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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
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4-1. 憶測(1)

 読みかけの新聞を勢いよく閉じて、長椅子に腰掛けていたクレイスが立ち上がった。どうして忘れていたのか。当日直前になるまで思い出しもしなかったことに呆れながら、彼はうろうろと居室を歩き回った。大窓から差し込む午後の光は眩しく、自分の背後から幾筋も白い光が室内に伸びて、何事かとこちらを見上げるシトラの肩口を照らしている。


「どうしたの?」


 シトラは魔術式を描き終わったばかりの羊皮紙を脇に避け、ペンを置いた。彼女の描く式は初学者ながらに美しい秩序を保っていて、論理の筋道が明快なだけでなく、思いも寄らない閃きに満ちている。たとえば、本来であれば魔術式に組み込んで然るべき要素――彼女はそれを『変数』と呼んだ――を空にしておき、構築の際にその変数を指定することで用途を変えることができる魔術式を彼女が描きあげた時には、思わず背筋に寒いものが走ったほどだった。魔術式の根底を揺るがしかねないその発見を、今はまだ誰にも見せてはいけないよと言い含め、彼はその時、引き出しの奥にその式をしまい込んだ。


 彼女の秘密の窓は、美しい。


 その一端を彼女は自分と共有してくれた。前世という途方もない秘め事を差し出し、預ける人間として認めてくれたという事実。それを思い返すたびに胸は詰まり、この小さな体を何があっても庇護せねばならない、という強い決意が湧き起こる。彼女に己の持てるすべての知識を分け、一片の悪意にも触れさせないよう、真綿でくるんで大切に匿わなくてはならない。


「来客の予定があるのを忘れていた。茶菓子はあったかな」


 クレイスは困ったように苦笑して見せ、台所へと足を向けた。


「この間グラン・ノアで買ったのがあるんじゃない? ほら、ツェラムのお菓子買いに行ったときの」

「ああ……あれは昨日ルカにあげてしまったからね。砂糖菓子ならまだあるんだが」


 戸棚を開け、白磁の小壺を手に取って蓋を取り、中身を確認する。日持ちのする小さな砂糖菓子がまだ壺の中に半分ほど入っていた。


「じゃあドーナツでもよければ、私の分お出ししても」

 シトラは平然と提案した。

「せっかくの申し出だが、それは承服しかねるな」

 どうして? と彼女は首を傾げた。


「あなただって立派な魔術士だ。甘味は必要だろう? それに……娘の『おやつの時間』を取り上げてまで、もてなすような相手でもない。今日来るのは私の旧友でね。公務でもないし、この砂糖菓子で十分だよ。ありがとう」


 彼女の『ドーナツ』を代わりに供するくらいなら、旧友にはその辺の砂糖を小皿に盛って出しておけばいい――そんな極端な思考が浮かび、クレイスは自嘲気味に息を吐く。砂糖菓子が無ければ本当にそうしていたかもしれない。

 旧友をもてなす必要がないのは嘘ではない。彼とは今日、魔導具の改良と新たな錬金薬についての話をするだけで、大掛かりな魔術を使うわけでもない。魔術士として茶に糖分を添えるのは礼儀ではあるが、菓子である必要もないのだ。


 クレイスは茶葉の残りを確認した後、室内を見渡した。書庫から持ち込んだ古代語の魔導書や資料がいくつか散らばっている。過去の賢者たちが記した、前世に関しての研究を隅から隅まで、徹底的に洗い直しているところだった。いずれ彼女の口から語られるであろう事柄に対し、備えておきたいという欲求の表れが、この居室の乱れを生んでいた。


 まずはここからだな、と彼は長椅子近くの卓に散乱した幾つかの魔導書に目を向けた。本がふわりと浮き上がり、整列する。


「あ、私がするよ。書庫に持っていくんでしょ?」

 それを目にしたシトラが立ち上がり、積みあがった魔導書に手を伸ばした。

「いや、あなたには――」

「お客様がいらっしゃるなら手伝わせて。私の家でも、あるんだし」


 制しようとした勢いを削ぐように、彼女はきっぱりと言い放って笑う。

 シトラの時間は、シトラのためにあるもので、家事労働をさせるためのものではないのだが――そう何度告げても、彼女はそのことを受け入れられないようだった。自己肯定感の低さから来るものなのだろうか、それとも別の理由からか、ただ世話を焼かれるということにいまだ慣れる様子がない。

 そんなところも彼女らしい、とクレイスは唇の端に密かに笑みを浮かべた。


「魔術式描いてたら肩が凝っちゃったから、ちょうど体を動かしたかったんだよね」


 返事を待たずにシトラは魔導書を運び出す。彼女の腕には重いだろうに、文句も言わずに書庫へ向かうその背を、クレイスは眉を下げながら見送っていた。肋骨の内側が軋むような、ざわざわとした違和感。不快ではないが、自分の体が制御外にあるような不安を抱かせるその感覚を、彼は湯を沸かすことで振り払った。


 鉄瓶の注ぎ口から白い湯気が吹き出し始めた頃、見計らったように結界へと接触する反応があった。クレイスは遠隔で彼を招き入れ、居住層への転移門を動かす。火を弱めて玄関へと向かい不承不承扉を開けると、青白く不健康そうな顔をした旧友、パーゼルがにやりと笑って立っていた。


