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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
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3-3. 縁(3)

 なにか、いる。

 倒木のうろの中に。苔むした大岩の上に。木漏れ日が当たる下草の上に。それから、宙に浮くようにして。


 半透明の靄のような、ひどく不確かな丸い塊と、草が生えている小動物のようなものと、古木の人形のようなものと。


「無事に、見えたようだね」


 シトラを解放しながら、クレイスが一歩退いた。しかしシトラの指先だけはいまだ彼の手の中にあり、それが感覚の共有に繋がっているのかもしれなかった。


 半透明の靄が、すい、とシトラの目の前を横切った。近くで見ると、靄なのに丸い目がついている。


「え、可愛い……」


 思わず呟いて手のひらを差し出すと、その丸い靄がちょこんと乗っかって揺れた。

 不思議な存在だな、とシトラはまじまじと観察する。半透明のモヤモヤは内部で軽く渦を巻いていて、それが陽炎のように見えていた。これは風の精霊なのだろうか。


 前世住んでいた国は多神教だった。山には山の神様、海には海の神様がいて、自然物以外にも、かまどの神様、厠の神様、お米に至っては一粒に七柱だか八十八柱だかの神様が宿っているのだそうだ。八百万、というほど、そこかしこに神様がいる世界。


(精霊も似たようなものなのかな?)


 それを思い出すと、今まで知らなかった精霊という存在が急に身近に思えてきて、シトラは手のひらに載っている神様――ではなく、精霊に、自然と頭を下げていた。


(魔塔に住む、シトラと言います。もしよかったら仲良くしてください。あなたは風の精霊さん?)


 声に出さずに挨拶をすると、風の精霊らしきものが手のひらの上でくるくると回り、シトラの周りで風が巻き起こる。


「!!」


 後ろに流していた髪が全部前に来てしまい、視界が塞がれた。首を振るようにしてなんとか視界を確保すると、目の前でたくさんの精霊が飛び回り、こちらを興味深げに覗き込んでいる。その数は両手ではとても足りない。森の景色が見えないほどに精霊たちが漂い、自分の一挙手一投足を見つめていた。


(ど、どうも……こんにちは)

 あまりの数に気圧され、シトラは言葉少なに深々と頭を下げた。するとまたしても髪が風にさらわれ、なびき、それどころかシトラの身に着けている衣から植物の芽が現れて長々と伸びた。袖口から伸びた芽が手首に、指に絡みつき、襟元から伸びた芽は首筋を通って耳の裏から髪を編み込むようにして天へと伸びていく。


「ちょっ……なにこれ……」

 間近を飛び回る精霊が、嬉しそうに舞い踊りながらシトラに触れては離れを繰り返していた。精霊流の挨拶なのかもしれないが、人間のそれとはあまりに違う、無邪気で無遠慮な触れ合い。



「――悪戯が過ぎるようだ」



 空気が震えた。


 凍てつくような冷気が足元を這い、クレイスの清冽な魔力が森の全てを掌握していく。精霊たちが動きを止め、それと同時にシトラに起こっていた異変が崩れるように元に戻った。新芽はしなびて枯れ、空気に溶けるようにして散り、シトラの髪を巻き上げていた風は大人しい微風になって毛先を揺らし、止む。


 はぁ、とシトラはようやく息を吐いた。

「ありがとう……びっくりした」


 魔力を伝播させていたクレイスを見上げると、彼は底冷えを感じさせる半眼を森の各所へ向け、一巡させているところだった。その瞳が森の隅々をくまなく走査するように薙いで、ひたり、とシトラの瞳に落ちる。


 彼は一度またたくと、ふわ、と困ったように微笑んだ。


 クレイスの指先が、シトラの肌に触れるか触れないかのあたりで前髪を梳き、乱れた後れ毛を耳にかけていく。

「私も驚いたよ、まさかこれほど親しげな歓迎を受けるとは」

 慎ましく控えめな仕草が却ってくすぐったく、シトラは身を引くようにして肩を竦める。


「ほんとだね。挨拶したからかな?」


 彼の手が止まった。


「……精霊に、挨拶……?」


 クレイスが眉をひそめる。澄みきった碧眼が細められ、目の奥までも射抜かれそうなほどにこちらを見下ろした。


 シトラは息を吸った。そのまま吐き出せず、止まる。


 とく、とく、と心臓が鳴っていた。ややあって、穏やかな声が、一言ずつ丁寧に降ってくる。


「精霊術というのはね……先ほど私がしたように、場を己の魔力で掌握し、精霊を使役する……いわば、服従させる行為に近いんだ。彼らの外観を好ましく思い、愛玩の目を向ける者はあるだろうが、挨拶とは……」


