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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
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7-1. その理由(1)

 居住層一層目の執務室から出て、居室に向かう。大書架をくり抜いた廊下は壁までもが隙間なく本で埋まっているため、さながら本でできた洞窟のようだった。星辰と天つ日の旧録、大結界施工史の技術的補遺、神世の詞残りし断簡、多重円環魔術式の接続同期に関する諸研究……この世の智識を一所に集めたように雑多で膨大な書籍の数々は、彼の居城の淵源であり、その一冊一冊は、古よりこの塔に住む賢者たちが愛した歳月のかけらだった。


 つい二か月前まで、クレイスは、心に波紋ひとつ起こさずこの廊下を歩いていた。ひと気はなく、静かで、世界から断絶された暗い城。しかし今は、その暗がりを照らすような存在と、騒がしいつむじ風のような存在がこの城に滞在している。


 光だけならよかった。むしろそれを望んでいた。彼女は自分の人生を照らす灯火だ。彼女といると、忘れていた人間らしい機微が自分の中によみがえっていくのがありありとわかった。不思議なことだ。同じ全属性の同胞だからか、はたまた自分が魔力を流し、回路を刻んだからなのか。彼女の気配は自分にとって煩わしさの欠片もなく、どころか安堵すら覚えた。彼女が笑い、眠って、息をしているのを感じるだけで自分が安らいでいくのを、クレイスはこのひと月で身に沁みて実感していた。


 しかし。


 師匠失格だ。弟子に差をつけるなど。

 クレイスはひたひたと廊下を歩みながら瞼をわずかに下ろした。


 自分は今まで公平な人間だと思っていた。誰に対しても分け隔てなく接することができると。だがそれは都合のいい幻想だったのかもしれない。弟子が一人しかいなかったせいで可視化されていなかったのだろう。


 未熟なことだ。

 彼は自嘲して皮肉めいた溜息を吐いた。筆頭として、師として、正しくあらねばなるまい。そのためにも、気を引き締めて彼らに応対せねば、と彼は固く決意した。




 居室に足を踏み入れると、長椅子に弟子二人が並んで座っているのが目に入った。ぴったりと寄り添うように。隙間のない本棚に無理やり押し込まれた本のように。




 クレイスは無言で長椅子の背後に歩み寄り、ルカの襟首をつかむと、シトラとは反対側の空間へ力強く引き寄せた。


「痛たたたたた!」


 抗議の声が耳に届き、クレイスはその手の力を緩めた。

「淑女に対しその距離感はないだろう、ルカ」

 弟子に注意しながら、彼は台所へと向かった。気付かれぬように長く、深く嘆息する。


 ――また、やってしまった。


 苦い内省を胸に抱いてクレイスは湯を沸かし、茶器を取り出す。習慣化された手順は波立った心を鎮めていくようだった。


 淑女に対して非礼なのはその通りだ。あの忠告は至極教育的で、ルカのためでもある。しかし当のシトラが意に介さないどころか受け入れているのだから、もう少し優しくしてやってもいいのではないか。


 なのに、あの光景を見た時、自分は考えるより早くあの二人を引き剥がしていた。

 思考というよりはもっと深い、原始的な抵抗感に似た何かがこの体を動かした。


 彼女の身の内に流れる己の魔力が過剰に反応しているのか、あるいは、母としての役割を担ううちに、精神までもが母親に染まり切っているのか、それとも……。


「おっと」


 クレイスは茶葉をすくったスプーンを宙に浮かせたまま、手を止める。


 省察に耽り茶葉を入れすぎるところだった。牛乳を入れるならあとひとすくい入れてもいいが、彼女は甘味を食べるときは牛乳も砂糖も入れない。危ないところだったな、と苦笑して、クレイスは茶葉の缶の蓋を閉めた。そのひやりと硬い手触りが、意識を現実に繋ぎ止める気がした。


 湯が沸くまでの間、カウンター越しに弟子たちの様子を見守る。

 ルカは反省したのか、シトラとの間に拳一つ分の空間を開け、腕を伸ばすようにして手を握っていた。彼女の小さな手が、ルカの大きめの手に包まれている。少年と大人のあわいにある、過渡期特有の若い手が、無遠慮とも思えるほどに彼女の手全体をしっかりと包んでいた。


