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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第4章
52/58

1-3. 慟哭(3)

     ◇


 転移門を起動して、一階に降りる。表門と裏口のどちらから出るか迷い、足の向くままに裏口へと向かった。先ほどまで動かなかった足が嘘のように、今はひたすら前に踏み出している。どこでもいいから早く遠くへ行かないといけない、という焦りにも似た感情が全身を支配していて、シトラは急いで裏口の扉を開けた。


 表門にしなかったのは正解だったかもしれない、とシトラは思う。表門にはエレナの乗ってきた馬車が停まっているだろう。御者に目撃されては厄介だ。とりあえずは人目のつかないところに行き、そこから街に出るのがいい。街に出れば宿屋に泊まれる。


 そこまで考えて、シトラは胸元を押さえた。

 衣の下にある、硬い感触。


 襟元に指を差し入れ、鎖を手繰り寄せて首飾りを引き出した。この石の意味を考えていなかった。クレイスの魔力が込められたその石を身に着けたままでは、追跡されるおそれがある。


 シトラは首飾りに視線を落とした。


 青い石は、手のひらの上、澄みきって丸い。射し込んだ陽光が、指の付け根に青い光の影を落としている。清冽で深い、彼の瞳と同じ色。 


 彼が護符代わりだと言ってくれたあの日から、ずっと肌身離さず着けていたその石を、シトラは外した。絹布を取り出して大切にくるみ、魔塔の裏口に引き返して扉を開け、脇にある小さな棚の上に置く。


「………………」


 そのままシトラは裏口を抜け、森に向かって歩き出した。


 夕焼けに近づく黄色い光が、森の始まりを穏やかに照らしている。かつて、彼と二人で通った森の小道を、シトラは一人で歩いていた。足元が悪いからと手を引いてくれた彼の姿が、今そこに見えるようで、思わず片手を伸ばしてしまう。その手は当たり前に宙を切って、すとん、と落ちた。


 感情のままに魔塔を飛び出してしまったことは、後悔していない。

 エレナに言いすぎたかもしれない、という思いはあった。あそこまで本音をぶちまけるつもりはなかった。ただ彼女が『いいことずくめでしょう』と言い放った時に、大人げなく切れてしまっただけなのだ。


 シトラはエレナが許せなかった。


 利己的な感情を、さも『他人のため』と利他的な善意でくるみ、己では責任を取らずに、他者の人生に関与して制御しようとする。その構造が透けて見えてしまい、無性に腹が立った。


 自分で責任を取れよ。他者のせいにするな。

 私を追い出したいのはあなたの欲であって、善意から来たものじゃないだろう。

 そんな、子供じみた感情を制御できず、怒りのままに反論してしまった。


 でもあれは、私が気持ちよくなりたいだけの言葉だった……。


 苦い思いが胸に満ちる。


 しかし、エレナの言う通り、もし署名していたらどうなっていたか。エレナはそれですべてが解決すると思っていたようだが、シトラの見立ては違っていた。生家に戻ったとして、あの浪費家で欲深な父と兄がクレイスへの接触を断つだろうか? シトラにはそうは思えなかった。彼らは形を変えて、クレイスに金銭をせびるに違いない。それにクレイスが応えるかはわからないが、父と兄が彼への攻撃を続けることは想像に難くなかった。


 だから、生家の影響を断ち切るには、クレイスの前から消え、行方をくらませるしかないのだ。


 ごめん。


 ごめんね、クレイス。

 わがままで、ごめん。


 優しくしてくれたのに、いきなり消えて、ごめん。

 いい子で待っていられなくて、がっかりさせて、自分勝手で、ごめん……。


 シトラは彼に、心の中で詫び続ける。

 許してもらえなくてもいい。でも、決して裏切ったわけじゃないと、それだけは信じてほしかった。


 景色がぼやけて、揺らめく。喉が締め付けられるように痛かった。足だけは前に出しながら、シトラはぐちゃぐちゃに泣いていた。涙を拭うこともせず、声が出るのも厭わずしゃくり上げて、よろめきながら歩く。つま先が木の根に引っかかり、転びそうになって、近くの樹の幹にもたれかかった。どしん、という硬い衝撃が背中を打ち、息が止まる。


