3-2. 縁(2)
◇
発泡性の果実酒は飲みやすく、心地よい気分も手伝って、シトラは泡の瓶を三本も空けた。おかげで食事が終わるころにはすっかり酔いが回ってしまっていたので、食後に読もうと思っていた魔導書は当然クレイスに取り上げられ、「明日は朝から森に行くから、しっかり休むように」と何度も念押しされて寝台に押し込められる羽目になった。おまけに、目を閉じてもう一度目を開けた時にはすでに朝日が射していた。
飲酒翌朝特有の喉の渇きを感じながら、シトラは身支度をし、居室へと降りる。すでに起きていたクレイスは食卓の上に果物を置くと、水差しから水を汲み、まだ眠気の残るシトラの手にそのグラスをしっかりと持たせた。
「おはよう。よく眠れたかな」
至れり尽くせりすぎる。
深酒の後の水分摂取にまで気を遣ってもらい、シトラは申し訳ないような気恥ずかしさを抱え、その水を一気に飲み干した。常温よりやや冷えた水が喉を通り、甘く染み渡っていく。
「ありがと、おはよ。昨日はおいしくて、つい飲んじゃった」
シトラは照れくささをごまかすように付け加えた。
「あなたがあれだけ酒豪とはね。もしや、酒精の入っていないものを間違えて出したのかと確認したほどだ」
からかい含みに答えたクレイスの手が降りてきて、梳かした髪の表面を軽く撫でる。
「お手数をおかけしまして……」
シトラは肩を丸めて小さくなった。
飲んだ後にそこまでの醜態を晒したわけではないが、いつもより幾分陽気になり、あははは、と笑いながらクレイスの背中を叩くくらいはした覚えがある。他にも、ぽわぽわとした頭で自室に向かおうとして、誤って主寝室に突撃し、後ろから慌てて追いかけてきたクレイスに「あなたの部屋はこちらだ」と手を引かれて寝かしつけてもらったが。
あれ、結構やらかしたかも……。
ますますシトラは小さくなった。
彼は食卓の椅子を引き、シトラの背に手を添えながら席に導く。
「いいんだよ。あなたの世話を焼くのは手間などではないさ」
悪戯っぽく片目を細め、クレイスは台所で沸いた湯を茶器に注いだ。
「食欲はあるかな? 今日は森を歩くから、昼は軽食になる。その分、しっかりと食べておいてくれ」
茶器と共に運ばれた朝食は言葉通りの盛りだくさんで、シトラは目を丸くする。食卓に置かれた果物も山盛りなのに、パンも普段より多いし、卵、燻製肉、野菜の和え物が二種に豆のスープとチーズまでついて、品数も多いが量も多い。これを全部平らげろというのか。
成長期の男子の母じゃないんだから、と内心で激しくつっこみながら、シトラは笑ってパンの籠に手を伸ばした。
◇
魔塔の裏口を出ると、数歩で端から端まで渡れるほどのささやかな空き地があり、その端から続くようにして木々が立ち並んでいた。裏口を囲むように敷かれた石畳の端は崩れ、地面の土や草と混ざりあうようにして一体化していく。そこからほんの少し踏み出すと、朝の清らかな日射しはすぐに木漏れ日に変わり、シトラは前を行くクレイスの背に遅れないようにしながらきょろきょろと辺りを見回していた。
太い幹と細い幹は入り乱れるようにして生え、いくつかには青々とした蔦が絡みついている。視界を縦に区切るような灰褐色の幹の合間から、輪郭がぼやけたような明るい緑の空気が見え隠れし、朝の森にふさわしい清涼な光景を形作っていた。
――魔塔が森の境目にあるのは知っていたけど、こんなに近いなんて。
爽やかな森の香気の奥に、湿ったような土の香りが混ざる。それを胸いっぱいに吸い込むと、体の隅に残っていた酔いの残滓が洗われて消えるようだった。そのまま十五分ほど歩いたところでクレイスが立ち止まり、振り返る。彼はシトラに手を差し伸べて、
「ここから先は足元が悪い」
と、ためらう間もなく手を繋いだ。
