3-2. 囁き(2)
「ごめんなさい!」
シトラはただ一言詫びて、頭を下げた。
喧騒にかき消されそうな溜息が頭上から降ってきて、「顔を上げなさい」と言われる。
言うとおりにすると、彼はこめかみを揉みながら、心底困ったように呟いた。
「はぁ、まったく……私は今、この世のすべての親に対して敬意を抱いているよ」
軽く首を振りながら、クレイスは苦笑する。
「ひと時も目を離してはいけないというのがどういうことなのか、身に沁みてわかる。母になるのも楽ではないな」
その言われように、かぁっとシトラの顔が熱くなった。
いや、大人だから。この世界に生まれて、もう二十四年だから。
しかしその行動はとても『大人』と呼べたものでないことも確かで、シトラは恥じ入って小さくなることしかできない。
「あなたと来たらまるで、本当の幼子のように……ふっ」
耐えきれないといった様子でクレイスが吹き出した。
「いやだって、光が! 動いてたんだもの!」
幼子と言われ思わず反射的に反論したが、その内容がそもそも幼児の言い訳と同じことに気が付いて、シトラは顔をしかめた。
「そうか、そうか」
クレイスは拳を口に当て、笑いながら同意している。むしろ同意される方が恥ずかしい。
「この広告を見ていたんだね?」
看板に吸い込まれる光を見上げながら、彼はシトラの手を取った。
「あなたが辿りついたのがこの店でよかった。私もここに用事があったんだよ」
ひんやりとしたクレイスの手に、右手が包まれていた。
「あの……」
なんと指摘したらよいかわからず語尾を濁すと、すぐ脇に立つクレイスが、からかうように眉を上げる。
「やんちゃ娘の迷子防止だ。文句は言わせない」
迷子防止と言われてしまった。この年で。
シトラは恥ずかしさに身悶えするように、体を捩って小さく叫んだ。
「もう走りだしたりしないから!」
「だめだ。お母さんの言うことを聞きなさい」
なんて滑稽な会話だろう。でもこれを言わせたのは紛れもなく自分の行動に寄るもので、シトラは反論を封じられ、喉の奥で唸る。
「……わがまま言っていいって言ったのに?」
最終手段を使うしかなくなり、シトラは縋るようにクレイスを見つめた。もう、手を繋いでいることが恥ずかしいという次元ではなく、とにかく幼児扱いされなければそれでよかった。
人波が運ぶ、たくさんの人々の賑やかな話声が、店の前で押し問答するふたりを包んでいる。
クレイスは、やれやれと呆れ顔を見せて肩を竦めた。
「あなたに『わがまま』とは何を指すのか、教えないとだめかな?」
どういうこと? とシトラは首を傾げる。わがままとは、自分の望みを言うことではないのだろうか。
それを見たクレイスが、ふと動きを止め、やがて長身を折るようにして、ゆっくりとこちらを覗き込んだ。すうっと、シトラの顔にクレイスの影がかかる。
「必要とあらば、今ここで教えてもいいが。どうする?」
喧騒の中にあって、その囁きはひどく静かに聞こえた。
極めて穏やかな、しかし易々と逃げることを決して許さないような声音。いつか商会で聞いたのと同じ。
ただその顔はあの時と違い、何か含みがあるような色を滲ませていた。少し屈んでいるせいで陰になった碧眼が、じっとこちらを見下ろしている。澄みすぎて、なのに底が見えない湖に浮かぶような。大きく透明な水晶の奥を覗き込まされているような。
「え……遠慮、します」
「そうか。残念だな」
得体の知れない危機を感じ、シトラは早々に降伏した。クレイスは楽しげに頷くと、シトラの手を取ったまま店の扉を押し開ける。
また負けた、と思いながら、シトラはそのひんやりとした手の感触を受け入れて大人しく手を繋いだ。仕方ない。彼を振り切ったのは自分なのだ。リード、あるいは迷子ひもの代わりに手を引かれるのは甘んじて受け入れるしかない。あーあ。
店に入ると、ふわりと香ばしい匂いが空間に満ちていて、強張っていたシトラの頬を緩ませた。砂糖を少し焦がしたような甘さ、穀物と油脂が焼ける丸い香り。
見れば、落ち着いた焦茶で統一された店内に、いくつも配置された魔導燈の明かりが降り注ぎ、外から見た印象と違わぬ高級感を演出している。その一角にすえられた大きな硝子容器の中では、目を引くような甘味が上品に整列していて、シトラは思わずその光景に吸い寄せられた。
「いらっしゃいませ」
控えていた店員が、菓子店とは思えないほど厳かな声で対応する。シトラの右に立ったクレイスは、慣れた様子で甘味を大量に注文した。単位がおかしい。百個、二百個。しかも店員も慣れた様子でその注文を受けている。
シトラは硝子容器とクレイスの顔を交互に見つめた。
魔術士が、カンテサンスを魔力に変換、分化させるために、糖を消費するのは知っている。でも、だからってこんなに注文してどうするんだろう。
「そんなに食べるの?」
聞くと、クレイスがからかうように眉を上げてこちらに視線を寄こした。
「私は筆頭だからね。それだけ必要なのさ」
「ええ……」
大量の菓子を黙々と食べるクレイスの姿が浮かび、シトラは落差にのけぞりそうになる。
その様子に、彼は満足げに目を伏せた。
「あなたは素直で、いいね」
「え、冗談なの?」
真面目に問い返すと、クレイスは口角をほんのりと上げた。
「うん。必要というのは本当だよ。部下たちに配るんだ。……いつものように、王宮に届けてくれ。今日はそれとは別に包んでほしいものがある。決まったら呼ぼう」
かしこまりました、と店員が頭を下げ、奥に退く。
クレイスはそれを見届けると、かすかに微笑みながらこちらに顔を向け、繋いだ手に二回、力を込めた。
「さて、あなたは何がほしい?」




