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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
31/58

7-2. その理由(2)


     ◇


 夜風が心地よく吹いていた。

 クレイスは主寝室から通ずる露台の手すりに肘を載せ、どこを見るでもなく、眼前の王都とその向こう、宵空に深く沈む森の合間を、ただ茫と眺めている。背に流したままの髪が風にさらわれてなびき、吹き返すようにしていたずらに眼前を掠める。それをかき分けるようにして背に戻すと、彼は再び露台の手すりに肘を載せた。


 どうしたものか。


 明日には結論を出すと言った。しかし、結論は未だ出ていない。

 弟子に差をつけず、ルカに負担を押し付けず、己の領域を守るには。


 寝衣の上に羽織った長衣の裾がはためき、ひるがえる。それに構わず、クレイスの意識は思考の海に潜るため、ここではないどこかを目指そうとしていた。


 その意識を、かすかな音が引き留めた。窓が開く音。クレイスは反射的に左を向く。繋がった露台の、隣の窓から、薄手の衣を着たシトラがふわりと歩み出ていた。


 知らず、気配を殺していた。


 触れることも、声をかけることもためらわれるような、無垢で、無防備な生き物がそこにいる気がした。見なかったことにしたい。ここから立ち去り、この不可解な衝動をなかったことにしたい。だがそれはできない。自分に許されることは、師として、あるいは保護者として、彼女を決して踏みにじらず、尊重することだけだ。


「……眠れないのか?」


 できるだけ静かに、驚かさないように、クレイスは柔らかく声をかけた。彼女はそれでも軽く驚いたようにこちらを向き、すぐに、安堵したように笑う。


「ここ、繋がってたんだ」

 シトラは自然な足取りでクレイスに歩み寄ると、彼の隣で、同じように手すりに肘を載せた。衣が触れ合うほどの近さ。これまで、彼女の方からこんなに近づいてきたことはない。何が彼女をそうさせているのかはわからなかった。ルカとの触れ合いをきっかけに、彼女の個人領域が狭まっているのだろうか。


 クレイスは野鳥に留まられた枝のごとく、身動きせずじっとしている。


「ちょっとね、考えごとしてて」

 彼女は微笑みながらも、どこか複雑な色を滲ませて遠くを見つめた。黒髪と、白く薄い寝衣が風に揺れている。


 不用心すぎる、と思った。


 クレイスは反射的に長衣を脱ぎ、彼女の背に立ってそれを着せかける。


「え」

「その姿では冷えるよ。風邪をひいてしまう」

「でも、クレイスが」

「私は平気だ。これでちょうどいいくらいだからね」


 シトラは遠慮を含んだ瞳で振り返り、上目がちにクレイスを見上げた。彼は「いいから」と改めて長衣を深く着せかけて、元の場所に戻り、目を細めながら自分の衣を羽織ったその人を、頭の上から足元までゆっくりと確認した。肩から羽織った衣の前を、両手を交差するようにして合わせ、目を丸く開いて意外そうにしている。クレイスの衣はシトラには大きく、だぶついていて、露台の床に垂れ下がり、まるで毛布を直接被っているようだった。おかげで、先ほどの不用心さが幾分か軽減されている。


 クレイスは彼女のその姿に満足し、体ごと彼女に向き直るようにして手すりにその体をもたせかけた。


「あなたの眠りを妨げていたのは、なんだろうか。よかったら聞かせてくれ」


 先ほどとは違い、自然と柔らかな声が出ていた。

 シトラはややためらった後、控えめな声量で呟いた。

「昼間の……ルカくんのこと」

 やはりそれか、という思いで、クレイスは頷いて応える。


「クレイスは人の気配に敏感なんだよね。だから、だめって言ったのかなって」

「そうだね。あなたには以前にも話したことがあるが、私が魔塔に使用人を置かない理由も、それなんだ。ルカには気の毒なことだが、二層目に彼を入れるわけにはいかないな」

「うん。だったらさ、私がルカくんの近くで寝たらいいのかなと思ったんだけど……」


 眩暈がした。


 クレイスは指先でこめかみを押さえる。


「見ていてほんとに辛そうなんだよね。私にこう、ぴたっとくっついて、楽になるーって、まるでお風呂に入ってるときみたいに呟いてるの。昨日一晩しんどかったんだろうなぁって考えちゃった」


