1-1. 慟哭(1)
朝日が白々と射し込む清々しい回廊を、エレナは靴音高く闊歩していた。すれ違う人が礼をし、エレナは爽やかに挨拶をする。
気持ちのいい朝ね。
自然とエレナは笑みを浮かべた。
本来であれば出仕する必要のない休日であったが、筆頭が出仕するのであれば首席補佐官である自分がいるべきだ、との考えで、休日を返上して朝早くから彼女は登城していた。凡愚な副補佐官どもに彼に関する仕事を任せてはおけないという使命感。それに、最近着任した若い女文官が、隙あらば彼に近づこうとしている。執務の場に色恋を持ち込むなど言語道断だ。彼の執務に決して支障があってはならない。あの女を隔離し、その分際を教え込めるのは、首席補佐官である自分しかいないのだ。
筆頭宮廷魔術士の執務室に向かう廊下の角を曲がり、エレナは一瞬にして眉をひそめた。
執務室の扉の前に、あの若い女文官がいる。
靴音が一段高く鳴り響き、エレナはあっという間にその扉の前にたどり着いた。
「貴女。こんなところで何の用かしら」
声をかけると、女文官は青ざめた顔で、何かを素早く背後に隠した。
「何を隠したの? 見せなさい」
「あっ、あの……エレナ様には、お渡しできないと……」
癇に障る言い方に、エレナの眉が痙攣した。
「見せなさい。二度は言わないわよ」
低い声で命じると、女文官は泣き出しそうな顔で一枚の書類をエレナに差し出した。
それを指先でつまみ、確認する。
なんだ、とエレナは鼻を鳴らした。
書類にあるのは今日の筆頭の予定表だ。当然すでに知っている。朝から会議があり、昼を挟んで、次期魔術協定の協議。それから魔術士団の――いや。
『ユーネルディア伯爵との面会』
なによ、これ。
体の奥、腹の底から灼けた鉄のような塊がせり上がり、エレナは大きく息を吸った。そのまま、女文官に詰め寄る。
「貴女。筆頭閣下に予定変更を頼まれたわね? いつから?」
「えっ、えっと、あのっ、しばらく前ですが……でも、ほんの数回だけで……」
「数回ですって?」
ぎろりと睨みつけると、女文官は硬直した。
「ユーネルディア伯爵との面会は何度目か答えなさい」
「わ、私が担当したのは、三回です」
三回も。
エレナは奥歯を噛みしめた。
首席補佐官である自分に知らせることなく、いったい何を話してるって言うの。あの、庇護されるしか能のないシトラとかいう女のために、彼が自分を遠ざけ、隠してまで、何かをしようとしている。
――許せない。
手に持った書類を固まったままの女文官に荒々しく押し付けて、エレナは短く息を吐いた。
「クレイスはまだ来てないわよね? 私がこの書類を見たことは彼には内密になさい。それから今日私が出仕したことも。喋ったらただじゃ置かないわよ」
今すぐ神殿に行き、家籍復帰の申請書を出してもらわなければならない。一刻も早く。
震えあがる女文官に背を向けて、エレナは元来た廊下を足早に歩き去った。
◇
「では、行ってくるよ」
クレイスはそう言って、慈しむような、困ったような目をしながらシトラの頭を撫でた。
「うん。気をつけて。無理しないでね。ちゃんと休憩してね。体を労わらなきゃだめだよ」
思わず彼を案じる言葉がこぼれてしまい、シトラは慌てて口を閉じた。
彼の眉が小さく跳ね、ふ、と笑みがこぼれる。
「どうした? 今日はまるであなたが母になったようだ」
柔らかく言いながら、彼は目を細めた。
「なぜだろう。あなたに案じられると、どうにも照れてしまうな。だが、悪くない」
ならよかった、とシトラは微笑んだ。彼の手はいまだ、自分の頭の上にある。シトラはその手に触れて、そっと頭から降ろした。両手で彼の大きな手を挟むようにして、軽く握る。
