9-2. 私の(2)
◇
いつの間にか嗚咽が止んでいた。
涙が止まっていることに気づくと同時に、クレイスがシトラからそっと離れた。彼の手が、シトラの頭を慈しむように撫でる。
「さあ、夕餉にしよう。今日は麺にするつもりでね。上に戻ったらすぐに茹で始めるから」
「……うん」
猛烈な恥ずかしさが襲ってきて、それでも、抱きしめられたことが嬉しくて、シトラは顔を赤くしながら照れ笑いを浮かべた。
泣いてしまった。しかも、号泣。大人なのに、赤ちゃんみたいに、声を上げて。
でも彼は、引いたりしなかった。
泣き止ませるように、あやすように、落ち着くまで待ってくれた。
胸の真ん中が、絞られるようだった。痛くない。つらくない。なのに、切ない。
この感情を知っている、とシトラは思った。
シチューを食べた時に感じた、あの感覚。
私、どうしようもなく、嬉しいんだ。嬉しすぎて、泣きたいくらい。今まであんなに泣いたのに、今度は嬉しくて泣きたくなっている。
歩き出すクレイスの後ろについていたシトラが、少し速度を上げて、彼の隣に並ぶ。そして、その嬉しさのまま、彼の手を握って、繋いだ。
彼は一瞬だけ腕を強張らせ、そのまま自然にシトラの手を受け入れる。彼の手はひんやりと大きく、自分の手などは全部覆われてしまいそうだった。その大きな手で、やっぱり彼は、壊れやすい紙細工に触れるようにして、この手をふんわり包んでいた。
「……あのさ?」
歩きながら、シトラは彼に話しかける。
クレイスは、ん、と気配で返し、先を促した。
ずいぶんと甘えた声が出てしまった、と思った。しかし、出てしまったものを引っ込めるわけにもいかず、声の調子をいきなり変えるのも、それはそれで意識してると言わんばかりで恥ずかしく、結局シトラは甘えた声のまま、言葉を続ける。
「昨日の話、なんだけどね。未婚の男女が近くに……っていう、あれ」
「うん」
彼の低く、落ち着いた相槌が、言いにくい内容をするすると引き出すようで、ああ本当に自分は彼に甘えている、と顔を覆いたい気持ちになった。
「保護者だからって言ってくれたけど、きっと、他の人は理解しないよね……。私さ……クレイスの邪魔に、なってない? 魔塔、出たほうが良かったり、する?」
言ってしまってから後悔した。
心の防壁が無くなっていたとはいえ、こんな、あからさまに否定してもらいたいだけの発言を、何の準備もなしにしてしまった。もっと彼の負担にならないように、彼が本心を言いやすいように、そしてもし望まない答えが来ても傷つかないように、身構えた上でするべきだったのに。
クレイスの足が止まって、前を行く形になったシトラの手が引っ張られた。
振り向くと、目を見開いた彼が、怪訝そうな顔で自分を見つめていた。
「何を言うんだ、突然」
彼は繋いだ手を握りしめると、歩みを進めてシトラに向き直った。
「邪魔などと……あるわけがないだろう。それに、誰に遠慮することがあるんだ」
おかしなことを言う、というように、彼は苦笑した。
シトラは心底安堵した。自分はなんてずるいんだろうか、と思う気持ちと、聞けてよかったと思う気持ちがない交ぜになり、あはは、と気まずい声でその場を濁した。
クレイスはそれを見て、ふいに真剣な顔をする。
「……以前私は、期限など気にせず好きなだけ学んでくれと言ったね。それを今、訂正する」
「訂正?」
シトラの心臓がびくりと跳ねた。無期限という、考えられる上で最大限の待遇を訂正するというのは、いったいどういう意味なのだろう。邪魔ではないと言われたのは嬉しかった。でも、ただし期限付きでなら、という意味だったらどうしよう。もちろんそれでもありがたいことだったが、いつか去らねばならないと想像するだけで、シトラの心は激しく乱れた。こんなにも出ていきたくないと感じていたくせに、出て行ったほうがいいかと聞いてしまうとは、なんて矛盾だ。
何を言われるのかと、シトラは固唾をのんでその瞬間を待つ。
彼は首を傾げるようにこちらを見下ろして、ふっと笑った。
「ここはあなたの家だよ」
え、と間の抜けた声が出た。
「魔塔はもう、私とあなたの家だ。だからそもそも期限などないし、邪魔であるはずもない。誰に気兼ねすることなく、自由に過ごしていいんだ。わかったかな?」
クレイスは、つん、とシトラの額を突くふりをした。
「私の、家」
口にすると、ひどく違和感があった。大切な手紙を読み上げているような、自分の言葉ではないのに、どこか温かな感覚。
「そう。あなたの、家」
彼は自分の手を引いて歩きだす。彼が一歩踏み出すたび、廊下の魔導燈が、ひとつ、またひとつ、とついていき、暗い廊下に明かりが揺らめいた。
心臓が、とくとくと脈打っていた。体の内側を流れる血潮と魔力が、ざあざあと音を立て、全身を流れて耳の奥で渦巻いているようだった。彼はもう何も言わず、黙って自分の手を引いている。斜め後ろから見える横顔は、彼らしくかすかに微笑んでいて、魔導燈に照らされ淡く染まっていた。
◇
返し忘れた長衣は、まだ枕元に置いてある。
夕食が終わり、寝る支度を済ませ、寝台に上がろうとしてやっとそれに気が付いた。今からでも返さなくちゃと手にとって、シトラはふと、我に返る。
今日、自分は何をしたか。
一緒に夕ご飯を食べた。その前は、号泣して手を繋ぎ、一緒に家に帰った。
「まるっきり、幼児……」
ばふ、とシトラは顔ごと寝具に突っ込んだ。羽毛の掛物がふわんとシトラの顔と体を受け止めて、無言でゆっくりと沈んだ。
こうして一人になってみると、とても、すごく、非常に、顔を合わせづらい。
なぜ彼の前だとこんなにも幼稚な言動をしてしまうのか。前世の記憶持ちの、今世でだってもう結婚して子供がいてもおかしくない年頃の女が、あんな、あんな甘えた声を出して、構ってほしいとばかりのことを言い、彼の優しさを引き出すような真似をして。
「ああぁ……」
死にそう。
顔どころか全身が熱くて、また発熱しているのかと思うほどにかっかと燃えていた。
だけど何が困るって、死にそうに恥ずかしいのに、それでもまったく、嫌じゃない。いったいなんなの? 思い返すと耐えられないのに、もう二度とないとは思いたくない。
シトラはごろりと横を向き、畳んだ長衣が皺にならないよう、寝台において撫でつけるようにして平らにした。少なくとも今夜はまだ返せないな、と思いながら。
第二章お読みいただきありがとうございました。
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次からは第三章となります。




