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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
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2. 至宝、その意味

会計帳簿提示義務法

第一条 王国内において財の管理に携わる者は、毎年一度、定められた期日までに、会計帳簿を財務省に提示しなければならない。

第二条 正当な事由なく前条の義務を怠った者は、極刑に処する。

第三条 天災、疾病その他やむを得ない事由により期日までに提示が困難な場合は、財務省に届け出ることにより猶予を認める。




 クレイスは財務大臣との三回目の協議を終え、王宮執務室で一人、窓越しの眩い晴天を眺めていた。青い空高く、白い絵具を刷毛で引いたような薄い雲がたなびいている。彼女がいる魔塔の大窓からも、この雲が美しく見えているだろうか。


 二十日ほど前にシトラが口にした帳簿提出義務化の法令案は、ようやく形になりそうだった。極刑という強い文言を盛り込みつつ、第三条に救済規定を置くことで、刑の適用を事実上回避し得る構造とした。これで彼女の罪の意識が少しでも減るのなら、という思いで、筆頭としての権限をすべて行使して進めた結果だった。ただし協議のために魔塔を空けるたび、彼女を一人残すことになるのが彼にとっては心苦しい。そのために今日も、修練日でもないルカを魔塔に呼び出して護衛に当たらせている。本当ならばルカですら不安なところだが、背に腹は代えられなかった。しかし彼女がルカの勢いに気圧されてはいないか、彼の密着に疲れてはいまいかと、まったくもって気が気ではない。


 気が気ではない……?


 己の思索の端に引っかかりを感じ、クレイスは空を見上げる目をまたたかせた。


 今のは師としてか。それとも母としてか。


 そんな無意味な問いが湧き上がり、彼は瞬時にその問いを消した。上書きするように、執務机の上に乗っていた羊皮紙に目を落とす。


 その碧眼に苦い色が浮かんだ。


(……よもや、あの『光の樹』を見られていたとはな)


 当然予期すべきことだった。シトラの顔を知る商会関係者があの樹を見たらどう思うか。夕闇が忍び寄る暗い広場を一瞬にして明るく染め上げたあの美しい光景に、目を奪われないものなどいなかっただろう。そしてその魔術を行使したのは何者なのかと、光の元をたどることは十分に考えられたはずだ。

 なのに自分は、その美しさに圧倒され、彼女を隠すことすら失念していた。


 不甲斐ない。


 短く溜息を吐きだし、クレイスはその羊皮紙を丸め、懐にしまった。一枚の紙が、鉛のような重さでクレイスを引き下ろし、彼は執務机に体を寄せるようにして胸に手を当てた。


 この不始末は己の手で処理しきらねば。

 万が一にも彼女に累が及ぶことがあってはならない。そして同時に、彼女が気に病むことのないよう、決して波風を立てず、穏便な方法で決着をつけるべきだ。さらにできれば、彼女の目に触れないように。


 三番目の条件はなかなか厳しいな、とクレイスは苦笑した。彼女の慧眼をごまかすことはたやすいことではない。その上、隠そうとすれば却って不信を招きかねない。せいぜいが、発覚を遅らせるのが関の山だろうと思われた。だがそれでも、この件に彼女を関わらせるつもりは、クレイスには毛頭なかった。たとえ彼女に忌避されたとしても。


 赤熱させた針で刺したような痛みが、じり、と彼の胸を焼いた。

 クレイスは愁眉を解すように眉間を揉む。


 何をためらうことがあるのか、と彼が背筋を伸ばした時、扉を叩く音に次いで、その扉が返事を待たずして開けられた。


「貴方が王宮にいると、やっぱり空気が引き締まるわね」

 どことなく上機嫌のエレナが執務室に入るなり言い放ち、机の上に書類の束を音を立てて積み上げる。

「筆頭閣下が不在だと、文官たちが品のない噂話ばかりして困るのよ。はいこれ」


 クレイスは手渡された書類に素早く目を通した。東部国境の防壁結界の出力状況は、東部領主を拘束し、その別邸地下にあった偏向装置を除去した時点から劇的な回復を遂げていた。以降、出力低下も見られない。問題ないと判断するには十分だった。


 エレナに短く礼を述べ、彼は懐中時計を取り出し、蓋を開ける。夕刻には帰宅が間に合うことを確認すると、クレイスの頬が自然と緩んだ。


「……いつまであのシトラとかいう弟子を魔塔に置いておくつもり?」


 文字盤を見つめていた彼の耳に、エレナの低い声が響いた。

 クレイスは硬質な音をさせて時計の蓋を閉じ、机の上で両手を軽く組む。


「どういう意味だ?」


 そのままの意味よ、とエレナは一転して不機嫌そうに肩を竦めた。

「あの弟子のせいで貴方は出仕をしないんだ、ってみんな言ってるわ」

「くだらないな」

 取るに足らない話だ。対処する必要性も感じない。


「私が魔塔での執務に切り替えた目的は君も知っての通りだ。以前からの計画を実行したに過ぎない。シトラのことは関係ないよ」

「どうかしら」

 エレナは鼻を鳴らしてクレイスを見下ろした。


「貴方、いま王宮で自分がなんて言われてるかわかってる? 出仕しない、なんて生ぬるいの。筆頭閣下が私的な直弟子という名目で謎の女を魔塔に囲ってるって、方々で噂になってるのよ」

