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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
39/58

3-1. 縁(1)

 蛇口から細く水を出し、シトラは使い終わった茶器を洗っていた。前世で好きだった音楽が頭を巡り、思わず口ずさんでしまう。この世界に生まれて二十四年になるというのに、シトラはいまだにこちらの音楽をよく知らない。伯爵家でも商会でも音楽が流れる場所に立ち会う機会はなく、クレイスと王都に出かけた時に道端で楽器を奏でている人を見た時には、驚きと共に嬉しさがこみ上げたものだった。シトラがこちらの音楽を耳にしたのはその時が初めてで、だから自然と、思い浮かべる曲は前世のものに偏っている。


 うろ覚えの歌詞を適当に歌いながら、シトラは水を止めた。


 洗い物も掃除も洗濯も、基本的にいつもクレイスが魔術でこなしてしまう。こうして自分の手で洗い物をするのは彼が不在の時だけで、数えるほどしかなく、そのたびにシトラは魔塔で初めて洗い物をしたあの夜を思い出していた。まだ水が冷たく、不安でいっぱいだったあの頃。今では水も温くなり、いつの間にか季節が移り変わったことを肌が知らせてくれる。


 手を拭きながらシトラは長椅子に戻ろうとし――ふいに目の前の空気が揺らいだことに気づいた。しかし、足が止まらない。陽炎のように揺らめく空間に突っ込みそうになり、直後、やや押し戻されるようにして、顔からクレイスに突っ込んだ。


 わっ、とシトラは声を上げたが、その声は彼の長衣に遮られてくぐもった。


「すまない、大丈夫か?」


 言葉とは裏腹に、どことなく和んだクレイスの声が頭上から降ってくる。体全体が柔らかく受け止められていて、両肩にそっと彼の手のひらが置かれた。


「うん、平気だよ」

 見上げた先のクレイスの顔はいつも通り穏やかに微笑んでいた。しかし、その眉だけがわずかな憂いを帯びたように下がっている。シトラがそれに目を留めた途端、彼はシトラの視界を遮るような仕草で、その前髪を控えめに撫でた。


「ルカは帰ったようだね。私も、もっと早く帰れたらよかったのだが」

 前髪から大きな手が離れ、視界が開ける。再び見上げたクレイスの顔には、もう憂いの影すらも見えない。見間違い、思い違いとも思えるほどの、かすかな変化だ。


 ――気のせいかな?


 シトラは疑問を口にはせず、しかしただ一瞬、ちらりと視線が彼を掠めた。

 自身の肩を片手で揉むようにして、クレイスは首を回している。


「今日は二件の面会に長時間の協議が重なってね。さすがに疲れたよ」


 彼はそのまま流れる所作で長衣を脱ぐと、それを食卓の椅子の背にかけ、高襟の簡素な姿になって大書架の近くへ向かった。


「だが、そのぶん収穫はあった。あなたの発案である帳簿提出義務化の法令案が、ようやく形になったんだ。これはかなり大きな不正抑止力となるだろう」

「ほんと?」


 お風呂場で思いついたあのひらめきが、形になった。

 それはどこか昂揚を伴う安堵で、シトラは胸がじわりと温かくなるのを感じる。


 クレイスは頷き、あなたのおかげだよ、と言いながら指を振った。手の届かない高所、ぼんやりと角灯が浮いているあたりから数冊の本がふわりと浮き、彼が開いた手のひらの上に、ととと、と立て続けに積み上がる。


