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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
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6-2. 雷雨の塔(2)


     ◇


 クレイスが帰ってくるまでに、シトラは書庫に積まれていた過去の新聞記事の見出しを、できるかぎり広く確認していった。しかし、ユーネルディアという家名が載った記事はひとつとしてない。日付がたびたび飛んでいるのは、もしかしたらクレイスが処分した後だろうか。さすがにそこまではしないか、と思いながら、シトラは痕跡が残らないように、新聞を元あったようにまとめ直して書庫を出る。


 新聞がだめなら、とシトラは思考を巡らせた。だが、次の手を試すには時間が足りない。大窓から射し込む光が黄金色を帯びていて、シトラは再び羊皮紙を広げ、羽ペンを手に取った。深呼吸を一つして、円を描く。手が震えないよう、美しい円を描くよう集中する。始点と終点を合わせるように。そうして円環が描けたら、次は魔術式を一息で淀みなく書ききる。


 大丈夫。落ち着いてきた。


 強張っていた肩から力を抜いて、シトラは首を回した。ペンを置き、唇の端を指で引き上げる。顔全体を揉みながら笑顔を作る。大丈夫。大丈夫。


 シトラはクレイスが帰宅するまで魔術式の練習を続け、彼が帰宅した後は魔導書を読んで過ごした。いつものように夕食を食べ、眠り、翌日の午後、彼に「いってらっしゃい」と声をかけながら頭を差し出して、ひらひらと手を振った。


 そうしてまた、ひとり魔塔に佇んでいる。


 昨日の荒天が嘘のような、晴れやかな天気だった。大窓の外は雲海もなく、薄い靄を透かした地上がぼんやりと見える。途方もない高所にいる、ということがまざまざと思い知らされ、シトラは知らず一歩退いていた。その流れで、覚悟もないままに彼の執務室へと足を向ける。


 大書架をくり抜いたような廊下は薄暗く、足音も虚空に吸い込まれるようだった。心音だけがやたらとうるさくて、それがひどく不快でならない。執務室の扉の取っ手に指をかけ、押し回すと、明るい光と共に扉が開いた。鍵はかかっていない。


 広い窓から降り注ぐ日の光が、壁一面の書架と執務机を照らしていた。シトラは書架を眺める。歩み寄ると魔導書の棚の下に、帳面がまとめて整理されていた。指先で帳面の背を撫で、薄い帳面を適当にひとつ抜き出して表紙を見る。そこには王国歴だけがぽつんと記されていた。三年前。


 ぱらり、と中をめくる。

 それは、魔塔の、あるいは彼個人の財政を記した帳簿だった。


 シトラはその帳簿を閉じ、いくつもある帳簿の中から最新のものを探す。今年を示す表紙の帳簿は一番端にあり、シトラはその帳簿を引き抜くと行儀も考えず床に座り込んだ。膝の上でゆっくりと帳簿を広げる。


 端正な筆致だった。散文形式の取引記録だが、金額と摘要が分かれていて見やすく、金銭の流れが追いやすい。シトラは自分が来た日からの流れを丹念に追った。どこかで不自然な出費が行われているはずだ、という確信があった。


 しかし、それは見つからない。


「……おかしいな……」


 見つからないのは、ユーネルディア家再興の資金源が彼ではないという証だと思える。でも、そんなことがあるだろうか? 王宮でわざわざ噂を流し、圧をかけていたのは、彼に金銭をたかるためではなかったのだろうか。


 シトラは下唇を摘まんでこれまでの思考を整理する。

 生家は、自分を探しているように『見せている』。自分を取り戻すことが目的ではない。取り戻したかったら、名前を出さない理由がない。では、誰にそう見せているか。当然、自分を匿うものに対してだ。商会主のセルヴァンは、自分が筆頭に連れていかれるところを目撃している。商会主は生家から自分を買ったのだから、売り主の生家に文句の一つも言うだろう。であれば、生家が自分の居場所を把握しているのは自然な推測だった。



 ユーネルディア家は、クレイスに接触している。



 生家が自分の魔力回路についてどこまで知っているかはわからない。しかし、エレナが自分を彼の弟子だと認識している以上、何らかの経路で伝わっていてもおかしくはない。


 もし伝わっているのなら、生家は自分を取り戻そうとするだろう。全属性という果実を手にし、その果実を高く売りつけるために。いや、取り戻さなくともいいのだ。今の持ち主に『買わせれば』いいのだから。

