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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第4章
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2-2. 希う(2)


     ◇


 またたきの間もなく魔塔の居室へと転移したクレイスは、その場に人の気配がないことを知り、居住層全体に魔力を行き渡らせた。だが、居住層のどこにもシトラの気配がない。


 背筋が冷え、頭の奥が遠くなる。


「シトラ、どこだ」


 呼びかけではない。この場にいないことを知りながら、それでもクレイスは声を洩らした。かつて、演習場で倒れる寸前まで杖を振っていた姿がよぎり、まさか、と呟く。その彼の目が、暖炉の前の長椅子前の卓に留まった。


 白樹の杖がぽつりと置いてある。


 クレイスは大股で歩み寄り、杖を拾い上げた。冷えている。直前まで使われていた形跡はない。卓の上には杖だけが残され、他には変わった形跡がなかった。いや。


 暖炉から、何かを燃した匂いが漂っている。


 この季節に暖を取る必要はない。シトラが何かを燃やしたのか。それとも……。


 分析は後だ。

 白樹の杖を握りしめ、クレイスはすぐさま演習場へと降りた。だが、やはりシトラの気配はない。居住層にもいない。演習場にもいない。では、どこへ。


 彼は己の魔力を探った。彼女に渡した首飾りは今、どこにある。

「……裏口?」

 信じられない思いでクレイスは呟いた。なぜ、そんなところに。


 転移門を使う時間も惜しみ、彼はその場で円を描き、直接裏口へと転移する。裏口の脇に設えた小さな棚の上に、シトラが普段使う絹布が白く取り残されていた。


「なぜだ」


 クレイスの声が震える。


 なぜ、あの絹布の中に己の魔力を感じる。


 硝子細工を扱うような手つきで絹布を掬い上げると、中から、悲しいほど澄みきった青い石が現れた。


 ――ああ。


 心が砕けた音がした。


 絹布ごと、首飾りを抱きしめる。かすかに甘い残り香がクレイスの脳髄を焼き、思考を白く飛ばした。


「……シトラ……」

 手の中で、布にくるまれた首飾りが、ちゃり、と音を立てる。


 彼女は、自分の意志でこれを外したのだ。絹布に丁寧にくるみ、決別の意をそこに託して。


 世界そのものの質量がのしかかってきたような、凄まじい悔恨が、クレイスの胸を潰していた。


 自分は、彼女の心を、甘く見ていた。初めの頃と比べ、彼女が信頼を寄せてくれるようになり、照れ、甘えて、自身を許すことができるようになったと勘違いしていた。しかし彼女は、生まれてからずっと、愛を知らずに生きてきた人だ。自身の存在を常に疑い、ここにいていいのかと怯える気持ちが、完全に消えたわけではないだろう。


「……違うんだ……」


 彼女がどんな思いで魔塔を去ったのか。

 昨日の、帳簿を前に抗議しようとしていた彼女を、自分は無理やり黙らせた。彼女を、あんな醜悪な男に渡してはならないという一心で、彼女に一切関わらせず、この手で護り切ってみせるのだと。しかし、情け深い彼女にしてみれば、己の存在がこのクレイスを苦しめるのだと感じてしまったのだろう。


 そんなことは、天地が返ろうとも、絶対に、絶対にありえない。


 だが、その声を届けたい人は、いない。

 心臓のすぐ近くが、きつく締め付けられる。

 その痛みに、彼はしばらくの間、身動きひとつできなかった。


 やがて、ようやくクレイスは静かに顔を上げた。懐に、絹布と首飾りを大事にしまい込む。

 シトラが、シトラ自身を信じられないのなら、自分が彼女の分まで信じよう。

 今も苦しみに耐えている彼女を、このまま一人になどしておけるものか。


(……あなたを、黙って逃してあげることはできない。それがたとえ、あなたの意志に反するのだとしても)


 強大な決意がクレイスの精神を蘇らせた。右手の指先をすっと横に凪いで、使い魔を召喚し、王都の宿屋と酒場すべてを捜査するよう命令する。同時に、自分は裏口を出て、夕闇が忍び寄る森の入り口にそっと佇んだ。


 裏口に首飾りが残されていたならば、彼女はここから出た可能性が高い。なぜ表門ではないのか。森に向かいたかったのか、それとも、表門から出られない事情があったのか。


「いずれにせよ……」

 クレイスは底冷えのする瞳を森に向けた。凍てつく魔力が広範囲に広がっていく。場を掌握し、精霊を使役する精霊術。己の意志に従う彼らを我が目のようにして捜せば、もしシトラが広大な森にいたとしてもすぐに見つかるはずだ。