「おつかれさま、クレイス。ありがとね」


 あなたのおかげと言われ、照れで頬が熱くなった。形作り、世に出せるのは彼が動いてくれたからなのに、単なる思い付きを褒めてくれることが、嬉しくも気恥ずかしい。

 シトラは両手で自分の頬を包んだ。片手に本を積んだクレイスがこちらを向き、湯が滲むほどのゆるやかさで、ふわりと微笑みかける。


「ああ。……今日は祝いとして、泡を開けようか。あなたも、よければ」

「うん、飲んじゃおっかな? 極刑に処す法令ができた日のお祝いなんて、なかなか物騒だけど」

「なるほど。それなら、犠牲者が出ないよう祈りを込めて飲むとしよう」

「クレイスが言うと、冗談に聞こえない……」


 ははは、とクレイスは軽く笑い声をあげながら、積んだ本を長椅子の前の卓に積んだ。


「そこは王国民の遵法精神を信じたいな。さて、シトラ。こっちにおいで」


 手招きされ、導かれて、シトラは長椅子に腰掛けた。その向かいに彼が座り、卓の上の本――魔導書を、一冊ずつ並べていく。


「以前、魔術の行使方法には呪文以外にも様々あると話したが……明日から、あなたにそのうちの二つを教えようと思う。一つは精霊術。これは明日、森で教えるつもりだ。そしてもう一つはこれ」


 クレイスの指が、とん、と魔導書の表紙を指した。

「魔術式?」

 表紙には、『魔術式構築・基礎篇 ― 円環領域における術式記述 ―』とある。


「そう。詠唱魔術が心象の固定を前提とするものなら、こちらは世界を論理で制御するものだ。あなたには詠唱魔術よりも向いているだろう。ただ、ひとつ問題があってね。魔術式には脆弱性があるんだよ。だから通常なら、詠唱魔術を修めた後に魔術式を学ぶことになる。だが、あなたなら、現段階で学んでも問題ないと判断した」

「脆弱性……」


 彼の言葉を繰り返しつつも、シトラの目は魔導書に吸い寄せられたまま動かない。世界を論理で制御する――いったいどんな魔術なのだろう。円環というとクレイスが普段使っている転移魔術がそうなのだろうか。彼が商会で転移魔術を使ったとき、自分たちを取り囲むように無数の円環が現れ、積み重なっていった。あの時は彼は確かに、その指先で、光の軌跡を描いていた。しかし普段の転移では彼は指を回すだけで、無数の円環も現れてはいない。


「うん。魔術式はこうして、外環と内環の間に術式を書きこむんだが……」


 クレイスはシトラの視線を誘導するように、本の表紙に置いていた指を光らせ、すうっと空中に移動させた。そのまま宙に光の円環が描かれ、線のようにも見える微細な文字が書きこまれていく。


「術式が高度になればなるほど内圧が高まって、円環の継ぎ目から漏れてしまうんだよ」


 言うが早いか、彼の描いた微細な光の文字は、円環と共に解れるようにして大気へと還った。


「それを防ぐための補助式が、魔術式には欠かせないんだ。だが、補助式が増えると魔力効率が落ちる。つまり、魔力制御をある程度行える者でないと難しい」

「今の私は、それができる?」

「そうだよ。なにより、現段階で魔術式を教えることの是非については……今のあなたの瞳を見れば、考えるまでもなかったね」


 クレイスは、喉の奥で笑いを留めるようにして目を細めた。

 そんなに顔に出ていたかな、とシトラは再び、両頬を手で包む。しかしそれでは到底隠し切れない興奮が、シトラの唇を緩ませ、とくとくと胸を高鳴らせていた。ああ早く読みたい。その理に触れたい。知りたくて知りたくてたまらない。


 今にもその表紙をめくりたい、という気持ちで本に視線を落としていると、堪え切れずといった風情の忍び笑いが、空気を揺らして降ってきた。


「夕餉ができたら呼ぼう。魔導書を読んでいてくれても構わないが、構築はまだだめだよ。描くならそこの羊皮紙に、羽ペンで描きなさい。練習は紙の上でするんだ。いいね?」


 はあい、とシトラはにこにこしながら答えた。新しく魔術の行使方法に出会うことも、彼が嬉しそうに微笑んでいることも、自分の思い付きを彼が形にしてくれて、それを二人で祝えることも。すべてがシトラの全身を昂揚させ、その心をときめかせていた。


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