 そして、ユーネルディア家は、一度手放した領地を取り戻す。


 シトラはもう一度、帳簿に記された取引記録をひとつひとつ辿った。

 魔塔の維持管理に必要な触媒、各階の明かりのための魔結晶、食料、嗜好品、大量の菓子の発注……。


 ある時期から、細々とした日用品の取引が増え、その摘要欄には『シトラ』と記されていた。衣服、小物、家具、茶器に筆記具に高級羊皮紙。そして菓子。


 その品名は、トゥナーシュではなく、ドーナツ。


 シトラは吐息を落とした。

 瞳が揺れ、震える指先で帳簿をめくる。


 クレイスの研究費。書籍、触媒、魔結晶、霊草。筆頭宮廷魔術士としてふさわしい、文字通り桁違いの巨額な研究開発費だ。その金額の大きさは、投資を惜しまない彼の印象を裏付けていた。摘要欄には古代語が記されている。『Purgatoria Opaca』。


「えっ」


 帳簿に顔を近づけた。摘要欄には確かに、プルガトリア・オパカの文字。庭園の研究室でパーゼルに教わった廉価品だ。


『筆頭閣下の研究には、役に立たないだろうな』というパーゼルの自嘲めいた呟きが耳元に蘇った。


 激しい動悸に眩暈がした。


 たまたまかもしれない、と自分でも信じていない呟きをして、金額を確認する。単価、数量と合わない巨大な額。それだけではない。彼の研究費として記されているものの多くが、パーゼルの研究室で目にした、あの代替可能品一覧に載っていた材料だった。シトラは覚えている。あれらの単価がどれだけの額だったか。


 摘要欄の数量と掛け合わせなくとも、その差額は明らかだった。そしてその差額がどこに消えたのかも。


 全身に石をくくりつけられたような重さがのしかかっていた。よろよろと立ち上がり、前年の帳簿を取って確認する。クレイスの研究費の総額は変わっていない。摘要欄には廉価品ではない、本来彼が用いるべき材料名が並んでいる。前々年の帳簿も、その前も、廉価品は一度たりとも記されていなかった。


 シトラは沈黙する。

 静かに潮が引いていくように、全身の血が、魔力が、どこか手の届かないところに遠ざかっていく気がした。


 自分の体が借り物のようで、帳簿を抱く手の感触がない。シトラは数年分の帳簿をまとめて重ねると、ぎこちない足取りでクレイスの執務室を後にした。


     ◇


 居室の長椅子の前の卓に、帳簿を積む。その前に腰を下ろして、シトラはクレイスの帰宅を待った。


 何を言えばいいのか。

 執務室に勝手に立ち入り、勝手に帳簿を見た。

 彼は咎めないだろう。もし謝っても『鍵をかけなかったのは私だ』と責任を己に引き受けるに違いない。


 彼の信頼を踏みにじり、そして、彼の庇護を壊そうとしている自分は、正しいのだろうか。


 わからない。


 しかし、このままでいいはずがない。

 なぜなら――


 シトラは、大書架を見上げた。紙飛行機を、そして魔導書を、ベルヌーイの定理を知らぬまま鳥のように飛ばしていた彼の、少年のように上気した顔。自らが飛ばした本たちを首を巡らせながら満足そうに眺め、微笑んでいた姿。


 彼の愛する知的探求に費やされるべきものを、彼は今、手放している。回路を刻んだというだけの、魔術の基礎も修めていない存在のために。


 焦点を結ばない視界が、蜂蜜色から橙に、朱に、薄闇に染まっていく。その意味が、シトラにはわからなかった。

 やがて月光が仄かな影を落とし始めた頃、シトラの耳に衣擦れの音が聞こえ、名前を呼ばれたと同時に明かりがつく。


「どうした、こんな暗い――」


 焦ったようなクレイスの声が、引き攣れて止まった。

 彼の足音は聞こえない。


「……おかえり、クレイス」


 シトラは首を持ち上げるようにして彼に笑顔を見せた。クレイスは離れたところに立っていて、長椅子前の卓に落ちた視線が、揺らぎない、しかし滑らかな軌跡でこちらに向いた。