 彼の眉が、わずかに跳ねる。

「どういうことだ」


 クレイスは森の中に踏み入り、あたりを見回した。

 精霊の反応がない。


 魔力を遠くまで広げながら、彼は森の奥へと歩いていく。この森は、古くから魔塔の賢者たちに代々愛されている精霊の森だ。魔塔周辺以外は人の手を加えず、自然の赴くままに存在する深き森。常ならば、このような浅いところにも精霊の姿が見えて然るべきだが、今は姿はおろか、その影すらもなかった。


 結界は損なわれていない。魔物や敵性生物が入り込んだ形跡はない。

 彼は魔力の濃度を唐突に高め、森の全てを包みだした。


「応じよ」

 クレイスの魔力が、呼吸すらもままならないほど濃密に広がる。


 だが、精霊たちは応えなかった。

 届いていないはずはない。クレイスは一瞬にして、精霊の森の隅々までに魔力を広げたはずだ。しかし、魔力が途中で霧散する。まるで森そのものに拒絶されているかのように。


 理解不能だった。何が起きているのか、筆頭宮廷魔術士の頭脳をもってしても、わからない。


 クレイスはただ、ひたすらに魔力を流し続けた。彼の膨大な魔力が広範囲を高濃度で舐めていく。どれだけそれを繰り返していたのか、ついに、クレイスは眩暈を感じた。


 糖切れだ。


 魔術士が魔力回路を通してカンテサンスを魔力に変換する際、必ず糖を消費する。糖が切れるということはすなわち魔力が枯渇するということだ。戦いの場にあってそれが起きてしまえば自身のみならず味方に甚大な被害を与えてしまう。宮廷魔術士であれば、いつでも糖の摂取ができるよう、命綱として必ず携帯しなければならない。

 だがクレイスは、その膨大な魔力量ゆえに、これまで糖切れを起こしたことが一度もなかった。


 初めて経験する糖切れに戸惑いながら、彼は懐をまさぐり、小袋を取り出して、中の砂糖菓子をすべて口の中に押し込める。噛み砕くと甘みが一気に溶け、糖の摂取に体が歓喜して震えた。


 そのまま、ふらつきながら近くの樹の根元に腰を下ろす。

 はあ……と溜息が洩れてしまい、彼は立てた膝に肘を乗せ、両手の甲で額を支えるようにして顔を伏せた。

 眩暈が落ち着くまでは、歩くこともままならない。


 風が通り抜け、頭上の樹冠がさざめくような音を立てた。森全体がひとつの生き物のように、共鳴しながら枝を揺らしているのを感じる。


 シトラは今、どこにいるのか。

 どうか王都にいてくれ、という希求に似た気持ちが湧き起こった。聡明な彼女なら、自分の身を守るために必ず宿をとるだろう。彼女の手持ち額なら、ひと月ほどは余裕で泊まれるはずだ。王都にいれば、使い魔が見つけられる。


 俯いたまま、彼は、古来より信仰されている、世界各地のありとあらゆる神に祈りを捧げた。使い魔が彼女の情報を持ち帰ってくることを切に願って。


 その祈りの反復が、ふと途切れた。


 使い魔の反応は無情だった。彼女は王都にはいない。王都の全ての宿屋、酒場、果ては彼女が立ち寄りそうな店の全てに使い魔を飛ばしたにもかかわらず、その痕跡を見つけることができなかった。


 頼む。無事でいてくれ。


 嘆きに沈みそうになる心を理性が叱咤する。

 やはり彼女は森にいるのだろう。裏口から出て、何らかの理由で森に入った。この精霊の不可解な反応を考慮すれば、彼女の消失に精霊が関わっているのは必然と言える。


 シトラが初めて精霊に遭遇した際の反応は、どう考えても異常だった。精霊たちは彼女に群がるようにして押し寄せ、個々の精霊が彼女の関心を惹かんと過ぎた干渉をした。あの時は自分の魔力に押されて引き下がったが、彼女が一人で森に入った場合、彼らがどんな手段をとるかは想像がつかない。


 そこまで考えて、クレイスは慌てて立ち上がった。眩暈の残滓が、くらり、と頭を軽く揺らめかせる。

 一刻も早く捜し出さなくては。


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