4-2. 驚き(2)
◇
背中から差す夕日の赤が、石畳や街並みごと、クレイスの全身を染めていた。
彼はただ、顔だけを背け、菓子の紙包みを黙って抱えている。片手で事足りるようなその包みを所在なさげに両手で覆う姿は、困っているようにも、ためらっているようにも見えた。
喋らないでくれ、と彼は言った。
謎がいっぱいだ、だから。その後、自分はなんと続けようとしただろう。だから教えて。あなたは何が好きで、どんなものを楽しいと思うのか。魔術に初めて触れたのはいつで、どんなふうに学んできたのか。王宮でしている仕事はどんなもので、あなたにとってどんな意味を持つのか。
それらを全部ぶつけてしまえば、きっとクレイスは、困ってしまうのだ。自分に踏み込まれたくない部分があるように、おそらく彼にも触れてほしくない領域があるのだろう。それで、自分の言葉を奪ったのかもしれない。
不躾だったな、と思い、シトラは目を伏せる。
誰かのことをこんなにも知りたいと思うのは初めてだった。
今までは多分、知りたいと思うほどの、近しい人がいなかったから。
しかし彼は違った。師として、あるいは冗談めかした母として、その実、友人のような気安さで、クレイスは自分を導き、面倒を見続け、温かい思いやりをくれている。それはとても一方的で、だからこそシトラにはそれが歯がゆかった。返したいと伝えても、もらっている、十分だと言って笑う彼に、自分は何ができているのだろうと。
今日だってそうだ。いつの間にか馬車を手配し、道々の景色を自分に見せてくれた。王都の物珍しさに目を奪われ、迷子になった自分を見つけ、一緒に買い物をした。あとはお土産を手に帰るだけ。
私も何か、したいのに。
この喜びを、嬉しさを、形にして渡したい。今日一日のありがとうを伝えたい。言葉では足りないのだ。言葉で伝えるとしたらきっと、一週間くらい言い続けて、クレイスに呆れられもうやめてくれと笑われるに違いない。
彼が喜ぶことはなんだろう。
お茶を淹れることすら『私がしたいんだ』と取り上げられてしまうのだから、労働で返すことは難しい。だとしたら、何?
(…………そうだ)
シトラの脳裏に、紙飛行機を飛ばして喜んでいるクレイスの姿が浮かんだ。出かける前には魔導書を飛ばして子供の用にはしゃいでいたっけ。
いつのまにか、石畳に闇が落ちていた。顔を上げると、いまだ無言で立っている彼の輪郭がぼんやりと薄闇に溶けている。
振り向けば時計塔の背後の空が、夕焼けの名残を滲ませながら宵闇へと移ろいゆこうとしていた。
「帰ろうか」
斜めにぽつりと声を落とし、クレイスはこちらを向いた。いつも通りの端正な微笑みだった。
「沈黙令、解けた?」
茶化すように問いかけると、その微笑みが苦笑に変わる。
「すまなかったね。あなたが律儀すぎるのを失念していたよ」
「それ、褒められてるのかなぁ」
「褒めてるさ。もう少し『いい加減』になってほしいとは思うけどね」
「いい加減なところはたくさんあるよ? 整理整頓、苦手だし」
「ふむ。室内履きがいつも片方散っている理由はそれか」
軽口を叩きながら、シトラはクレイスの横に並び、自然な足取りで共に表通りに向かう。
広場から見える通りの両脇に、一定間隔で魔導燈がついていた。時間になったら自動でつくのか、それとも誰かが手動でつけているのかなと思いながら眺めていると、ふと前世の街灯が頭をよぎった。白く効率的な前世のものとは違い、魔導燈の明かりは弱く頼りない。それでも、その光は帰路を照らす道標として道行く人に安らぎを与えている。
シトラは、ぱっと振り返った。
広場はすでに暗く、先ほど時計塔を眺めたあたりの大木が、うっすらと影絵のようにそびえているのが見えた。ここからでは人影が一切見えないほど、広場の闇は深い。
「どうした?」
足を留めたシトラに、数歩先を行くクレイスが振り向いた。
「ねぇ、クレイス。魔術を使っても、いい? ううん、使いたい。使わせて」
彼は一呼吸思案してから、こちらに歩み寄って頷く。
「構わないよ。何をする気だ?」
「内緒」
シトラが悪戯めいた笑みを浮かべると、クレイスは意外そうに目をまたたかせた。
その彼に、上着の内側に忍ばせていた白樹の杖を取り出してみせる。
「初めてだから、上手くいくかわからないけど」
たった今思いついたもの。できるかどうかも未知数の。
でも、魔術が心象を固定するものなら、きっとできるはずだ。だって、自分は光が灯せるし、それを『知ってる』のだから。
「クレイス、見ててね」
白い杖を広場へ向ける。心象を固定する。紙飛行機に喜んでくれた彼なら、きっとこれも喜んでくれるに違いない。そうだといいなと思いながら、シトラは呪文を口にした。
「光よ」
一瞬の間すらなかった。
詠唱が終わると同時に、闇に沈んでいた広場が明々と照らされる。
影絵のようにそびえていた大木に、無数の、本当に数えきれないほどの小さな光の装飾が成されていた。枝の間から葉先に至るまで、小さく淡い光が、身を寄せ合うように細やかに煌めいている。燦然と美しく彩られた大木から、しゃらしゃら、きらきらと、硝子同士が触れ合うような輝きの音が、ここまで聞こえてくる気がした。
「できた……」
杖の先から、体中の魔力が一斉に抜けていくのを感じつつ、シトラは呟いた。
複数の光を灯すことは初めてではない。しかし、この規模で試すのはさすがに初めてで、知らずシトラの胸が高鳴っている。
光の洪水に照らされた広場に残っていた人が、ざわめいていた。人通りが疎らになった通りの人々も、大木を見ては一斉に声を上げる。こちらの世界には、木を光で彩る習慣はないのだ。
でも、だからこそ、見せたかった。
自分が持っている美しいものを共有したくて。
「クレイスにね、見せたくなっちゃった。今日、楽しかったから。お礼の代わり」
どうかな、とシトラは振り返る。喜んでもらえたかな、と期待して。しかし、彼は喜びの笑みを浮かべてはいなかった。ただ、黙って大木を見上げている。
その碧眼が、無数の光を反射して湖面の光のように揺れていた。
「クレイス……?」
彼は一言も発しない。またたきもしない。じっと、シトラの灯した光を見つめている。時が止まってしまったかのように。
震える長い睫毛と、大木をなぞるようなゆっくりとした瞳の動きだけが、彼が今ここに息づいていることの証だった。
シトラもまた、彼の横に並ぶようにして、彩られた大木を眺めた。そこだけ星空をぎゅっと固めたような空間から、ひとつ、またひとつと、徐々に光が消えていく。光がひとつずつ闇に溶け、やがて最後のひとつが消えて元通りの広場が戻った時、ようやくクレイスが深く息を吐く音が聞こえた。
彼の抱えた紙包みが、かさりと鳴る。
「……あなたは……私を驚かせる、天才だね」
魔導燈のほのかな明かりが、彼の横顔を照らしていた。こちらを見ようとはせず、目元だけを微かに緩めている。
「あなたがくれた贈り物、確かに受け取った」
クレイスはゆっくりとまたたいた。
「とても、きれいだったよ。シトラ」
穏やかな、しかしどこか素っ気ない声が耳をくすぐる。相変わらずこちらを向きもしない彼の言葉に誇らしさを感じながら、シトラは彼の声を噛みしめ、微笑んだ。




