5-1. 目的(1)
雲海を突き抜けるようにそびえる魔塔の最上階は、ひどく静かで、風の音ひとつしない。
シトラは、ルカの口からほつれ出た『ユーネルディア』という生家の家名に、頭のほとんどを侵食されていた。確かめなければ、でもどうやって、という、とりとめのない思考がぐるぐると巡り、『解なし』と結論付けては、見落としがあるかもしれないと同じ筋道をたどっている。
「本当に大丈夫? 顔色悪いですよ」
下から覗き込むようにして、翠のくるりとした瞳がシトラを見上げた。
大丈夫だ、と答える前に、覗き込んでいたルカの顔が強張り、すっと視界から消える。先ほどまでぴったりとくっついていた彼の体が、あっという間に、長椅子の端まで退いていた。
顔を上げると、前髪を掻き上げてどことなく気だるげな顔をしたクレイスの姿があった。
「あっ、おかえり、クレイス」
気取られないようにと意識したせいか、却って明るすぎる声が出てしまい、シトラはごまかすように立ち上がる。
「ああ……ただいま、シトラ」
彼は白い長衣を脱ぐと、向かいの長椅子の背にかけて、そのままこちらに歩み寄った。ぽん、ぽん、と彼の大きな手が後頭部からうなじにかけて二回、滑り落ちる。
「ルカも、急にすまなかったね。もう帰って構わないよ。明日に備えて、今日はゆっくり休むように」
「はいっ。明日はよろしくお願いします!」
ルカはクレイスに魔術士の礼をすると、こちらに向かって、「シトラさん、またね」と手を振って居室を出て行った。扉の向こうに消えるルカの背に手を振り返しながら、シトラは台所で茶の用意を始めるクレイスに向き直る。
「明日って、何かあるの?」
その問いかけに、彼は一瞬沈黙した。
「……明日はね、王宮でルカの定期演習があるんだ。彼は、筆頭の……公的な弟子だからね。半年に一度、演習義務があるのさ。さすがに私も、明日は師として立ち会わねばらならない」
鉄瓶の蓋が開けられ、水がこぽこぽと注がれた。
公的な弟子の定期演習。同じ筆頭の弟子であっても、自分には無関係な公務。
そこまで考えた時、ちり、とシトラの胸に小さなひび割れができたような、わずかな痛みが走った。
やだな、とシトラは胸を押さえる。年甲斐もなく、立場の違いに焼きもちを焼いているらしい。そもそも私的な弟子にしてもらっただけでもありがたく、それ以上を望むべくもないのに、随分と身勝手な感情だ。
自分自身に呆れ返り、シトラはひそかに溜息を吐いた。
「一緒に行こうか。王宮に」
吐いた溜息が全部落ちる前に、クレイスの声が届いた。
彼は茶葉の缶を閉め、ことん、とそれをカウンターに置く。
「……いいの? 私が行っても」
シトラは俯いていた顔を上げた。
「勿論だ、何も問題はないよ。ただ、そうだな……幾つか条件は出させてもらおう。ひとつは、認識阻害の腕輪をつけること。これは対象に意識が向かなくなる効果がある。あなたを守ってくれるだろう。二つ目、私が渡す首飾りをつけること。三つ目、決して杖を持っていかないこと。それから、公務中は別の場所で待っていてもらうことになる。それでもよければ、どうかな」
彼はカウンターに手を軽くついて、答えを待つように体を傾げた。
王宮に、行ける。
それは彼が、自分とルカの差をわずかでも縮めようとしてくれたことの証であり、同時に、生家の――ユーネルディア家の画策の正体を、この目で確かめられるかもしれない、ということだ。
「ありがとう。ぜひ、行きたい。お願い!」
カウンターに駆け寄って、身を乗り出すようにしてシトラは言った。その勢いにクレイスは目を見張り、すぐに破顔して、くぐもった笑い声をたてた。
「うん、ならば、準備をしておかないとね。……実のところ、あなたを魔塔に一人残すのは気掛かりだったんだ。手の届くところにいてくれるなら、私も安心できるよ」
クレイスが笑ってくれることに一抹の罪悪感を抱きながら、シトラもまた微笑み返し、カウンターに視線を落とす。彼の背後で、鉄瓶がしゅんしゅんと湯が沸く音をさせていた。
◇
