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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
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6-1. 雷雨の塔(1)

「あ」


 羊皮紙の上に、ぽたり、とインクが落ちた。


 歪みのない円を描くため、また、円環の中に淀みなく術式を書きこむために、シトラは毎日のように羊皮紙に魔術式を描く練習をしていた。綺麗な円を描くのは難しい。特に始点と終点がずれてしまうと魔力の圧が抜けてしまい、魔術式としては使い物にならなくなってしまう。


 シトラは羽ペンを置き、書き損じた羊皮紙をそっと脇に除けた。その近くをクレイスが通り過ぎ、指先一つで魔導燈を点けていく。振り返って大窓の外を見ると、そそり立つような暗雲の壁が間近に迫っていて、みるみるうちに窓が暗い灰色に呑まれた。同時に、窓に雨粒というにはあまりに暴力的な水滴が打ちつけられ、滝の中を透かして見るような光景に変わっていく。


 白く鮮烈な光が走った。

 雷の音はしない。


「……塔の上の雨って、独特だよね」


 無音の暴風雨が硝子を洗う中、シトラは大窓に歩み寄った。

 穏やかな雨雲であれば、雨というよりも重い霧のようで、窓硝子に雨粒はあたらず、なのにいつの間にかじっとりと濡れて流れていく。それに対し雷を伴う雲は地上にいる時よりも極めて荒々しい。時には雹を伴い、硝子を破るのではと思うほどの粗暴な振舞いを見せるのだ。


「雲の中だからね。結界が音や衝撃を消してくれているが、それが無ければ轟音が鳴り響き、塔は崩壊するかもしれない」

 彼は淡々と、本来あるべき姿を告げた。


「一度、結界を解いてみようか?」


 微笑みを滲ませた穏やかな声は、とんでもないことを言っている。

 振り返るとクレイスが、今まさに、指を立て、空中に魔術式の円環を描きこまんとしていた。


「待って!!!」


 飛びつくようにしてその手に縋りつく。がっしりと確保し、固定し、絶対に魔術式を描かせない、という強い意志を持ってシトラはクレイスの手をしっかりと握りしめた。


 くっ、という忍び笑いが頭上から降ってくる。

「…………冗談だよ」

 クレイスは堪えきれなくなったとでもいうように、喉の奥でくつくつと笑い声を立てた。


「ちょっと! 冗談の質がひどすぎる!!」

 笑われたことで恥ずかしくなり、シトラは顔が熱くなるのを感じながら、ぱっと彼の手を解放した。


「ごめん。いや、すまない。そこまで怖がるとは思わなかったんだ」

 彼は愉快そうに笑って、機嫌を取るかのようにシトラの頭に手を置いた。

「この魔塔は、筆頭がいなかった時代の薄い結界ですら耐えていた。その上、今は私が毎日結界を管理しているからね。この塔に居ればどんな嵐が来ても安全だよ」


 クレイスの指先が髪を梳き、こぼれ落ちたひとすじをすくってシトラの耳の後ろにかけた。彼の手が耳の輪郭を掠め、耳朶にたどり着き、そのまま流れるように離れていく。彼のひんやりとした指先が羞恥の熱を吸い取ったように感じて、シトラは「もう」と言うだけで許した。


「王宮、そろそろ行く時間でしょ? のんびりしてていいの?」

 昼過ぎには出ると言っていたのに、壁に据えられた時計は既にその時刻を過ぎている。

「うん。もう行かなくてはね。……本当に一人で大丈夫かな」

 彼は椅子の背にかけていた正装の白い長衣を手に取ると、うかがうようにこちらを見つめた。


「この塔に居れば安全って、クレイスが言ったばかりじゃない。それよりルカくんのほうが心配だよ」


 普段、彼が出仕するときはルカが魔塔に来てくれているが、ひどい風邪をひいたらしく、しばらく魔塔には来られないと使い魔の連絡があった。家族と暮らしているはずだから食事の心配はないだろうが、体調の悪化で彼の感覚がより鋭敏になっているのではという心配がある。


「そうだね。あの子もこのところよく頑張っていたし、しばらく休ませてやりたい。しかし、そうなると今日ばかりか、明日も明後日もあなたを一人にしてしまうが……」

「平気だよ。本当の子供じゃないんだから。それに、忘れた? 私がこの塔に来たばかりの時、クレイスは主要国会議の最中だったんだよ。あの時だってずっと一人で過ごしてたんだし」


