだけでよかった。彼女を娘として迎え、自身を母として据えたこの日々は、どうあっても、失うことができない。
「……大事な人なんだ……お願いだ、返してくれ……」
懇願だった。
何に頼んでいるのか自分にもわからないまま、クレイスは頭を下げる。
こんなにも己が無力だと、今の今まで、知らなかった。
本を読むばかりだった内気な少年の時分に、魔術士としての才を見出され、半ば強制的にその能力を磨かされた。全属性という、人類にとっての特異点を我が物にせんと、欲深で佞奸な者たちに囲まれていたあの頃。彼らから己の身を守るために纏った鎧、得た権力。
二十歳で筆頭となってから此の方、不可能を感じたことなど、ただの一度もなかった。
なのに今、自分は、無力さを呪い首を垂れることしかできない。
たった一人の大切な人すら守れずに。
握り込んだクレイスの拳が、小刻みに痙攣する。
地面に広がった淡い青の髪が、曙光に照らされて浮かび上がっていた。その髪を、風が揺らして通り過ぎる。
つん、と髪を引かれて、彼は顔を上げた。
一体の風の精霊が、方向を指し示すように自分の髪を引っ張っている。
彼は息を呑んで立ち上がった。
迷いはなかった。
そのまま、導かれるようにして精霊が示す方向へまっすぐと歩く。歩いているうちに朝日が昇り始め、金色に輝く光が低く射し込んで森を照らしていた。
突然、木々が抜け落ちたように開けた場所が現れる。
クレイスは目を見開いた。
古い大木の根元、青葉の山に埋もれるようにして、すやすやと眠っているその姿。
よろめく一歩を踏み出すと、クレイスは、二歩、三歩と、震える足で地面を確かめながら歩み寄る。彼女の元にたどり着き、彼はそっと、空気を抱き込むようにして座り込んだ。
無事だ。
安堵とも、感傷とも、歓喜ともつかない感情が溢れ、クレイスは吐息を洩らす。
頬は血色がよく、顔を見る限り傷どころか汚れひとつない。幾筋も残っている涙の跡が痛々しいが、少なくとも、彼女が安らかに眠っているのは確かだった。
クレイスは古樹を見上げた。森の主とも思えるほどの大木。幹はところどころ割れ、苔むしていて、この森と共に生きた年月を感じさせる。その樹枝は幾つもの手で天を支えるように繁り広がり、すべてを包み込むような慈しみに満ちていた。
「……彼女を、守ってくれていたのか……感謝する」
深々と頭を下げて、彼は心からの敬愛を捧げた。
精霊たちは、彼女を害してなどいなかった。彼らなりの方法で、守り、慈しんでいたのだ。
自分の呼びかけに応じなかったのは、彼女が泣いていたせいだろうか。
こんなに、涙の筋が溶けるほどに泣かせてしまったのだから、当然かも知れない。自業自得と言える。
母失格だな、とクレイスは自嘲の笑みをこぼした。
「シトラ」
彼は指先で彼女の髪を梳こうとして、土がついていることに気づき、長衣の汚れていない部分で手を拭った。綺麗になった指で、改めてシトラの前髪を梳く。額は温かい。
「迎えに来たよ」
その声は、彼女の眠りを妨げないように、小さく。
静かに青葉を除けて、クレイスはシトラの首の後ろと膝の裏に腕を差し入れた。慎重に引き寄せながら、力強く立ち上がる。
夢を見ているのか、彼女の瞼の裏の目がゆっくりと動くのがわかった。睫毛がふるふると揺れている。腕の中の重みから、花の蜜にも、陽だまりにも似た、甘やかな生き物の匂いが漂っていた。
クレイスはたまらず、シトラの額に自分の額を寄せた。こつん、と触れない程度の、体温を感じるだけの慎ましい接触。彼女が己の腕の中にいることが夢のようで、この喜びをどう表現したらいいのかわからない。
しばらくそのまま温もりをかみしめていると、二人の周りで柔らかいつむじ風が巻き起こった。風はクレイスとシトラの髪を巻き上げ、ぐちゃぐちゃに混ぜ込み、飾り紐のように結び合わせる。そうして、淡青の髪と黒髪は絡まりあい、抱きあげた状態ではほどけなくなってしまった。
「ふふ……これは、参ったな」
彼はおかしそうに笑った。随分と手の込んだ悪戯だ。
額を寄せたままの姿勢で、クレイスはシトラを目覚めさせないよう、抱きあげた腕に繊細な力を込める。胸の奥が疼き、熱が首の後ろから立ち上って全身が温かい。感嘆の溜息が洩れ出てしまいそうになるのを、彼は唇に微笑みを浮かべるだけで耐えた。
満ち足りていた。なのに、渇望している。
奇妙な矛盾を感じながら、クレイスはシトラの髪を引っ張らないように首を傾け、不自然な体勢で魔塔へと向かう。揺れを最小限に抑えつつ歩いていると、不思議なことに気が付いた。足元が見えないにもかかわらず、下生えが行く手を遮らない。それどころか、地面の下にあるはずの隆起した木の根を一度も感じない。
そうか。
彼女を腕に抱えたまま、彼はひとり納得する。
森のつくりを変えてしまえるほどに、精霊たちは、彼女を慕っているのだ。
クレイスは、睫毛が触れそうなほどの位置にあるその人の、閉じた瞼を見つめながら、優しく囁いた。
「シトラ。あなたは、こんなにも愛されているよ」
明日4/10の更新で完結です。
4章3話、エピローグの2話更新です。
エピローグは22:35の更新を予定しています。




