1-2. 慟哭(2)
深く息を吐いたシトラの耳に、玄関扉の開く音が届く。誰、と体を起こして見つめていると、赤褐色の髪を結い上げた女性が姿を現した。彼女はまっすぐにこちらを見据え、ためらいのない歩調で向かってくる。
「こんにちは、小鳥さん」
エレナは悠然と笑むと、長椅子の近くに立って、シトラに声をかけた。
「お休みしてたのかしら? ごめんなさいね、突然」
「何の御用でしょうか」
挨拶も返さずに、シトラはエレナを見上げた。クレイスが今日出仕することを、エレナは知っているはずだ。なのに魔塔に来た。扉を叩くこともせず、当然のように踏み込んで、まっすぐに自分に相対している。好意からのものではない。
普段の自分であれば、それでも、愛想よく応対しただろう。彼の首席補佐官の機嫌を損ねるのは彼にとっても利点はないだろうから。しかし、決して好意的でない相手ににこにこと笑顔を向ける余裕は、今の自分にはなかった。
「あら、クレイスがいないと怖い顔するのね」
片頬を持ち上げるように笑って、エレナは言い捨てた。
「まあいいわ。今日は貴女に話があってきたのよ」
エレナは眼鏡の位置を直すと、持っていた鞄から一枚の紙を取り出した。
「貴女、ユーネルディア伯爵家の長女なんでしょう。人的資材になっていたなんて可哀想にね。でも、家籍復帰の申請書をもらってきてあげたから。ここに署名すればあとは私が手続きしてあげる」
シトラの目の前に書類を差し出しながら、エレナは微笑んだ。
「……なぜ?」
シトラは手をまったく動かさなかった。
書類を受け取る代わりに問いかけると、微笑んでいたエレナの目が険しく見開かれる。
「なぜですって? 随分と愚かなことを聞くのね。自分の立場が分かっていないのかしら」
大仰な溜息を吐いて、エレナは片眉を上げ、シトラを視線だけで見下ろした。
「貴女、クレイスが今、王宮でなんて言われてるかご存知? 氷の筆頭が謎の女に狂って出仕しなくなった、って言われてるの。まったく、根も葉もない噂でいい迷惑だわ。でも人々はそう思わない。政敵にとっても都合のいい噂でしょうね。筆頭閣下の名誉を汚すにはもってこいってわけ」
頭を思い切り殴りつけられたような、衝撃を伴う痛みがシトラを襲った。
彼の、途方もない誠実さと温かさ。その極地にあるような噂の内容に、彼の尊厳が踏みにじられている。それを引き起こしているのは、ほかでもない、自分の存在だ。
寒気がして、シトラは自分の体を抱きしめた。
「その様子だと、やっぱり知らなかったみたいね」
エレナは呆れたような口調で言い放った。
「わかったでしょう? クレイスは貴女に気を遣っているのよ。回路を刻んだ責任だか何だか知らないけれど、まるで壊れ物を扱うみたいに神経を削ってね。彼は、自分の名誉や存在意義を代償にしてまで、あなたを庇おうとしている。本来なら彼自身も望まないことにも拘らず、筆頭としての責任感がそうさせるのね。……側で見ていて痛いくらいよ。貴女も、まともな神経の持ち主なら、申し訳ないと思うでしょ」
エレナの言葉は、一つ一つを取り出せば、自分が考えていたことと大差ない。論理としても概ね筋は通っていた。
シトラは黙って彼女の言葉を聞いている。
申し訳ないと思うかなんて、問われるまでもない。消えてしまいたいくらい、苦しい。体が内側から裂けそうなほどに。
「彼の才能――いえ、才能なんて生ぬるい言葉では到底表せない、神授の才とも言うべきものを、貴女も知っているでしょ。学院での彼は、それはもう、寝食を忘れるほど研究に没頭していたわ。幸せそうだった……」
エレナは遠い目をして呟いた。
「筆頭になってからはその力を国のために発揮して。輝いてた。それが今やままごとに興じるばかり。溜息をついたり、暗い顔をしたり……なぜかはわかるわよね。貴女がいるから、彼が望む、世界の理の考究を諦めざるを得ないからよ」
鋭い声で告げ、エレナはシトラを睨みつけた。
「理解したなら、さっさと署名して。あなたは伯爵家の家籍に復帰できる。彼は責任感から解放される。いいことずくめでしょう」
いいことずくめ。
シトラは、笑った。
「何がおかしいの」
虚を突かれたように、エレナは眉根を寄せた。
「だって、エレナさん。それってあなたの感想じゃないですか」
「なんですって!?」
シトラの胸の中に、黒い炎が燃え上がる。
「本来なら彼自身も望まない? 彼に直接聞いたんですか? 聞いていませんよね。あなたはただ、自分の思うように私の感情を制御して、罪悪感を抱かせたいだけでしょう。そうしてここから追い出して、あなた自身の安寧を得ようとしている。その目的に合う、都合のいい材料を持ってきて並べて、責任を回避するために『貴女のため』『クレイスのため』って善意に見せかけて包んでいるだけ。でもそれって、欺瞞でしかない」
「……ッ、貴女ねぇッ!!」
激昂したエレナがわなないた。シトラは構わず言い募る。
「噂に関してもそうです。情報は複数の出所を確認するのが鉄則ですよ。あなたの言っていることは一側面から見たら確かにそうかもしれない。だけど、その内容が印象操作されてない保証はどこにあるんでしょうか。あなたの言うことだけ聞いて、そのまま鵜呑みにして信じるとでも思いましたか。残念だけど、私は自分で確かめないと、気が済まないんです」
シトラは言い切って、エレナを睨み返した。
顔を真っ赤にさせ、唇を歪ませたエレナが、音がしそうなほどに歯を噛みあわせているのが見えた。それを驚くほど冷えた気持ちで見やりながら、シトラは静かに息を吐く。
「……言ってくれるじゃないの。ええそうよ。貴女を舐めてたわよ。ただ庇護されるだけの能無しだと思ってた。そうでしょ? 実際貴女はクレイスなしじゃ何もできないんだから。なのにまさか恩人の補佐官にこんな、暴言を吐くような野蛮な本性だとは思わないでしょうよ。外面の良さに騙されたわ」
憎々しげにエレナはシトラに吐き捨てた。
「それじゃ貴女は、なにがなんでも、署名しないというわけね」
「署名はしません。でも」
立ち上がり、シトラは手に持っていた手紙と杖を、卓に置く。
「出ていきます」
エレナは目を剥いたまま、シトラを凝視した。
「私は誰にも心の自由を奪わせない。これはあなたに制御されたから出ていくんじゃありません。私が、私の意思で出ていくんだ。クレイスがたとえ悲しんだって、それでも、このままじゃ私が嫌だから出ていく。ただの私のわがままなんです」
感情のままに投げつけて、エレナを振り返りもせず、シトラは玄関へと向かった。