「相変わらず不愛想な面しやがって」

「君に言われたくはないな」


 溜息を吐きながら、クレイスは案内もせず足早に居室へと戻る。パーゼルは気にした素振りもなく、ふぅん、とどことなく上機嫌な相槌を打った。


「適当にかけてくれ。今、茶を出すから」


 クレイスは台所で、白い湯気をもうもうと出して沸き立つ鉄瓶から、用意していた茶器へ勢いよく湯を注いだ。それを砂糖菓子の小壺と共に盆にのせて運び、パーゼルの目の前の卓へと置く。


「……お前が女性と暮らしてるってのは、本当みたいだな」


 パーゼルは無遠慮な視線を隠そうともせず、居室を舐めるように見回した後、クレイスをちらりと見上げた。居室にはシトラが愛用する筆記具や上着、先ほどまで使っていた茶器などが慎ましく散っていて、生活の匂いを漂わせていた。

 弟子だ、とクレイスはパーゼルに茶を注ぎながら釘を刺す。


「宮廷魔術士なのか?」

「いや……個人的な弟子だよ」

「へーぇ。個人的な。そりゃまた」

 跳ねるような口調で繰り返され、その含意にクレイスの眉根が小さく痙攣した。

「君まであの噂を信じるわけじゃないだろう? まったく、口さがない者には心底嫌気がさすね」


 辟易しながら友に茶を差し出すと、歯の間から笑い声を洩らすようにしてパーゼルが答える。

「そりゃお前、あの筆頭閣下が他人を魔塔に引き入れたとあっちゃ、噂するなっていうほうが無茶だぜ。何しろ、庭の隅っこで引きこもってるオレのとこまで届くくらいだ。まあピーピーギャーギャーよく鳴いてやがる。人気もんはつらいな、筆頭?」

「……私が悪かった。その話はもう止してくれ。無駄話をしに来たわけでもないだろうに」


 クレイスはこめかみを揉んで遮った。この友は明らかに面白がっている。いつ戻ってくるかわからない彼女の耳に、こんな話を入れたくはない。


「今日の目的の八割以上は無駄話なんだが?」

「そうか。あいにくと私には無駄話をする余裕はなくてね。さっさと帰って君が開発した魔導具とでも喋っていてくれないか」

「つれないな。そんなに追い出したいかねぇ」


 パーゼルが笑って茶器に手を伸ばすと、書庫から戻ってきたシトラが居室に足を踏み入れる気配がした。

 あっ、と彼女が息を呑み、頭を下げる。律儀なその仕草に、彼は自然と目を細めた。


「シトラ、これがさっき話した旧友のパーゼルだよ。私たちのことは気にせず過ごしてくれていいからね」

 彼女が気にしないように言い置いて、クレイスはパーゼルの向かいに腰を下ろした。

「どうも、どうも。お邪魔してます」

 パーゼルはひらひらと手を振って、シトラに愛想笑いを浮かべた。


「……彼女が、例の? 可愛いじゃないか。清楚で」


 声を落とした友の囁きに、クレイスは強烈な不快感を抱いた。

 意味もなくその目を焼いてやりたい衝動に駆られる。


 その時パーゼルの背後、大書架の前で、シトラが杖を手に、ふっと呟いた。


 風よ、と。


 その行為がもたらす意味をクレイスは瞬時に理解した。おそらく彼女はただ、埃か何かを掃おうとしたのだろう。まだ書庫に戻しきれていない魔導書を拾い上げ、息を吹きかける代わりに詠唱魔術を行使したのだ。それ自体は日常的な行為で、何ら咎めるものではない。


 ただし、今は違う。今は他者が存在する。しかもそれは属性研究における第一人者であり、彼女の魔力の波長を最も正しく解析し得る人間だ。


 あの光の樹の時ならば問題はなかった。他者と距離があり、自分が隣にいて、ごまかそうと思えばいくらでもできた。だが今は狭い居室で、誰がどの魔力を放ったのか、魔術士ならば瞬時に理解できてしまう。


 まずい。


 クレイスはパーゼルを見た。

 案の定パーゼルは目を剥いてシトラを凝視している。


「なんだ、この魔力……もしかして……」


 だん、と机に手を突いてクレイスが立ち上がった。茶器が震え硬質な音をたてた。


「すまないがもう帰ってくれないか」


 彼は卓を回り込むと、唖然としている友の腕をつかみ、無理やり立たせた。


「帰ってくれって、お前――」

「君の話はいずれまた王宮でゆっくり聞こう」

「おい、まだ茶を飲み始めたばかり――」

「急用を思い出したんだよ。申し訳ないね」


 食い下がるパーゼルに、クレイスは口早に告げて背中をぐいぐいと押した。退室しないのであれば魔術の行使も辞さないという勢いで押し、肩越しに振り返って彼女に声をかける。


「シトラ、新聞をまとめてくれ。私の寝室にもあるからそれも頼む。ああ、いいというまで降りてきてはだめだよ。わかったね」

「寝室ってお前――」

「シトラ、早く行きなさい」


 背後で呆気にとられたように立ち尽くしているシトラがもどかしい。


 クレイスは無理やりパーゼルを玄関の外に追い出して、ばたん、と扉を閉めた。

 すぐに扉が開く。


「なんだって言うんだ、お前――」


 言い終わる前にクレイスは扉を閉めた。鍵をかける。


「本当にすまない。後日埋め合わせはするから、今日は帰ってくれ」


 クレイスは扉の外に聞こえるほどの声で友に詫び、ひどく大きな溜息を吐いた。

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