 そこまで言って、彼は言葉を途切れさせた。引き結んだ唇とは裏腹に、限りなく目元を和ませて、「いや」と短く話を終える。視線はすぐに森へと戻された。


 森に、彼の魔力が満ちていた。精霊たちは大人しく、微動だにしない。クレイスが息を吐くと、張り詰めた空気が引いていき、精霊たちもまた思い思いの場所へと帰っていくようだった。


 シトラは、途中で呑み込まれた言葉の続きを頭の中で手繰り寄せる。

 以前、ベルヌーイの定理で紙飛行機を飛ばした時と、同じ色を滲ませていたクレイスの瞳。彼はあの時も、自分が硬直したのを目の当たりにし、その問いを呑み込んでいた。だからきっと、彼は聞きたかったのだ。『なぜあなたは、精霊に挨拶をしたのか』と。


 口の中が乾いていて、シトラは、喉の違和感を消すように舌を動かした。そして、ごくん、と喉を鳴らす。


 言おう。


 彼を見上げた。敢えて目を逸らしてくれた彼の横顔に、今度こそ、強い視線を撃ちつける。痙攣するような速さでクレイスがこちらに向き直った。その髪がさらりと揺れる。


「……私、の……前世、で」

 言葉が上手く紡げない。唇が震えている気がする。

「住んでた、国に。神様がいっぱいいたの」


 声が裏返りそうになり、シトラは拳を握りしめた。その視界を掠めるように風の精霊が寄ってきて、シトラは握り込んだ拳をゆっくりと広げ、両手で精霊を受け止める。


「いろんな神様がいて……その神様に、敬意をもって接する文化だった。だから、今日、それを思い出して……挨拶、したんだ。仲良くしてください、って」

 手のひらの上の精霊は、暴れ出すこともなく、大人しく揺れている。

「それでだと、思う」

 シトラは掠れた声を包むように、重く息を吐きだした。


 彼を、信じている。

 彼の途方もない誠意を。抱えきれないほどの温かさを。


 それでも、彼の反応を待つその間、シトラの心臓は縮み上がって小刻みに脈打っていた。

 クレイスの瞳はまったく揺らがず、夜明け前の最も暗い空のように、ひたすらに静かだった。


 なんでもいいから、なにか言って。


 シトラは祈りを込めて、クレイスを見つめ返した。


「……お願いが、あるんだ」


 彼はひどく真剣な顔で、続ける。


「不躾ですまないんだが……あなたを、抱きしめてもいいだろうか?」


「えっ!?」


 思わず大きな声が出てしまい、驚いたように精霊が手のひらから飛びあがった。

 クレイスは苦笑して、首を傾げる。


「私は母として未熟でね。どうにも、こういう時にどうすべきかわからない。その……もしあなたが嫌で、なければ」


 精霊がいなくなった手のひらに、クレイスの指先が降りた。


 思いもよらなかった言葉に、シトラは半ば混乱し、うん、と頷く。嫌ではない。だから、問題はない。でも、なぜ?


 頷くと、体がやんわりと引き寄せられた。森の爽やかな香気の中、彼の匂いと体温に優しく包まれる。


 彼の左手は自分の背中の表面だけをさすっていて、右手は髪に差し込むようにして後頭部をゆっくりと撫でていた。慈しみに溢れた、優しい手つき。


 ああ、と彼の吐息が落とされた。顔を上げられない。視線を動かせず、目の前にあるクレイスの首元を見つめている。引き延ばされたかのような時間の中、息を殺して、自分の鼓動だけがうるさく響いている。


 動けないでいる自分の耳元に、シトラ、と呼びかける彼の声が降ってきた。

 返事もできない。またたきもできない。風が梢を揺らす音がする。


「……ありがとう」


 やがて彼はただ一言そう囁いて、雲に触れるような柔らかさでシトラを抱きしめた。

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