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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
32/58

8-1. 暗礁(1)

 私室に敷かれた生成り色の絨毯を、淡い月明かりが照らしていた。

 シトラは窓を閉めると、透かし織りの帳を引きもせず、新品同様の寝台の端に腰掛け、そのまま月光に浮かぶ絨毯の毛並みを見つめた。一本一本がほのかに照らされ、毛足の奥が陰になっている。その品のよい明暗が、絨毯のわずかな起伏にそった艶めきを生んでいた。


 しばらくして、彼女は、自身の手で頭頂から後頭部までをひと撫でした。先ほどクレイスに撫でられた感触とは違う、雑な撫で方。一度撫でただけで彼の繊細な手つきの名残りはどこかへ消えてしまい、あれはなんだったのだろう、という靄のような疑問だけが残る。


『寝かしつけが必要か』

『甘えてくれても構わない』


 そう言ってからかうクレイスの口調は、いつものように、『お母さん』という役を被った楽しそうなものだった。


 熱を出した翌日の、他愛ない冗談から生まれた、嘘のような関係性。それ以降、彼が母や娘と言うたびに、シトラは笑い、その配慮に畏れるほどの感謝を抱いてきた。


 シトラにはわかっている。彼がどんなつもりでその単語を紡ぐのか。

 彼自身が言っていた。全属性だから。回路を刻んだから。世話焼きだから。ただそれだけの理由で、彼は自分を保護し、衣食住ばかりか生きる術を与え、わがままでいい、望みを言えと人間として扱ってくれる。


 そしてそれを、自分が気にしない形で差し出すために、わざと『母と娘』という枠組みまで使って。


 呆れるほどに誠実で、途方もなく温かい人。


 男性の、しかも王国一の魔術士である筆頭宮廷魔術士が、『母』になるなど、笑い種でしかないだろうに、彼は冗談を装いながら、その実ひどく大真面目に、『お母さん』をしていた。


 それが責任感から生まれるものだと、わかっている。わかっているのだ。

 なのに、時折注がれる彼のまなざしや、自分に触れる手つきがあまりにも優しくて、実は本当に、我が子のように慈しまれているのでは……という恥知らずな憶測が生まれてしまう。


 それがとても、怖かった。


 普通に考えればあるわけがないのに、彼の仕草を感じるたび、そうかも知れない、そうに違いない、と自分を説得するような心の声が湧き上がる。この声に身を任せてしまえ、委ねて甘えてしまえばいい、と囁くのは、幻聴だろうか、悪魔だろうか。


 悪魔は言う。


『彼が本当にお前を我が子と慈しんでいるのなら、その思いを跳ね除けることこそ恥知らずではないのか?』と。


 シトラは彼が着せ掛けてくれた長衣の前を合わせるように、ぎゅっと握りしめた。

 清冽な魔力と、ほのかに漂う彼の匂い。かすかな涼やかさの奥に潜む、気配だけの甘い香り。

 それを思い切り吸い込むと、固くなっていた体がほどけ、ぼやけた思考がはっきりとするようで、シトラは彼の長衣に顔をうずめた。


 ――意味を見出してはいけない。


 彼の真意がどうであれ、その真意を推し量るようなことをしてはいけない。

 彼が自分を大事にしてくれているのなら――大事にしてくれているように見えるなら、自分はそれを、ありがたく受け取って、嬉しいと、素直にただ一言そう伝えればいい。


 そう思うシトラの頭の片隅で、いまだ分不相応な希望がちかちかと点滅する。

 この部屋を与えてくれたことだって、もしかしたら彼が、娘同然の自分を心から心配してくれたからなのではないか。そうだったらどんなにいいだろう。

 シトラは彼の長衣を脱ぎ、丁寧に畳むと、それを枕元に置いて寝具の中へともぐりこんだ。


 自分が彼の隣の部屋で寝ることを、彼は『保護者』と『回路を刻んだ者』の責任として語った。そしてそれはおそらく、正しい。でもきっと、それだけじゃない何かが自分たちの間をくるくると周期彗星のように巡っていて、その彗星の尾を見るたびに、自分の気持ちが揺れるのだ。


 冷たい枕に頬を押し当て、シトラはまたたく。

 そのひんやりとした感覚に、こうして彼の隣の部屋で眠っていることが急に信じられなくなり、シトラの手が畳んだ衣を引き寄せた。


『クレイスとは隣同士で寝てるよね』と聞いた時は、ただ疑問を口にしただけなのに、今改めて思い返せば『じゃあ離れて眠ろう』と言われなかったことにこんなにも救われている。


 外から見れば、クレイスの近くで寝るのは、ルカの近くで寝ることと、何も変わらない。彼と自分は、未婚の男女。家族という公的な枠組みのない、公的な弟子ですらない、曖昧な関わり。


 でもそれは、他人が勘違いするようないかがわしいものでは決してなかった。他人を、世間を、説得できる材料を持っていないだけ。あの問いに彼が一瞬口ごもったのは、おそらく彼も、そう感じていたからなのだろう。