「知ってしまったんだね」


 何を、とは言わなかった。

 頷くと、彼はなぜか、ふふ、と軽い笑いを洩らす。


「あなたに隠しおおせるはずもないと、わかっていたが。そうか……」


 シトラが立ち上がり、息を吸う。彼に思いをぶつけるために。もうこんなことはやめて、あなたの大事なものを削らないで、

 その思いが喉をこすり、声帯を震わそうとした時、


「だが、残念ながらこの件に関してあなたにできることは何もない」


 クレイスが冷えた声で告げた。


 出掛かった声が喉元で粘りつき、止まる。


「あなたの身柄は公的にも私の預かりだ。魔塔の滞在者として署名をしたあの時、身柄の安全に関する権限は、あなた個人から魔塔主に移行している。それが筆頭である魔塔主としての責任だ」

「でもっ……!!」


 悲鳴にも似た叫びが響いた。

 彼は顔色一つ変えずに、静かに告げる。


「ここでは私が法であり、規則だからね。私が決めさせてもらうよ」


 魔塔特定個人同格化措置法を制定したものと同じ口が、淡々と言葉を紡いだ。


「さて、遅くなったが夕餉の支度をしよう。明日は朝から出仕だが……」

 クレイスはこちらを見下ろし、ふわりと微笑んだ。

「何も心配要らないよ。どうかあまり心を痛めず、いい子で待っていて」


 彼の手が頭に落ちて、そっと、労わるように優しく髪を梳いた。親指がこめかみを撫で、強張った体をほぐすように、何度も、何度も肌の上を往復する。


 シトラは動けなかった。やがて彼が諦めたように離れ、台所に向かっても、その足が動くことはなかった。


     ◇


 自室の絨毯を踏みしめると、長い毛足が包み込むように沈んだ。

 寝台には向かわず、シトラは美しい艶を帯びた書き物机の前に座る。彼が用意してくれたインク瓶が、魔導燈の明かりを反射して光っていた。それを引き寄せ、蓋を開ける。仄かに酸っぱく、鉄っぽいインクの匂いの中に、お菓子や花を思わせる甘い香りが品よく漂っていた。香りづけされたインクに羽ペンの先を入れ、白く薄い羊皮紙に円を描きこむ。そのペン先が、半円を描いたところで止まり、線が歪んだ。


 何も、できない。


 何も。


 クレイスの態度は、強硬だった。夕食の席で、彼は一切、自分にその話をさせようとはしなかった。代わりに、明後日からしばらく休みを取るから、あなたのしたいことをしよう、馴染みの店から東国の茶器を仕入れたと連絡が来たから持ってこさせよう、いや見に行くほうがいいか、など、シトラの好むものについてを彼は話し続けた。


 彼がこの件に自分を関わらせるつもりがないことは、もう、よくよく理解している。

 もしそれでも『ユーネルディア家の……』と話したら、どうなるか。


 シトラはペンを置き、睫毛を伏せた。


 彼はまず『あなたは気にしなくていいんだ』と遠ざけようとするだろう。先ほどのように。そして自分がなおも食い下がった場合、彼はおそらく、対処を変える。


 生家の再興資金がクレイスの私財から出ているのは、明らかだった。彼ほどの人間が、なぜ、父や兄のような男の言いなりになり、資金提供をしているのか。

 その理由はきっと、自分だ。


 父や兄が、自分の肉親だから。厳しい対処をすれば、自分が負い目を抱く可能性をふまえ、最も穏便な手段を取っているに違いなかった。彼の優しさが、彼自身を削っている。


 それをやめてくれと懇願したら、彼はやめるだろう。そうして別の、二度と自分の目に触れない苛烈な方法で、今度は彼自身の名誉を汚しながら、対応するのだ。


 自分が魔塔から出ていくという選択肢を、与えもせずに。


 シトラは流れる涙を手の甲で雑に拭った。新しい紙を置き、ペン先をインク瓶に浸して、一文字一文字を丁寧に綴る。これまでの感謝を。勝手な行いの謝罪を。彼の行く末の祈りを。そして、この魔塔での日々が、自分にとってどんなものであったかという言葉を。


 出て、いきたくない。


 出ていきたくなんてない。


 ずっとここにいたい。


 どう考えても、出たほうがいいのはわかっている。それでも、出ていきたくない。


 シトラは手紙をしたため、ペンを置いた。乾くのを待って折りたたみ、封筒に入れて、封蝋をする。それを引き出しにしまうと、叫び出しそうな喉を両手で押さえながら、俯いた。




第3章お読みいただきありがとうございます。

本日は第4章1話までの更新、完結は4/10金曜日となります。

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