「いってらっしゃい、クレイス」
彼の、骨ばった長い指先が、慎ましく自分の手を包んで、離れた。
「うん。行ってきます」
くるりと指が円を描いて、魔術式の円環が彼を包んだ。凄まじい数の補助式を、彼はあの小さな円ひとつで描き出す。魔術式の基礎を学んだ今なら、それがどれだけ途方もないことなのかが身に染みて実感できた。静謐の魔術士。王国の至宝。叡智の結晶。そう呼ばれる彼の、恐ろしいほどの技巧。
シトラはまたたきひとつせず、光る無数の円環を見つめていた。初めて見た時から変わらない、とても美しく、大好きな魔術式。それに囲まれた彼の姿が揺らめいて、光る円環ごと、ふっと空間から搔き消えた。
胸が詰まって、動けなかった。
決心は、まだついていない。魔塔を出る覚悟はできていない。理性だけが、早くここを去るべきだと警鐘を鳴らしている。その判断に、体がついていかない。
黙って去ったら、彼は悲しむだろう。
ここで暮らした日々は、嘘ではない。一緒に笑って、ご飯を食べて、お茶を飲んで過ごした時間は、自分だけではなく、彼にとってもきっと幸せな時間だったと思いたい。
できれば、彼に納得してほしかった。こうするのが一番いいのだと、理解してほしかった。でもそれは叶わない。彼の大きすぎる責任感がそれを許さないからだ。
「……優しい人、だなぁ……」
シトラは空気を揺らして笑った。
母と娘という枠組みは、あまりに心地よく、自分の中に欠落していた何かが埋まっていくような気さえした。甘えていいと許されて、それでも甘え方がわからず、遠慮しながら過ごしていた初めの頃に比べると、今は随分と図太くなった。それはすべて、彼がその手を差し伸べてくれたから。
一歩一歩確かめるようにして、シトラは自室へと戻る。扉を開けると、彼が自分のために設えてくれた部屋が目に入った。ふかふかの絨毯、書き物机、衣装棚、天蓋付きの寝台、天鵞絨の長椅子。それをひとつずつ目にとめて、手のひらで撫でていく。彼が自分のためにどれだけの用意をしてくれたのか、シトラは帳簿を見て知っていた。それを無下にしてしまうのは、心苦しい。もしかしたらこのまま、彼に庇護され、何も知らないふりをして生きていくほうが、自分にとっても彼にとっても幸せなのではないだろうか。
本当にそうだったらいいのに。
自嘲の笑いが洩れ、シトラは書き物机の引き出しを開けた。昨日書いた手紙を取り出し、閉める。そして、机の上に置かれた白樹の杖を持った。何度か、専用の杖を作ろうと言われたのを断り、使い続けていたその杖は、もはやシトラの体の一部のように馴染んでいた。しかしそれは自分のものではない。彼のものだ。
小さな鞄を衣装棚から取り出すと、財布と地図を入れ、斜めに掛けて扉へ向かう。最後にもう一度だけ部屋を見回して、シトラは自室を出た。
長椅子前の卓に、手紙と杖を、並べて置く。
そのまま玄関に向かおうとして、居室と玄関広間の途中で、足が止まった。
立ち尽くすというのは、こういうことを言うのだな、とどこか他人事のように思いながら、シトラは床からわずかも離れない足を、呆れたように眺めている。
どれくらいそうしていたのか、正確な時間はわからない。
諦めたシトラが暖炉の前の長椅子に座った時には、すでに夕方に差し掛かる前の昼下がりだった。今日はもう、出て行くことはできないだろう。明日になれば彼はしばらく休みを取ると言っていたから、魔塔を去る機会はしばらくないかもしれない。彼が出仕する日はルカが来るから、去ろうとすればきっとルカにも止められる。
もう無理だ。出て行ける機会がない。いいじゃないか、出ていかなくたって。
シトラは卓の上に置いた手紙と杖を手に取り、力を抜いて、目を閉じた。




