9-1. 私の(1)
日が傾くにつれ、演習場の気配が濃厚な蜂蜜色に染まっていく。
それを見るたびにシトラは思い出す。かつて光を灯すために、昼も夜も杖を振るい、体調を崩し、クレイスに看病させてしまったことを。それ以来決して無茶はしないと心に決めて、夕方には演習場を出るようにしていた。
日の光は無情にも赤みを増し、蜂蜜色から琥珀色へと移りゆく。一日が終わる。積み上げるものがない、ただもがくだけの一日が。
情けなかった。
クレイスを喜ばせたい、何かを返したいと思う気持ちは本当なのに、自分の手はこんなにもちっぽけで、簡単とされる魔術すら、成せなかった。
ルカから聞いた言葉が胸の中でこだまする。
『魔塔に引きこもって国益が』……。
クレイスは、組織の危機管理上、魔塔での執務に切り替えると言った。しかしルカから聞いたエレナの言葉は、それを裏付けるものではない。むしろ、『得体の知れない女』……つまり、自分がなんらかの形で関わっていることを示唆していた。
彼の主張は、シトラにはよくわかる。彼一人に権限と業務が集中することは、組織運営上、彼が万一損なわれた時を考えると致命的なリスクとなるだろう。しかしその裏に、自分が影響しているのだとしたら。
彼の決断だ。自分が思い悩むことではない。そう頭ではわかっているのに、何も成せない情けなさと、その自分が彼に悪影響を及ぼしているのではという懸念が、どうしても消えてくれなかった。
もし、自分が優秀であれば、彼は魔塔での執務に切り替えなかったのだろうか。
もし、もっと簡単に光の移動を成せていたら。
もし、彼が自分に回路を刻まなかったら。
もし、……。
答えの出ない愚かな疑問が、言葉にならずに心を苛んだ。
気が付けば、手のひらを見る自分の目から、涙が流れていた。
顎まで流れ落ちた涙の筋は、気化熱で冷やされ、その冷たさが否応にも泣いている事実をシトラに突きつける。
泣いているのだと認識してしまうと、視界が歪むほどに涙がわいた。
こみ上げる感情を見つめる理性が、ああ、今自分は泣いているのか、とどこか突き放したように分析している。どうして泣いているのか。そもそも泣く権利なんてあるのか。そんな非生産的なことに浸っていないで、やるべきことをやればいい。
うるさい、黙れ、と叫んで、何も聞かずに、ただ声をあげて泣きたかった。
泣き止むことも、泣き叫ぶこともできず、シトラは手のひらを見つめながら、黙ってぽたぽたと涙を落としている。
かすかな音がした。
その音が扉の開閉音だと気づいた時、シトラは急いで目元を袖口で拭った。
振り向くとやはり、クレイスがこちらに歩み寄るところだった。危ない、と内心で息を吐き、シトラは唇をにっこりと引き上げる。
「ごめん、夕方なの気づかなかった。呼びに来てくれたの?」
「うん。ルカは先に帰らせたよ。眠そうだったからね」
クレイスはシトラの側で立ち止まると、眉を下げるようにして穏やかに微笑んだ。
「そっか、挨拶できなかったな」
「また近いうちにくるさ」
「うん、そうだね」
大丈夫だ、普通に会話できる。そう安堵したとき、油断からか、涙の残滓がぽろりと一粒零れてしまった。
はっ、と咄嗟に後ろを向く。心臓が、どくどくと嫌な音をたてて鳴っている。
なんて言おう。なんてごまかそう。目にごみが入った? 杖を見つめすぎた? 夕日が眩しい? どれも苦しい。言い訳ができない。
沈黙すればするほど取り返しがつかなくて、それでも、なんとかごまかす方法はないかと、シトラは「あー、えっとねー」という無意味な声を出した。間が持たない。
そのとき背後のクレイスが、ふわりと動く気配がした。
なんだろうと思う間もなく、視界が遮られる。瞼を下ろすような彼の指先の動きが、濡れた睫毛をたどり、湿った目じりにたどり着く。
「いや、これはっ……えっとっ……」