 シトラはあたかも自身がその辛さを感じているように、痛ましげに眉をひそめた。


 二層目にルカを入れるのはクレイスが辛い。でもルカを一人にしておくのはルカが辛い。だから自分が一層目に降りればいい。彼女はそう言っている。

 それは合理的で、この上なく明快な解決法だ。


「……シトラ。あなたは、優しいね」


 自分の声が強張らないよう、クレイスは慎重に語り掛けた。


「だがその優しさは、時にあなた自身を傷つける。いいか? 彼はまだ若者とはいえ、立派な男性だ。未婚の男女が近くで眠ることなどあり得ない。わかるだろう?」


 彼女は自分がどれだけ危ういかわかっていないのだ。


 決してシトラの思いやりを傷つけないように、クレイスは低く、穏やかな声で、子供に言い聞かせるようにして告げた。


 シトラはどこか腑に落ちない顔をしたまま、でも、と口を開く。


「クレイスとは隣同士で寝てる、よね」


「……それは……」


 彼女の論理はもっともだった。


 自分と彼女も、世間の基準に照らし合わせれば、未婚の男女という枠内に入ってしまう。だが、自分と彼女の関係はその枠ではとても収め切ることはできない。全属性の唯一の同胞で、回路を刻んだ者と刻まれた者、母と娘。その関係を真の意味で理解できるのは、この世に自分と彼女の二人しか、いない。


 クレイスは眉を下げ、慈しむようにしてシトラを見つめた。


「私はあなたの保護者だ。あなたに回路を刻んだ責任がある。同列には語れないよ」


 シトラは無言でクレイスを見つめていた。夜を映したような黒い瞳に、目の奥まで射抜かれそうだとクレイスは思った。視線を逸らすこともできず、ただ呼吸を数えながら沈黙をやり過ごす。


「そっか。そうだね」

 彼女は頷くと、納得したように息を吐いた。

「でも、それじゃやっぱり、ルカくんが可哀想だな……夜も眠れないなんて」


 それは確かにそうだ、と彼も同じように頷く。


 するとシトラが、息を呑んでぱっと顔を上げた。

「ね、通いにしてあげるのはだめなのかな? 住むんじゃなくて」


 通い。

 クレイスはわずかに目を見張った。


「それだ」


 なぜルカをここに住まわせなければならないと思っていたのか。

 通いにすれば万事解決ではないか。


「馬鹿か、私は」


 胸の奥から笑いがこみ上げてきて、クレイスはそれを噛み殺しながら、拳で口元を押さえた。


 あれほど悩んでいた時間はなんだったのか。それはあまりに単純な解で、気が付きもしなかった、だがそれ以外にない答え。


「ああ……これほど自分を愚かだと思ったことはないな。うん、あなたの言うとおりだ。彼には明日伝えよう」


 頬が緩み、口元がだらしなく歪んでしまうのを止められなかった。クレイスは笑いをこらえながら、隣でぽかんと自分を見上げる彼女に向かって、優しく目元を和ませる。


「あなたの憂いも、解決したならいいのだが」


 突然笑い含みになった自分を不思議そうに見つめていたシトラが、ややあって、ほんのりと、はにかむような仕草を見せた。


「うん。よかった。安心した」


 シトラは嬉しそうに、首を傾げて微笑む。この人が時々見せる所作は、地味で、ひどく慎ましい。しかしそれは、深い森に一輪だけ人知れず咲く菫のような、見た者にひそかな喜びを与える所作だと、クレイスは思う。


「さあ、もうおやすみ。今日は疲れただろう」


 彼はシトラの肩に控えめに触れた。安心したという彼女の言葉に、クレイスもまた安堵していた。同じところを巡っていた思考はようやく解放され、その余力は彼の胸に悪戯心という形で芽吹く。


「それとも、この子には寝かしつけが必要かな。……甘えてくれても、構わないよ」


 身を屈め、彼女の耳元のすぐそばで、クレイスはからかい含みの低い声を落とした。囁きの体温すら届けばいい、というほどの距離で。

 そうして彼は意図的に、ゆるやかに身を起こす。


 シトラは月明かりの下でもはっきりと、哀れなほどに、顔のすべてを赤らめていた。目は大きく見開かれ、動揺を物語る瞳が細かく揺れている。


 ああ、楽しい。


 予想通りの可愛らしい反応に、クレイスは愉悦の笑みを浮かべた。


「寝るってば!」

 上ずった声で反抗するシトラは、身に着けたクレイスの長衣をぎゅっと両手でつかんで、上目で睨みつけている。まるで仔猫が毛を逆立てて威嚇するようで、おかしくてたまらない。


「よろしい」


 クレイスは彼女の頭に手のひらをのせると、猫の逆立った毛を落ち着かせるように、繊細な手つきで幾度もその髪を撫でた。シトラは懸命に怒った顔をしながら大人しく撫でられ、やがて、くすぐったそうに身を捩る。その仕草が本当に猫のようだったので、彼の唇からはたまらず吐息が漏れてしまった。

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