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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第3章
36/58

1-1. 微笑み(1)

 両手ですくうと、合わせた手と指の隙間から、ぽたぽたとお湯が流れ落ちた。

 シトラは飽きずに、まるで水遊びを初めてした子供のように、何度もお湯をすくっては水音を楽しんでいる。体はすっかり温まり、額には汗が浮いていた。それでもまだ、シトラはお湯から出ようとしない。


 この世界に生まれて以来、こんなにゆっくりと湯浴みをしたことはなかった。魔塔に来てからも、居住層の一層目にあるシャワーのような魔導具を使うだけで、お湯に全身浸かって温まることはしなかった。


 昨日ふと、クレイスが読んでいる新聞を覗き込んだところ、その紙面の記事の内容から、彼が今手掛けている仕事の話になった。その時鉱山近くに温泉があると聞き、思わず「いいなぁ」と言ってしまったのだ。湯浴みが好きなのか、それなら明日にでも用意しよう、と彼は言った。そうして彼は、使われていなかった湯殿を一日で整え、こうして宣言通りに提供してくれた。


 湯船は白と緑が淡くまだらになったような美しい石を、つるりと磨き上げたものでできており、仮に五人入ってもまだ余裕がありそうな程に大きかった。なんでも、古い時代の賢者が入浴を好んでいたらしい。


「アルキメデスの原理も、お風呂で生まれたしね……」


 こうしてお湯につかるのは、考え事にいいと聞いたことがある。それを思い出し、シトラはちゃぽんと両手をお湯の中に沈めて、おでこの奥を意識するように思考した。


 それは、ずっと気になっていた、自身の償いについてだった。


 以前クレイスはシトラの商会での行為について『罪を犯していない』と言い切った。法的には、たしかに彼の言う通りなのだろう。しかし、シトラが調査の妨害に関与したのは事実で、商会が犯罪行為をしていたかもしれないと知って以降は、それは自身の心の奥に苦さとなって引っかかっていた。


「何をしたら贖罪になるんだろう……」


 広い湯船の中で、シトラは体勢を変えながら呟いた。お湯が波立ち、湯船から溢れる。それに構わず、シトラは下唇を摘まんだ。


 調査員が何度来ても調査が進まなかったのは、それまで、彼らが商会の帳簿を見たことがないからだ。この世界では帳簿の提出を義務付けられていない。その上、帳簿は散文形式の単式簿記で、複式簿記と違い相互参照の仕組みがないため、改ざんしようと思えばできてしまう。そして、過去の記録を知らなければ、その時の情報だけで判断するしかないのだ。だから調査員たちは、あの手この手で商会主を揺さぶった。自分はその揺さぶりを受け流していたのだったが……。


「過去の記録?」


 そうだ。調査員たちが過去の記録を持っていれば、その記録以前のことは改ざんしてもすぐに発覚するじゃないか。過去の記録を国が管理しているなら、改ざんを完全に無くすことはできなくても、抑制はできるかもしれない。


「これだ!」


 ざばあ、とシトラは湯船の中で立ち上がった。自分がアルキメデスになった気がした。


     ◇


 シトラは手早く服を着ると、濡れ髪だけは丁寧に厚布で押さえて、挟むように包んだ。白地に青の模様が入った湯上り用の布はすぐにしっとりと湿り、シトラは新たな布を出して肩にかける。そのまま毛先に香油をつけると、髪に櫛を通してから魔導燈を消し、湯殿を出た。暖かい空気が逃げ、さらりと乾いた空気が肌の温度を奪っていく。


 クレイスにはなんて説明しよう。


 一層目と繋がる階段を下りながら、シトラは眉を寄せた。本来なら、複式簿記を導入できれば話が早いし効果は絶大だ。だが、それを導入するには、まずは商人たちにその仕組みを広め、啓蒙しなければならない。仕組みがあっても使うものがいなければ、机上の空論となってしまう。日々の仕訳帳に加え、勘定科目ごとに記す総勘定元帳を、まったく何も知らない人に管理しろと言っても無理な話だった。おまけに、その知識の出所を説明する必要があるだろう。


 ベルヌーイの定理で紙飛行機を飛ばした時のことを思い出し、シトラはひどく真面目な面持ちになった。


 あの時感じた恐怖を今も同じように感じるかというと、そうではない。むしろ、話さなければと思っている。彼が、あれほど強い知識欲を押さえてまで尊重してくれた誠意、そして、この魔塔を『あなたの家だ』と言ってくれた温かさに対して、きちんと向き合いたい――いずれは。


(とりあえず、さっきの思い付きだけでも話してみようかな)


 大書架をくりぬいたような廊下を歩き、シトラは奥の執務室の前へたどり着いた。重々しい、艶めいた木の扉が、薄暗い書架の間に隠し扉のように現れているのが面白かった。その扉をこんこん、と軽く叩くと、中から「どうぞ」と声が返ってくる。


 扉を開けると、執務室に降り注ぐ明るい陽射しが、シトラのいる廊下をぱあっと照らした。クレイスは執務机に向かい、ペンを手に持って何か書き物をしている。その顔に、見慣れぬものがある。眼鏡だ。


 シトラは後ろ手で扉を閉め、ぱちぱちとまたたいた。眼鏡をしているクレイスを見るのは初めてだった。銀縁にも似た細い縁の眼鏡は、陽光の照り返しで白く光っている。仕事中のせいか、見慣れているはずの彼の顔が見ず知らずの他人のような、奇妙な心地がした。


「どうした? 何か用かな」


 動かないシトラに、クレイスが椅子から立ち上がる。シトラは一歩、壁際に後退した。それを怪訝そうに見やって、彼がこちらに歩んでくる。


「髪が濡れたままじゃないか。そのままでは風邪をひくよ。きちんと乾かさないと」


 まるで本当にお母さんのようなことを言いながら、クレイスはシトラの間近に立つと、濡れ髪をひとすじ手ですくった。


 ち、近い。


 眼鏡の奥の目が伏せられ、自分の髪に彼の視線が落ちる。観察するような淡々とした仕草。普段は距離の近さなどなんとも思わないのに、今日はその仕草が別人のようにひんやりとしていた。体が緊張して強張り、顔をまともに見られない。


「……シトラ?」

「あっ、ごめん。その……眼鏡似合ってていいね!」


 言葉に詰まり、よりにもよって、動揺の核心に自分から触れてしまった。クレイスは一呼吸の間沈黙すると、ふっと息を吐きだした。


「なるほど?」

 声に笑いが含まれている。


 シトラは顔をそむけたまま、その言葉を聞いていた。そのそむけた顔の横の壁に、そっと彼の手のひらが落ちてきて、え、と前を向く。


「こういうのがあなたのお好みか」


 被さるような姿勢のクレイスの顔が、陰になっていた。眼鏡の奥の碧眼が、からかうように細められ、それを縁取る睫毛の数が見て取れるほどに近い。


 その所作と、眼鏡に、シトラの心拍数が跳ね上がる。

 絶対、絶対、わざとだ! からかって、困るのを見て、楽しんでる!!

 反発心を抱きながら、しかしこれ以上ないほど赤面して、シトラは叫んだ。


「おっ……お母さんは壁ドンなんてしないよ!?」

「壁ドン」

 クレイスはシトラのすぐ目の前で呟いた。


 ややあって、彼は顎先を手で弄ぶようにしながら、シトラからゆっくりと離れる。


「確かにそうだ。娘を壁際に追い詰めるとは、私は悪い母だね?」


 彼は最後にちらりとシトラに視線を送ると、流れるように距離を取り、忍び笑いを漏らしつつ執務机へと戻った。


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