 それを見た瞬間、菓子店で繋いでいた彼女の手の柔らかさと温度が、クレイスの手のひらに生々しくよみがえった。指の間の皮膚の繊細な薄さ、丸く小さな爪とその生え際、力を込めると素直に握り返す温かさ……。だがその手は今、ここにはない。


 眉がぴくりと動きそうになり、クレイスは慌てて眉間を揉む。湯が沸いた音に助けられて紅茶を淹れ、甘味と共に盆の上に載せると彼は長椅子の卓にその盆を静かに置いた。


 シトラの向かいに座り、茶を注ぐ。琥珀色の美しい筋を描きながら、茶器が紅茶で満たされる。湯気がごくかすかに立ち上り、すぐに散って消えた。


「どうぞ」

 クレイスはシトラに茶器と甘味を差し出した。次いでルカに。そして自分の分を置くと盆を脇によけ、ふう、と長椅子の背に体を預けた。


 ルカが来てから二日目になるが、どうにも気が休まらない。執務の合間、ルカがシトラを困らせていないだろうか、無茶な要求をしているのではという思いが浮かんでは、こうして様子を見に来てしまう。大体、ルカが来るまで、修練の時間以外シトラは気ままに読書を楽しんでいたはずだ。にも拘らず今はこうしてルカに付き合っている。それが彼女の選択だとわかっていながらも、クレイスにはどこか歯痒い。


 いっそのこと修練の時間を長くとってしまうか。


 浮かんだ考えを、クレイスは一瞬でかき消した。それは今の彼女には酷だ。


「今日の修練、二人ともよく頑張っていたね」

 そう言いながら、彼は茶器の取っ手を摘まんで紅茶を口に含む。華やかな香気が広がり、午後の落ち着いた空気に溶けるようだ。


「ルカは制御が徐々に精密になってきている。風の制御は難しいからね。風の大きな力を利用するには、周囲を巻き込まないような繊細な制御を身につけなくてはいけない。高地で、自然を感じながら行った修練が良かったのだろう」

「ありがとうございますっ!」


 元気の良い、溌剌とした若者らしい声。

 ルカはさきほどの叱責を気にする様子もなく、明るく笑った。


「さて、シトラだが……」

 クレイスは言葉を切って、向かいのその人を見つめた。


 彼女の目が、ぱち、ぱち、と二回またたいたのは、緊張の表れだろうか。唇を結び、師の言葉を聞き漏らすまいと背筋を正す姿が凛として美しい。その健気な弟子に、できれば優しく温かい言葉だけをかけてやりたかった。しかしそれでは彼女の成長には繋がらない。


「風の制御は見事だ。特にあなたの場合、ごく小さな風を操ることに長けているね。常人であれば感知できないほどの揺らぎを正確に操るのは称賛に値する」


 彼女があからさまに安堵した顔をするので、クレイスはすぐさま後悔した。話の順を逆にすべきだったのに、己の迷いのせいで口にしやすい内容から告げてしまった。またしても師失格だ。


「だが、光の移動。こちらはやはりあなたの課題だ。本来、光を灯せるようになった魔術士は、光の移動を難なく行える。しかしあなたの場合は違う。心象の固定ができていないね?」


 シトラの顔が強張った。


「心象の固定、つまり術者の確信は、己の胸の内から生まれる。傲慢であれ、とまでは言わないが、あなたはもう少し自分を知ったほうがいい。あなたが望めばなんだって叶う。あなたにはその価値があるんだよ、シトラ」


 彼女は、うん、と頷くようにして俯いた。

 この言葉が真の意味で届かないのはわかっている。シトラはあまりに備品として生き過ぎた。己を殺し、息をひそめて生きてきた者に、今日からその心のままに生きろと言っても無理な話だろう。だがそれでも、クレイスはシトラに言葉をかけ続ける。彼女のためではなく、自分のために。