気づかれた。
それはとても怖いことのはずなのに、気づかれてしまえば、まるでそれを初めから望んでいたかのような渇望と共に、新たな涙が溢れてしまい、彼の指を濡らした。
「これは、その、そう、光の移動が上手くできなくてっ……悔しくて」
黙ったまま、自分の目元に手を当てる背後のクレイスに、シトラは精一杯の平静さで声を上げた。
「違うんだ」
クレイスの声が、頭上から静かに降ってきた。
「違うんだよ、シトラ…」
語尾が空気に溶けるような、繊細で、優しい声。
「あなたに厳しくあることが師としてあるべき姿だと思っていた。光の移動ができるように。でも、違ったんだ」
クレイスはシトラの目元に当てた指で、涙をそっと拭った。幾度目かの往復でその指が止まり、溜息が落ちる。
「あなたの光は、動かない」
その言葉に、シトラのすべてが止まった。
意味がすぐに呑み込めなかった。
私の光は、動かない。
私の光だけは、動かない。
それは烙印にも似た、事実の宣告。
「……私のすべきことが、ようやくわかったんだ」
訥々とした、クレイスの声。
「それは、厳しくすることでも、諦めさせることでもない」
彼の指先が、濡れた睫毛をなぞる。
「私がすべきだったのは、そばにいてあなたの手を取り、共にあなたの道を歩くことだった」
クレイスは目元を覆ったまま、手をゆっくりと動かして、シトラの輪郭に沿って撫でた。
「あなたの光は、動かない。それでいいんだ」
熱い塊が、喉の奥で蠢いていた。
呑み込もうとして、シトラは何度も喉を上下させる。なのに塊は落ちるどころか、ますますせり上がり、閉じた瞼の隙間から、堰を切ったように溢れ出てしまった。
止まれ、止まれ、と念じるほどに、抗えない量の感情が目から、喉から溢れて、嗚咽となって彼の手をびしょびしょに濡らしていた。
クレイスの手が目元から離れる。戻った視界は涙で滲み、歪んでいて、もう夕闇に沈む演習場の壁の床の境目も見えない。
彼は背後からシトラをの肩を抱き込むようにして、その体を抱きしめた。
控えめな、慎ましやかな手つきで、ただ体温だけを共有するような、柔らかい抱擁。
漏れてしまう声を喉の奥で噛み殺しながら、この人はいつもこうだ、とシトラは思った。
初めて出会った日の夕食。素朴なスープを食べながら、弟子になるのはどうかと問いかけるクレイスの声を、シトラは今でも覚えている。逃げようと思えばいつでも逃げられる程度の、ほんのわずかな力の込め方で、こちらが怯えてしまわないように、それでもここにいるのだというように、優しさを分けてくれる。
どうしてなの。
シトラは苦しくなって身じろいだ。クレイスの腕の力がすぐに弱まる。その瞬間、どん、と体当たりでぶつかるようにして、シトラは彼の胸に飛び込んだ。遠慮も礼儀もない、むき出しの心で、流れる涙を拭いもせずに、小さく声を上げながら額をつけた。
クレイスは驚いたのか、しばらく微動だにせず、少ししてようやくシトラの背に手のひらをつけ、そのままそっと撫で下ろした。
「あなたは……本当に頑固な娘だ」
苦笑気味の声は、困っているようで、呆れているようで、それでいてひどく温かい。
「母がいつでも甘えていいと言っているのに、ここまで我慢するなんて」
背中を撫でる彼の手のひらが、あやすように、とん、とん、と動いた。
「いや、我慢させてしまったのは、私の責任かな……すまなかったね」
彼はそう言うと、シトラの背に回した腕に、一度だけ、しっかりと力を込めて抱きしめる。
額をつけることで保っていた空間が消え、シトラの頬が、彼の胸に押し当てられた。
あったかくて、気持ちよかった。
息を吸い込むと、長衣に感じたものより深い彼の匂いが体を満たして、その奥にある気配だけの甘い香りが、波立っている心を穏やかに静めていった。




