5-2. 目的(2)
ルカからの又聞きではなく、噂そのものを聞くことができれば、もしかしたらあの憶測が外れていると思えたかもしれない。王宮に来れば機会があるかもと思っていた。でもそれは間違いだった。
機会なんて初めからあるはずがなかったのだ。クレイスが、そんな噂を自分の耳に入れる隙を作るわけがない。彼は当然その噂を把握しているだろう。なのに、自分を王宮へ誘った。その時点で彼の中では、噂から遠ざける算段が付いていたはずだった。
「よく考えれば、当たり前だよね」
自分の甘さに嫌気がさしつつ、クレイスの周到さにしてやられた気がして、シトラは唇を尖らせる。彼がその気なら、こちらも別の手を考えるしかない。
「でも、一人で出掛けるのはダメって言われるだろうし……」
これは詰んでいるのでは、と思いつつ、シトラは尖らせた下唇を摘まんだ。
その視界の端を、何かが横切った。
半透明の、丸いぽよぽよ。
「えっ?」
見ようと視線を向けると、消えている。
あれは風の精霊……だったよね?
魔塔の裏手の森で出会った彼らは、人間とは違う節理の中で生きる、自然の中に息づく存在だった。彼らに挨拶をしたことで、シトラはその姿を見ることができるようになった。しかし、基本的に彼らは自然の中にしか存在しない。王宮の庭園とはいえ、人の手が入っている場所に住んでいるなんていうことは……。
足が自然とそちらに向いた。
立木の近く、白と薄紅の花が咲き誇る花畑の近くに、蝶が二羽、踊るように飛び交っている。なるほど、とシトラは頷いた。
風の精霊は風の魔力が長い間滞留して生まれることが多いと、精霊術の魔導書には書いてあった。魔力は本来であれば消費され、時間の経過とともにカンテサンスへと還るが、動物は人間と違い、魔力使用効率が良くない。虫や鳥などが生み出した風の魔力のうち、消費されなかった分が長い時をかけて集まり、なんらかの切っ掛けで精霊になる、とシトラは理解している。
「ここはもしかして、古くから変わらない庭園なのかな」
花畑の端に膝をつき、草の陰に風の精霊がいないか覗き込む。
「風の精霊さん、いますか? ……わぁっ!」
そっと呼びかけると、後ろから突風が吹いて、シトラの髪が全部前に被さった。
精霊流の挨拶は、相変わらず理解が難しい。
ぐしゃぐしゃに乱れた髪を手櫛で直していると、丸い風の精霊が、どことなく楽しげに漂いながらシトラの前に現れた。
楽しいなら、まあ……いいか。
可愛らしい風の精霊が転がるさまを、シトラは苦笑しながら眺めている。風の精霊は地面近くを転がって、それを目で追っていくと、ふいに、兄弟のような白くて丸いもふもふが現れた。
シトラは目を瞬かせる。
「綿毛だ……」
風の精霊の隣に、全身(?)綿毛に包まれたような、丸い子がいる。頭の上に薄紅の花びららしきものがついていて、風の精霊と同じく、つぶらな瞳がふたつ、こちらを見上げていた。
「か……可愛い……」
その愛らしさに、きゅん、と胸が跳ねてしまった。風の精霊も可愛らしいが、白いこの子もまた、なんとも言えない味わいがある。
「こんにちは。私、シトラです。あなたは花の精霊さん?」
花の精霊――違うかもしれないが、そう決めつけた――は、ほわんほわんと跳ねて、まるで自分のことを歓迎してくれているようだった。そのすぐ目の前を風の精霊が転がって、ふたりで戯れているのか、それとも思うままに遊んでいるのか、どちらにせよ、可愛いものと可愛いものがじゃれあっているようで、すごく、非常に、極めて、たまらない。
つん、とつつきたい衝動にかられ、シトラはそれをぐっと堪えた。代わりに、腹ばいになって精霊たちの前に顔を寄せ、幸せな光景を思う存分堪能する。草の青い匂いと、かすかに漂う野花の甘い香り。少し湿った土の匂い。地面から何本も立ち上がる茎の前で精霊たちはころころと揺れ、それを眺めるシトラの背中は陽射しに照らされて、うっすらと汗ばむほどに温かかった。
その陽射しが、ふいに翳る。
揺れていた精霊の姿が一瞬にして搔き消えた。
「へぇ、筆頭閣下のお弟子さんは、地面に寝転がる趣味があるんかね?」
面白がるような口調に慌てて振り向くと、太陽を背にしたパーゼルが、にやりと唇の端を持ち上げてこちらを見下ろしていた。首元で結んだ、肩より長い濃茶の癖っ毛が風に吹かれている。
シトラは左手首を確認した。腕輪はつけている。どうして?
慎重に立ち上がりながら左手首の腕輪に触れ、シトラは「こんにちは」と頭を下げた。
「うん、どーもね。こないだぶり」
軽薄とも思える口ぶりで、パーゼルはひらひらと手を振った。
「不思議そうな顔しちゃって、まあ。いやんなっちゃうね、こうも純朴だとからかいたくなっちまう」
宙を舞ったパーゼルの手が、腕輪を指し示す。
「それ。オレが作ったの」
シトラは、腕輪とパーゼルの顔を行き来するように視線を往復させた。
「嘘じゃないよ? オレ、魔導具も作るからさ。あいつから聞いてない?」
「えっと……」
聞いてない。まったく。
言葉にする前に顔に出たのか、パーゼルは「あいつめ、警戒しやがって」と短く言い捨てて、シトラに向かってにっこりと胡散臭い笑顔を作った。
「クレイスから、お前さんを休ませてやってくれって言われてるんだ。ついて来なよ」
反応を待たず、パーゼルはひとり歩き出す。シトラは体の全面についた乾いた土や短い草の葉を急いではたき落とすと、慌ててその背を負った。
水路にかかった小さな橋を渡り、明るい木立の中を抜けていく。木陰に入ると涼しく、爽やかな風が吹いて、汗ばんだ背中がすうっと冷えていった。
(この人は……私が全属性適性だって、気付いたんだろうか)
温室に向かう小道を歩きながら、シトラはパーゼルの後ろ姿をじっと見つめた。魔塔でクレイスがパーゼルを追い出したのは、ルカによれば、全属性を隠すためだったということになる。でも今日クレイスは、自分がパーゼルと二人きりになる状況を許可している。気付かれる危険性があるのに?
『くどいようだが、決して魔術を使おうとしてはいけないからね』
初めて子供をおつかいに出すときのような、心配そうな彼の念押し。
そうか、とシトラは胸元を押さえた。首飾りの石が素肌に当たる。
クレイスはきっと、自分を一人にしておくのが心配で、友人に自分を託したのだ。そして杖を取り上げ、首飾りを渡し、魔術を使うなと言い含め、秘密が気付かれないようにして。
(……過保護だなぁ)
シトラは呆れるような、嬉しいような複雑な気持ちで目元を緩めた。