 彼は痛ましげな顔をして、そうだったね、と呟いた。


「それでは、行ってくるよ。夕餉までには帰る。無理をしないで」

 長衣を羽織ると、クレイスはシトラの頭をくしゃ、と軽く撫でた。指先が髪に差し込まれ、揉むような仕草で頭の丸みを確かめている。


 無理をしないでほしいのはクレイスの方なのに、と思いながら、シトラはされるがまま彼を見上げていた。王宮で彼がどんな仕事を抱え、何と相対しているかを自分は知らない。しかし、彼は以前よりも自分に触れることが多くなった。まるで癒しを求めるかのように。その大きな手のひらで生き物の温もりを確認し、安堵したように息を吐く彼の心にかかる重圧はどれほどのものなのだろう。


 この一撫ででそれがわずかでも和らぐのであれば、いくらでもこの頭を差し出したい、とシトラは思った。


     ◇


 大窓から断続的に射し込む白い閃光が、室内を無音映画のように浮かび上がらせていた。


 轟音がないのが救いだった。それでも、フラッシュが焚かれるような強烈な光は、人間の奥底にある本能を恐れさせる。彼が消えた後の魔塔は衣擦れの音もなく、その静けさが却って無気味だった。


 シトラは「はあ」と声を出しながら溜息を吐き、書き散らした羊皮紙を音を立てて積み直す。卓の上にはクレイスが残した読みかけの新聞が置いてあり、それを手に取るとかさりと乾いた音が鳴った。わざと音を立てながらシトラは膝の上で新聞を広げる。


 まず目に入ったのは、来年から会計帳簿提示が義務化されるという報道の続報だった。自分がクレイスに話した思い付きが、形となり、こうして新聞に載っている。報道には賛否両論がまとめられていて、これまで税の見積もりを過分にされていたのではという懸念の払拭に繋がるという意見や、手続きが煩雑になることへの不安などが掲載されていた。あの思い付きがこの世界にどのような影響を与えるのか、実際のところはまだわからない。それでも、不正の抑止効果があるだろうことは確かで、シトラは来年以降の変化を、祈るような気持ちで思い浮かべた。


 新聞は様々な出来事を記している。帝国との通商協定更改交渉、近衛騎士団の新規採用試験の日程、地脈観測所の年次報告書が公開されたこと、人気の吟遊詩人が地方巡業から帰還したこと。特に、『子供たちの間で「魔導燈のつまみ早回し競争」が流行。親は困惑』という記事には思わず笑いが漏れてしまった。


 シトラは次の面に視線を移す。


『ファルケノン侯爵家、魔石鉱山の採掘権を更新』

『ユーネルディア伯爵家、旧領地の買戻し手続きを開始』


 息が詰まった。


 動けない。


 目線だけが、記事の文字を追っている。なのに内容が頭に入ってこない。事実の羅列だ。自分が売られた後、それでも財政悪化で手放さざるを得なくなった一部の領地。それを権利者から買い戻すというだけの記事。


 手が震え、シトラはゆっくりと新聞を置いた。紙と紙が空気を含んで合わさり、かさ、と沈んだ。


 又聞きで噂を耳にした後から、ずっと、どうにかしてあの憶測を否定したいと思ってきた。王宮に行っても噂の内容に触れることもできず、ただ、この魔塔の中で空を眺めながら細い糸のような希望に縋っていただけだった。

 その糸が、ぷつん、と切れる。


 シトラは両手で顔を覆った。


 いったい、自分は、何をしていたのだろうか。


 クレイスから与えられる庇護の中で、ぬくぬくと過ごし、笑い、安堵していた日々。それは、ここにいることの意味から逃げていた時と、何も変わらない態度ではなかったのか。彼への影響を何も考えず、いや、敢えて考えないようにして、今現在の幸福だけを享受していた。彼が許してくれているから、という理由を言い訳として掲げて。


 室内に閃光が走る。二度、三度。


 シトラは顔を上げた。長椅子に背中を預け、深く、深く息を吐く。

 ユーネルディア家が再興しようとしている。生家の財政難はシトラが一番よくわかっていた。あの状態から新たに資金源を見つけることは困難だろう。ただ一つを除いては。


 だが、彼に突きつけることはまだしない。証拠が足りない。新聞記事ひとつでははぐらかされる。


 ふいに、居室が明るく照らされた。振り返ると雷雲の境目が見える。雲が塔から抜けたのだ。


 シトラは立ち上がり書庫へと向かう。過去の新聞すべてに目を通す必要がある、と思った。


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