 俯いたシトラの姿に、以前彼女が贈ってくれた、広場の光の洪水が重なった。


 あんなにも美しいものを生み出せる人が、それを誇らず、自信喪失している姿が痛かった。

 今すぐ立ち上がり、その頭を撫でて、なにも気にすることはないんだと母として甘やかしたい。しかしそれは彼女が自身で立ち上がる力を奪うかもしれない。母と師の狭間でクレイスは揺らぎ、結局は、甘味を差し出すという中途半端な行為に収まった。


「グラン・ノアで買った最後の甘味だよ。また買いに行こう、いつでも。今度は食べたいものを食べたいだけ選ぶようにね」


 するとようやく、シトラが顔を上げて微笑んだ。

「ありがとう。今度は、生の果物がのったものがほしいな」

「ああ、いいね。そろそろツェラムの旬がくる頃だ」


 自分を責めすぎるのはこの人の悪い癖だな、と思いながら、クレイスは少し冷めた紅茶を飲み干す。また執務に戻らなくてはいけない。この二人を残して。


 立ち上がったクレイスを、遠慮がちな声が引き留めた。シトラのものではない。ルカだ。


「あの、師匠。お願いがあるんです」

 まるで仔犬のような潤んだ瞳で見上げてくる弟子を、クレイスは意外な気持ちで見下ろした。この弟子がこんなに懇願する顔を初めて見たからだ。


 それほどの頼みであるなら、とクレイスは温かい眼差しをルカに向ける。弟子に差をつけてはいけない。彼女に気を配るように、ルカにもまた等しく、配慮しなくてはいけない。


「何かな?」

 ルカの隣に歩み寄り、労しげに声をかける。


「俺、シトラさんの近くで寝たいん――」

「だめだ。」


 口が勝手に動いていた。


 クレイスは渋い顔を作り、腕組みをする。組んだ腕の上で、指先がとんとんとその腕を叩いた。


「……一応、理由を聞こう」


 ルカはあからさまに落ち込んで、そんなぁ、と言いたげな視線を向けている。

「だってここにいると、師匠の魔力が時々いきなり痛くなるし……修練で自分の魔力も暴れるし。こうしてシトラさんの近くにいることで何とか回復してるけど、足りないんです。王宮での修練だったら自分ちに帰れたじゃないですか。自分ちならよく眠れるんですよ、俺。だからせめてシトラさんの近くがいいなーって」


「そうか。私の魔力が君を苛んでいるというのは師として非常に心苦しく思っている。だが許可はできない」


 一息で告げて、クレイスはルカから視線を外し、大窓に寄ってたゆたう雲海を眺めた。胸の前で組んでいた腕を解き、後ろ手でふわりと組み直す。

 彼は努めて穏やかに、背後のルカへ優しく声をかけた。


「君の体質が今の状況に合わないというのであれば、対策を考えよう。魔塔で修練をしているのは私の都合でもある。明日には結論を出すから、もう一日だけ待ってくれないか」


 気の毒な弟子が「わかりました」と大人しく引き下がり、クレイスは窓の外を眺める目をわずかに細めた。狭量すぎるだろうか。だが許可することはどうしてもできない。なぜか? 理由など決まっている。『シトラの近くで寝たい』と聞いたあの瞬間、縄張りを侵されるような強烈な不快感に襲われた。ルカが魔力に過敏なように、自身もまた気配に敏感だからに他ならない。居住層二層目に他者を入れることは考えられない。それは世界の理と同じく、やむを得ないことだ。だから『だめだ。』と口が動いた。体のほうが先に答えを知っていたのだろう。


 クレイスの理性がぐるぐると渦巻き、先ほど口が勝手に動いた行為について遡及論証していく。


(……うん。当然の帰結だ。問題ない)


 彼は納得したようにひとり微笑んだ。


 もちろん、だからと言って生じている負担をルカだけに押し付けることは師としてあるまじき行為である。今日中に対処しなければならない。

 クレイスはくるりと振り向き、書架の洞窟へと足を向けた。


「執務に戻るよ。何かあれば声をかけてくれ」


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