彼の指先はほんのりと冷たく、森歩きで温まった自分の手とは違い、さらさらとしていた。急に手汗が気になって、シトラは手のひらを密着させないよう、慎重に位置を調整する。クレイスはそれを咎める様子もなく、シトラが作った空間を保ったまま静かに手を引いていた。
彼の言うとおり、森の地面はところどころ樹木の根で隆起していて、ふかふかの土だと思って油断していると足を取られかけることが二度あった。つんのめる手前で彼の手が自分を支え、体ごと前に回るようにして転倒に備えてくれるので、申し訳なくなってそれからは地面をしっかりと見て用心深く歩いた。
そこから一時間ほど歩いただろうか。
彼が足を留め、シトラもまた、俯いていた顔を上げた。
薄暗い森の中にぽっかりと、その空間はあった。
大きな古い倒木を囲むように、木々の葉を透かした光が、きらめく粒になってあたり一面を照らしている。太い樹木のそばに鎮座する苔むした大岩は濃淡に彩られ、翡翠を散りばめた織物のように輝いていた。
「わぁ……」
風が吹くと地面に落ちた光の粒が細やかに揺れる。魔塔の中では決して見ることのない、伸びやかに息づくような青さが眩しくて、シトラは感嘆の溜息を漏らしながら目を細めた。
「いいね。精霊がたくさんいる」
クレイスはあたりを眺めて頷いた。
「どこに?」
「このあたり、全てに」
手を引かれ、シトラは木々が丸く囲むような空間に導かれた。緑の陰影は奥にいくほどその色を濃くし、風で梢が触れ合う音がさわさわと二人を包んでいた。
美しい森だが、不思議な気配は感じない。そもそも、精霊とはどういうものか、シトラはよく知らなかった。生き物なのか、それとも、無機物のような物体なのか。
「精霊とは魔力が意思を持ったものだと思えばいい。詳しくは座学で教えるが……あなたは、私の魔力を知っているだろう?」
繋いだ手を持ち上げて、クレイスは両手でシトラの手を包んだ。その手のひらから、清冽な、流れる水のような彼の魔力が穏やかに流れ込んでくる。
「この森にも、あなたや私の魔力とは違う魔力の塊がそこかしこに存在する。今のあなたなら、それを感じることができるはずだ。私の導きを感じてごらん」
彼の言葉の語尾が流れるように揺れた、とシトラは思った。次の瞬間、腰をぐっと引き寄せられて、またたく間もなく、すぐ横にクレイスが立っていた。
えっ。
背中から腰にかけて、クレイスの腕が自分の体を支えていた。右半身が温かく、こめかみに吐息が触れている。彼と繋いでいた手がふっと持ち上げられて、その指の背に、何かが当たった。おそるおそる横を向くと、指先を押し戴くようにして、クレイスが額を寄せている。敬虔な祈りを捧げるように静かに目を伏せて。
「えっ、えっ」
心の中の動揺が口から出てしまった。
その声に、クレイスの長い睫毛がそっと持ち上がる。わずかに開いた瞼の間から、碧い瞳がちらりとこちらを見下ろし、
「私の感覚をあなたに共有しよう」
と、柔らかい囁きが降ってきた。
ああ、精霊の……と理解した途端、緊張があとからやってきて、全身の汗腺が一気に開きでもしたかのように火照った。
近い。
均整がとれた彼の横顔は、俯いたことで陰になり、宗教画の厳かな印象を思わせた。その頬を横切るように、髪がさらりと下に流れ落ちている。風が吹いて髪がなびき、シトラの腕をかすかにくすぐった。
「……私の顔ではなく、周りを見るんだよ?」
笑い含みに言われ、シトラの首の後ろから顔、耳朶、頭皮に至るまでが、一瞬にして熱くなる。
「はいっ」
シトラは目をつぶって、音がするほど勢いよく前を向いた。
この上なく恥ずかしい。精霊を感じるためのことなのに緊張してるのも恥ずかしく、指摘されないとわからなかったことも恥ずかしい。
「目をつぶっていたら見えないだろう」
今度こそ本当に笑われて、シトラはさらに恥じ入りながら瞼を開けた。




