4-1. 驚き(1)
小さいな、とクレイスは思った。
彼の手に収まるシトラの手は、温かく、ほのかにしっとりとしている。魔塔に連れてきた直後や、彼女が高熱を出していた時は、この感触をそのまま受け取る余裕があまりなかった。自身の指の先は、彼女の手の甲に回り、小指側のふくらみをしっかりと包んでいる。手のひらの、あるいは指の付け根の、柔らかい感触。自身のものとはまるで違う繊細な質感に、クレイスは奇妙な心地よさを感じていた。
グラン・ノアの店内は、自分とシトラだけだった。貸切にしたわけではなかったが、人を連れて行くと連絡をしたときに店主が気を利かせたのだろう。ひと気のない落ち着いた場所で、こうして手を繋いでいることが不思議だった。繋いだのは自分だというのに。
「どうしようかな……これも美味しそうだし、これもいいな」
シトラは呟いて、じっと硝子容器を見つめている。その横顔が真剣そのもので、この人は菓子一つを選ぶにもこうなのか、と半ば呆れるような、穏やかな気持ちが広がった。
「いくつでも、何種類でも構わないよ。ほしいと思ったものを全部言ってごらん」
「え! そんなこと言ったら、言った端から全部買うんじゃ……」
「当然、そうする」
「そんなに食べきれないよ!? もうちょっと待って、選ぶから」
彼女はますます真剣な面持ちで、硝子容器に顔を近づけんばかりに見つめた。繋いだ手がわずかに引かれる。
その時、奥から、出来上がったばかりと思われる菓子が入った籠を抱えて店主が現れた。
「ようこそお越しくださいました、閣下」
「ああ」
店主は硝子容器の脇の棚に籠を置くと、慎み深くシトラに話しかける。
「お客様、こちらはただいま出来上がりました『トゥナーシュ』でございます。よろしければ」
シトラは、店主が指し示した籠の中身を覗き込むようにし、直後に顔をぱっと輝かせた。
「ドーナツ!」
シトラの頭上を越えるように身を寄せて、クレイスもその籠を覗いた。中には、太い腕輪か小さな車輪のような、輪の形をした菓子が蝋引き紙に包まれるようにして入っている。
「こちらは保存魔術により、五日ほどは美味しくお召し上がりいただけるかと存じます」
顔を綻ばせたシトラを見て、店主が嬉しそうに付け足した。
「クレイス。私、これにする」
こちらを振り仰いだシトラが、尻尾を振らんばかりの勢いでトゥナーシュを指した。
「うん。いくつほしい?」
「えーと……私とクレイスでひとつずつ、だから二個かな。あ、クレイスはもっと食べる?」
当たり前のように自身の分も数えられ、クレイスはじわりと胸が温かくなるのを感じた。
「いや、あなたと同じ数にするよ。他にほしいものは?」
「他? 他……うーん……思いつかない……」
シトラは腕組みをして懸命に考えこんでいる。
あれだけ悩んでいて、すべての甘味と菓子に目移りしていたというのに、なぜ思いつかないのか。端から端まですべてほしいと口にすればいいのに、それをしない。
そのことがおかしくて、クレイスは店主がいるというのに思わず軽く吹いてしまった。
「わかった、いいよ。では、あなたに選ばれた栄誉なトゥナーシュを包んでもらうとしよう」
目配せすると、店主は心得たように菓子を包みだす。
「日持ちするものを幾つか、見繕って入れてくれ」
彼は懐から財布を取り出し、指先で白金貨を深くつまみ、手のひらで覆うようにしてそっと店主に差し出した。店主はそれを恭しく受け取ると、甘味と菓子を満遍なく選び出してトゥナーシュと共に白い麻紙で手際よく包む。封蝋で留めて紐をかけたのを見届けて、クレイスは傍らに立つシトラに視線を落とした。
「行こうか」
「うん」
彼女は抵抗を諦めたのか、それとももう気にしないことにしたのか、大人しく手を引かれている。扉の前に立つと、店主が包みを渡して扉を開け、丁重に頭を下げた。それに頷きを返して、クレイスは表通りに足を踏み出した。
春の風が彼の頬を撫でていく。
彼は右手に紙包みを持ち、左手でシトラの手を引きながら、蜂蜜色に霞む街中を歩いていた。
「ドーナツ。嬉しいな」
シトラは弾むような声音で呟いた。
菓子店ではトゥナーシュと説明されたその菓子を、シトラはドーナツと呼ぶ。その呼び名について、クレイスは何も言わない。おそらく彼女には、唯一彼女だけが覗くことを許された、秘密の窓があるのだろう。あの美しい魔術がそうだったように。
クレイスは俯くようにして、繋いだままの手にそっと視線を落とした。
夕方に差し掛かる雑踏の中、こうして手を繋いで歩いていると、まるで自分が街行く人々の一部になった心持ちがする。肩を寄せ、親しげに言葉を交わして笑い合う彼らのような。
事実、菓子の紙包みを抱いて彼女の手を引いている自分の姿は、驚くほどこの街に溶け込んでいた。誰も自分を振り向かない。筆頭と呼ばない。ただ隣にいる彼女だけが『クレイス』と自分の名を呼び、笑いかける。
それが嬉しくて、クレイスは思わず、彼女の手の甲を親指の腹で撫でた。羽毛が掠る程度の、肌に当たるか当たらないか程の、かすかな触れ合い。