 シトラは、大きな口を開けて、子供のように泣いた。

 泣く権利だとか、非生産的だとか、そんなものは何も考えていなかった。ただ悲しくて、つらくて、どうしようもなく切なかった。心の中に吹き荒れる暴風雨が、口から叫びの形となって流れ出る。助けてほしい。クレイスに助けてほしい。甘やかされたい。ここにいるよと撫でてほしい。なんて勝手なんだろう。自分から逃げたくせに。なのにこんなにも彼にまだ助けを求めている。

 矛盾した思いに、シトラは一層大きな声を上げた。


 その髪を思いきり引っ張られ、泣きながらつんのめる。四方八方から髪が引かれ、シトラの体がぐらぐらと傾いだ。


 涙で歪んだ視界に、丸いぽよぽよが漂っている。草の動物も。古木の人形も。それから、白い綿毛も。


「……精霊さん……」


 森に住む精霊たちが顔の前にひしめくようにして押し寄せた。シトラの髪が前に引かれ、衣から伸びた若芽が森の奥に続く枝に伸びて、体を引き寄せた。


 精霊たちが自分をどこかへ連れて行こうとしている。

 その誘いは必死なほどに全力で、いっそ痛々しいほどだった。数多の精霊たちが、入れ代わり立ち代わり自分の顔の前に現れては、擦り寄るようにして前髪を引いた。


 シトラは涙をこぼしながら精霊の導きに従って歩いた。彼らの言葉を聞けるわけではない。しかし、彼らが何を言わんとしているか、シトラにははっきりとわかった。彼らは心配しているのだ。隣人である自分が、泣いていたから。


 小さな体で懸命に誘う彼らのいじらしさが、愛おしい。引き千切られるような心の痛みが軽くなるわけではない。それでも、シトラは彼らの優しさをありがたく受け取った。


 夕暮れから宵闇へと空気が変わり、足元も見えないのに、森の地面は隆起もなく歩きやすかった。木の根に引っかかることもなく、髪を引かれ、衣を引かれ、風に背中を押されてただ進んでいると、唐突に開けた場所に出る。


 月の光が、神秘的な空間を静謐に照らしていた。大木が連なっているのに、頭上に枝が伸びていない。まるで月明かりを取り込むためだけに開いているような、意図を持った生え方。


 以前クレイスと来た場所ではない。あの場所には倒木があった。ここには倒木も大岩もない。最も大きな古樹の根元が、ちょうど人ひとりぶん横たわれそうなくぼみになっている。ふかふかとした苔が生えていて、休んでいきなさい、と言われているような気がした。


 苔の上に座ってしまうと、美しい苔を傷めてしまいそうだと感じ、しばらく立ち竦む。動かないシトラの後ろから突風が吹き荒れ、シトラの髪を全部前に流した。そのまま、全ての髪を前に引かれて、シトラは倒れ込むように苔の上に座った。


「あっ」


 意外にも弾力のある苔は、しっとりとして、見た目よりも丈夫そうだった。指先で撫でると天鵞絨のように吸い付き、その手触りは自室にあった長椅子を思わせて、切ない。


 一時間、二時間歩いただろうか。一度横になってしまうと、立ち上がる気力がなかった。今から戻っても街に着くのは夜中になるだろう。今晩、宿に泊まることは不可能だ。


「ちょっとだけ……休ませてもらって、いいですか」

 シトラは掠れた声で古樹に頼み、横たわった。答えは返ってこない。代わりに、どこからか丸く大きな葉が降ってきた。数枚がひらひらと舞い落ちて、そこから絶え間なく降りそそぐ。たくさんの葉がシトラの体を覆い隠し、小山のようにこんもりと丸く積もった。


 瞼がとろりと重たくなる。ああ、子供が泣き疲れた後に眠るのって、こんな感じなのかな、と思いながら、シトラは重くなった瞼に抵抗した。瞼の裏側にクレイスの姿が浮かぶたび、目頭が熱を持ち、痛みが静かに溢れていく。そうして緩慢なまたたきを幾度か繰り返し、引き延ばされるようにまたたいた後は、もう呼吸が寝息に変わっていた。

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