 誰にも言えない、秘密のような関係。


 そう思うとなんだか、あっているのに、実体とかけ離れすぎていておかしかった。


 シトラは彼の衣を抱きしめて、目をつぶる。

 うじうじと考えるのはやめよう。早く寝て、明日の朝元気に笑おう。


 一つはっきりとわかっているのは、自分が笑うと、彼も嬉しそうにするということ。だからシトラは、ドーナツの美味しさを思い浮かべて、微笑みながら眠りに落ちた。


     ◇


 これは完全に『白熊効果』だ、とシトラは思った。


 『それ』を考えてはいけないと思えば思うほど、意識してしまう、皮肉な心理現象。


 シトラは演習場で杖を掲げ、『魔術の過程を考えてはいけない』と意識しては、光の移動の過程につい思いを馳せてしまい、そのたびに杖を下ろした。


「師匠! 見てくださいよ!」

 喜びの声に振り向くと、広い演習場の対角にいるルカが、クレイスに向かって何かを懸命に説明していた。黒々とした石壁に囲まれた演習場にあって、その一角だけ明るいように感じるのは、高窓から差し込む光が彼ら二人を照らし、柔らかそうな金髪と、流れるような淡い青髪を輝かせているせいかもしれない。


 クレイスが何かを告げ、ルカが頷く。課題が上手くいったのだろうか、二人の雰囲気が柔らかかった。この三日間、ルカが眠れずつらそうにしていたことを思うと、それはとても喜ばしいことに思えた。


 ぼんやりと眺めていると、クレイスの手が、ルカのくるくるした金髪をふわりと撫でた。ぽん、ぽん、と二回。ルカはやや距離を取るように上体を傾げつつも、両手で自分の頭を押さえ、照れたようにはにかんでいる。


 ――ひとつまみの澱のようなものが、人知れず心の底に沈んでいく気がした。


 いやいや。いやいや。何考えてるの。


 シトラは首を振って、杖を持ったまま、両手の指先で『きゅっ』と口角を上げた。明るい表情を作っていれば気持ちが上向くと聞いたことがある。感情は体についてくるのだ。だから笑え。

 笑みの形を維持して前を向き、シトラは杖の先に光を灯した。


(私が望めばなんだって叶う……私にはその価値がある……)

 昨日クレイスに言われたことを内心で呟きながら、息を吸う。

「光よ。我が意に応じ、その身を移せ」


 言い終わる前にやはり光は霧散して、シトラは無意識に溜息を吐いた。磨かれた石床に視線を落とす。すべての思考が上滑りして、感情が、自己の否定という一点に収束しそうになる。


「痛い、痛い……」

 シトラは気を逸らそうとして小さく囁いた。

 自分は今痛みを感じているのだ、ということに集中すれば、その感情を無かったことにできる気がした。


「どうした?」


 ふいに話しかけられ、驚いて顔を上げる。

 クレイスが案じるように眉を寄せ、こちらを覗き込んでいた。空気が動き、彼の、水のような気配が漂ってくる。決して重くなく、しかし乾きすぎてもいない、涼やかな朝霧にも似た何か。


「どこが痛む?」


 しまった、とシトラは慌てて笑顔を作った。聞かれていたんだ。

「あ、えっと、お昼ご飯の時にほっぺの内側噛んじゃって……」

 頬に手のひらを当て、気まずそうに伝える。嘘ではない。だから問題ない。


「それはいけないな。見せてごらん」

「え!?」


 事もなげにそう返され、言ったほうが驚いてしまった。


 み、見せる!? 口の中を!?


 固まるシトラの目の前に、クレイスの顔が降りてくる。その顔は真剣で、微塵も疑うところがない。

 シトラは彼の両肩を押し返すような仕草で、自分の体の前で手のひらを見せた。


「さすがに、口の中を見せるのは、恥ずかしい……」


 その呟きに、クレイスの動きがぴたりと止まった。そのままゆっくりと彼の体が引いていき、視線がためらうように横の床に落とされて、指先が彼の口元を覆う。


「……そうか。失礼した」


 彼は咳払いをして姿勢を正し、

「傷が治らないようなら、すぐに言うんだ。いいね?」

 とシトラに向かって、先ほどよりも硬い口調で告げた。


 うん、うん、と頷くと、クレイスは師の顔で頷き返して、さらに一歩シトラから遠ざかる。

「夕刻までの案件があるから、執務室に戻るよ。修練はここまでにしよう」


 何気ない、いつもの終わりの合図。それなのに、なぜかシトラは重い砂袋をぶつけられたような衝撃を感じた。先ほど嬉しそうにしていたルカの姿が目に浮かび、何も成せていない自分の手がひどく無意味なものに思えた。修練はここまで。前進できないまま今日は終わる。もしかしたら明日も、明後日も。


「私はもうちょっと続けてていい? ……その、何か掴めるかもしれないから」

 付け足したのは、『無理をするな』と言われないためだ。あくまで前向きに、自分を追い込むためではないと、止められないように後付けして。


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