そして彼は、息を呑むようにして手の力を緩めた。
――今、何を。
自問しかけたクレイスの耳に、広場の時計塔が奏でる鐘の音が届く。
シトラの足が早まった。繋いでいた手が自然と切れ、彼女が小走りに駆けていく背が見える。だがその足取りは自分を置いていくほどのものではない。
「ねえ、時計塔、すごいね」
広場にたどり着いたシトラが振り向きながらクレイスに呼びかけた。彼女の背後では、広場に据えられた天文時計の大きな時計盤が、今まさに仕掛けを呼び起こし、鐘を鳴らしていた。彼女は広場に植えられた大木の根元までてくてくと歩き、もっとも眺めの良い場所を見つけたとばかりに、足を留める。
「時刻だけじゃないんだ、これ。見方がよくわからない」
シトラは首を左右に傾げながら時計を眺めていた。
「ああ、これは天文時計だからね。天をめぐる様々な星の配置も表しているんだよ」
クレイスも追いついて隣に立つ。興味深そうに唸る彼女の視線が忙しなく動いて、こちらをちらりとも見ようとしないのがおかしかった。
「読めないけど……不思議。きれいだな」
彼もまた、広場の後方に位置する塔の時計盤を眺める。大きな時計盤は青や橙などで彩られ、銀色の針と輪が気高く鎮座していた。時刻の他に、日や月が指し示され、からくり人形が出てくる王都の象徴とも言うべき時計だ。機巧師の粋を集めたそれは、魔術の類を一切使用していない。にもかかわらず非常に精巧に動くので、魔導省が『王都広場の時計を魔術駆動に変更すべき』と何度主張しても、いまだこの天文時計は広場の主で居続けている。
いつの間にか鐘が鳴り止んでいた。
クレイスは、いまだ飽きずに時計を眺め続けるその人をひそかに見やった。目が見開かれ、上気した頬が上がり、口がわずかに開いている。押さえられない好奇心で瞳が輝いていて、これでは本当に子供のようだな、と笑みがこぼれた。
「あなたの知性、好奇心は、とどまるところを知らないね」
クレイスの言葉に、そうかも、と彼女も笑う。そのままシトラは、数歩先にある噴水の脇まで歩いて、細く流れ落ちる水を興味深げに眺めていた。夕日が水筋に透け、きらきらと輝く。
「だって、世界って不思議なんだもの」
シトラがふいに振り返った。春風が彼女の長い黒髪をいたずらに舞い上げ、顔を覆い隠す。
逆光に縁取られるように、金色の輪郭が浮かび上がっていた。シトラが髪を押さえて、耳に掛けながらこちらを見つめる。
彼女はゆっくりと、歌うように言葉を紡いだ。
「砂ってなんだろう。石はどうやってできるの。気になってしょうがないんだ」
ひどく純粋な疑問がシトラの口から零れ落ちる。
「雪の結晶はなぜ美しい形なの。命はどうやって生まれたの。生き物が感情をもつのはどうして。あなたの髪が青いのはなぜ?」
心臓が跳ねた。
胸の奥で、既に鳴り止んでいるはずの時計塔の鐘の音が、いつまでも鳴っている。
からん、からん、と鳴り響く幻聴が、喉をせり上がり、鼓膜を直接揺さぶった。
彼女がこちらに歩み寄ってこなければ、立ち尽くしていたかもしれない。
クレイスは首を振って、大仰に息を吐きだした。
「……あなたの、疑問は……心臓に悪いよ」
「どうして?」
シトラは彼の様子を意に介することもなく、首をひねって問いかける。
「考えてもみてごらん。自然界の不思議と同列に並べられ、その終着点が自分では……責任重大すぎる。そうだろう?」
はあ、と溜息をついて、クレイスは片手で顔の左半分を覆った。
「そういうものかなぁ。どんな色素なのかなって興味あるけど」
色素。
クレイスはぴたりと動きを止めた。
「……そうか、色素か。色素。なるほど」
低く、震えるような笑いが腹の底から湧きあがった。
「あなたは、私の髪の色素に興味があるのか」
この髪色を美しいと評する人間はごまんといた。アルヴァレインを継ぐものとして、古き賢者、魔法使いの血の在りかをこの髪に重ね、褒めそやし、称賛する。さすが全属性の異能よ、と激賞する。
だが、まさか、色素とは。
笑いの波は大きくなり、くくく、と口から漏れてしまう。
「いや、すまない。私の髪の色素を気にする人は、初めてで。光栄だよ、あなたに興味を持ってもらえるとは」
言うと、シトラはますます首をひねった。
「そう? クレイスのこと、なんでも知りたいけどな、私」
口から出ていた笑いが、全部消えた。
「…………」
息を吸う。吐く。また吸って、吐く。
クレイスは喉を鳴らした。思考がなんとか戻ってくる。
(……この人は、本当に)
顔を覆ったままの手で、クレイスはごしごしと乱暴に顔面を撫でた。
夕日に染まった広場ががちらちらと見え隠れして、その中にシトラが不思議そうな顔で佇んでいる。
「私にとっては、クレイスってすごく謎がいっぱいなんだよね、だから」
「シトラ。わかった。もうわかったから……それ以上喋らないでくれ。頼む」
放っておくと、彼女の口からどんな言葉が飛び出すかわかったものではない。
先ほどとは違う力ない笑いを浮かべながら、クレイスは菓子の入った紙包みを抱きしめた。