王宮の庭園は人の手が入念に加えられているにもかかわらず、一見それを感じさせない自然さがあった。刈り込まれた植木の代わりに伸び伸びと自由に生えている低木があり、その周りを、野原を思わせる花畑と水路が囲んでいた。白い樹皮の立木がぽつぽつと点在していて、個々の植物を作為的に飾り立てるのではなく、庭園そのものの構造を風景画として見せているような品の良さを感じる。
ひとり美しい庭園を眺めながら、当てが外れたな、とシトラは水路の脇をぶらぶら歩いていた。小川のような澄んだ流れに、初夏の綿雲が揺らめいて映り込んでいる。振り仰ぐと、水面に映ったものよりずっと鮮やかな青と白が飛び込んできて、シトラは眩しさに目を細めた。
本来なら王宮で、さりげなく噂話を聞くことができればと思っていた。侍女や衛兵などに声をかけ、世間話のついでに聞きだせたらと。しかし実際は世間話どころか、視線を交わすことすらできていない。
シトラは左腕にはめた細い金の腕輪に触れ、ついで、襟の下、素肌の上に隠すように着けている首飾りを衣の上から確かめた。
腕輪の効果で、誰も自分を意識しない。しかしもし腕輪をつけていなかったとしても、話はできなかっただろう。何しろ、クレイスが通るだけでみな一様に頭を下げて礼をし、絶対に顔を上げようともしないのだ。
クレイスは彼らに、穏やかな声で「おはよう」と声をかけ、片手をあげて通り過ぎる。その後ろを自分とルカが揃って歩き、姿が見えなくなってから、遠巻きにさざめきが起こるという具合で。
そうしてクレイスは、準備に向かうルカと別れると、王宮の奥庭園にシトラを案内し、人を下がらせて丹念に結界を編み始めた。
「腕輪と首飾りは、何があっても外してはいけないよ。腕輪を外せば好奇の視線に晒される。首飾りは護符代わりだ。そして、あなたの魔力を覆い隠すよう、私の魔力を込めておいたから。もし腕輪の効果を破って近づいてくるものがいても、その首飾りの文様を見せれば、あなたが私の……」
庭園を覆うような網の目状の光が一瞬輝いて、すぐさま空気中に溶けた。
「……身内だということがわかるだろう」
クレイスの視線が、シトラの襟元、衣の下にあるはずの首飾りを透かすように落ちる。
「この庭園には、私の友人の研究室がある。先日魔塔に顔を見せた、あのパーゼルという男だ。散策に疲れたら、そこの東屋か、あちらに見える温室脇の研究室に行くといい。彼には話を通してある。それと……くどいようだが、決して魔術を使おうとしてはいけないからね。精霊術も禁止だ。わかったかな?」
彼の手のひらが建物を指し示すようにひらりと動いた。
わかった、と頷くと、その手のひらが自分の頭頂に柔らかく着地する。
「いい子だ」
まるで猫の仔を慈しむような仕草で、彼の手のひらが自分の頭を撫でた。それがあまりに気安げだったので、シトラは誰かに見られてやしないかと思わず周りを見回してしまう。
クレイスは笑いをかみ殺して、シトラの髪から手を離した。
「そんなに慌てなくても、誰もいないよ。私が全員下げたのだから」
おかしそうに目尻を下げて、彼はちらりとこちらを見やる。過剰反応だとでも言いたげな瞳に気まずくなり、シトラは顔をしかめた。
「筆頭閣下の印象が変わっちゃうんじゃないかと思って……」
回廊で深々と下げられた頭の列と、穏やかに、しかし畏敬を抱かせる静謐さで応じていたクレイスの姿が思い浮かぶ。
「確かに、私が母親をしていると知られれば蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろうね」
それはそれで面白いな、と彼が悪戯っぽく笑うので、笑い事じゃないよ、とシトラは余計に焦って渋い顔をした。自分のせいで、彼の評判に傷がついてはたまらない。
「心配要らないよ。さあ、庭園を見ておいで。昼過ぎには迎えに来よう」
そう言ってクレイスが立ち去ってから、しばらく時間が経っていた。庭園は確かに美しい。花々が咲き乱れ、普段なら喜んであちこち見て回りたくなる景色なのに、シトラの目はその光景の表面だけを静かに通り過ぎていく。