 まるで穢れた物に触れでもしたような口ぶりで、エレナは苦々しく吐き出した。


「――言いたい者には言わせておけ」

 シトラのことを低俗な物言いで取り沙汰されることに、怒りを覚えぬわけではない。むしろ、彼女について一言でも話題にした者の口を、二度と開けられぬよう片っ端から凍らせてやりたい気分だった。だが、それをしたところで噂が治まるわけではない。関心を示すことが逆に噂の燃料になる――彼はよくよくそのことを理解していた。


 クレイスが淡々と言い放つと、あとには不快な揺れを伴う沈黙が降りる。地盤の奥深くから伝わる微細な振動のような、ごくわずかな違和感が、執務室の空気に満ちていた。


「……あの子、ユーネルディア家の娘なんでしょ」


 その言葉に、クレイスの目が鋭く細められた。

「なぜそれを?」


「私は筆頭閣下の首席補佐官よ。筆頭がどんな資料を取り寄せたか、知る権限がある」

 執務机に片手を置き、クレイスを挑戦的な目で見つめながら、エレナは答えた。


「魔力回路がない無能として育てられたんですってね。よかったじゃない、回路が通じて。あとはもうさっさと返しちゃえばいいのよ。魔術が使えるようになって一件落着ね」

 エレナの口調は、それが日々の業務の一環とでも言うように乾いていた。


 クレイスは机の上の自分の手に視線を落とし、ふ、と薄い唇の端を引き上げる。


 かつん、とエレナの靴の踵が床をさまよう音がして、机の上から手が離れた。先ほどまで皮膚に感じていた挑発めいた視線は圧をなくし、代わりに、畏怖と困惑が交錯したようなためらいがエレナの口から呼気となって散った。


「君は補佐官としてよくやってくれている」

 ゆったりと低い声を出し、彼は息を静かに吸った。


「だが私は、師弟関係に口を挟む権限を首席補佐官に与えた覚えはない」


 笑みを浮かべたまま、無感情なまなざしでエレナを射抜く。


「ッ……!」

 エレナは恥辱を感じたように赤面した。もの言いたげな唇が細かく震え、上下の前歯が強く合わさるのが見える。


「理解したなら、下がれ」


 クレイスは積まれた書類の一番上の羊皮紙を手に取ると、それに目を通し始めた。

 魔術院の理事会が起案した、人事発令の稟議書。問題がないことを確認した後、彼は黙って署名をし、処理済の書類として積み直す。


「いいえ、言わせてもらうわ」

 食いしばった歯の間から漏れるような、怒気をはらむ声が、クレイスの意識に割って入った。


「師弟でも母子でも結構よ。貴方が余暇の間、ままごとに耽りたいことも理解した。だけどね、筆頭としての名声に泥を塗るのはやめてちょうだい。これだけは首席補佐官として諫言する」

 エレナは滾るような眼をクレイスに向けた。


「目を覚ますべきよ、クレイス。あの子は『至宝』にふさわしくない」


     ◇


 執務室は再び、凪の湖面のような静けさを取り戻していた。

 怒りを隠そうともせずにエレナが立ち去ったあと、クレイスはしばらく微動だにせず、胸の内で荒れ狂うような激情に耐えていた。それをなんとかやり過ごし、彼はしなやかな指先でこめかみを押す。


 至宝であることが己の安寧を乱し、至宝であることで彼女を護ることができる。

 その矛盾にも似た両面を、クレイスは無言で呑み込んでいた。


 師弟。母子。ままごと。彼女と自分の関係を表す言葉は、正しいようでいて、しかし間違っているように思えた。ある面では師弟そのものであり、ある面では母子関係とよく似ている。だが、この身の内でくすぶる熾火はそのどれにも当てはめることができない。唯一近しいと思えるのは全属性の無垢な同胞を護ろうとする庇護欲だった。放っておけば彼女は喰われてしまう。そんなことは断じて許さない、という怒りに似た思いが心の底で火を噴いていた。


 ――帰らなくては。シトラが待っている、魔塔に。


 クレイスは深く、長く、息を吐いた。


 彼女の光は動かない、そう伝えてからしばらく経っている。師として自分ができることは、彼女の持つ個性を掬い上げ、磨くことだ。通常の教育課程とは違う、彼女だけの学びを考える必要がある。呪文だけではなく、魔術式や精霊術などを試してみるのもいいかもしれない。


 彼は大書架にある幾つかの魔導書と、書庫の奥に眠る教本を思い浮かべた。冷え切っていた目元が柔らかく和み、胸のつかえが癒えていく。ゆるゆると唇がほころんだ。それを自覚して、クレイスは片手で双眸を覆う。あれほど猛っていたものが、たったひと撫でで凪いでいくことがおかしく、なぜかもどかしい。


 自らの安らぎはやはり彼女の側にあるのだと、クレイスは否応なく実感していた。

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