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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
23/58

3-1. 囁き(1)

 冗談じゃない、とエレナは馬車の中で奥歯を噛みしめた。


 小窓から見える夕日は深い赤、熔けた鉄のようにも、血のようにも見える。それが自分の体を駆け巡る怒りに似たものを表すようで、ひどく憎らしかった。


「母親適性? 馬鹿げてる」

 忌々しく口にすると、余計に腹立たしい。


 書斎にクレイスを隔離した後、半ば叱責するような形で仕事を大量に押し付けてきた。正当な休暇だというのは十分理解した上だ。彼の貴重な休暇を、あんな無知で蒙昧な羊の世話に費やすくらいなら、国のために働いたほうがよっぽど高尚な時間になる。


 エレナは膝の上に広げた予定帳に目を落とし、冷静さを保とうと細かな文字を追い始めた。

 今後、魔術に関する承認や結界の維持管理に関する定常判断は魔術士団長へと回す。魔術が関わる事件や犯罪の初動対応は騎士団と連携して。魔術院の運営は理事会の歯止めとして軍務省魔術班所属の古参の重鎮を当てる。


 休暇前、クレイスは抜け目なく、自身が不在でも問題なく回る仕組みを作り上げていた。この休暇が明けた後も、彼が魔塔でその執務をこなし、王宮に出仕する必要性がないほどに。会議開催期間中のおかしな言動といい、よっぽど疲れているせいかと思ったが――まさか、くだらないままごとのために抜本的な体制改革をしているとは露ほども思わなかった。


『食事というものは一人だと寂しいのか』。


 あの問いは純粋な疑問などではなかった。あの長椅子で、あの愛用の膝掛けを被せられた、庇護されるだけの、身の程知らずな珍客へ向けた言葉だったのだ。


 それに自分は何と答えたか。


『美味しいものを食べて『美味しいね』って言い合える相手がいないと、やっぱり味気ないし、寂しいものじゃない?』


 よりにもよってそう答えた。彼が魔塔で巣作りするのを後押しするかのように。


「ああっ……くそッ」

 およそ補佐官には似つかわしくない罵倒を短く吐いて、力任せに予定帳を閉じる。


 エレナは学生時代からずっとクレイスの背中を追いかけてきた。

 彼の輝きこそが自分を彩るにふさわしいものだと思ったからだ。

 彼が人間を側に置くことは生涯ないこともわかっていた。むしろそれでよかった。至宝に馴れ合いは不要、孤独だからこそ美しい。そしてそれを一番間近で眺め、管理するのが自分の役目だと思っている。そのために、補佐官として完璧であろうと様々な犠牲を払い、他人をさんざん蹴落としてきたというのに。


 その輝きが今、汚れた手により曇らされようとしている。


 全属性適性? それがなんだというのか。回路を刻まれたばかりの無力な、基礎魔術すら満足にできないような人間が、その資質があるというだけで彼に依存し、二人きりの空間で世話を焼かれることを当然のように受け入れる。言いつけ通りに過ごすしか能がない存在が、その浅はかさゆえに彼を惑わせる。彼の孤高の居城を荒らしているのを、弟子という大義名分を掲げて正当化する。


 そんなことを許可した覚えはない。


 煮えたぎる感情をのせた息が鼻から抜けた。

「……そうよ。弟子だわ」

 息を吐ききった時、ふと、エレナの頭に一人の人物の顔が浮かぶ。

「弟子ならもう一人いるじゃない」

 あんな曖昧な弟子ではない、公的な、宮廷魔術士の弟子が。

 エレナはようやく口元を緩ませ、笑った。


『彼』はこのふた月ほど、高地における魔力制御の修練に出向いていた。彼の属性である『風』を感じ、制御するためという理由で――しかしその実態は、主要国会議が行われる王宮において、雑多な魔力がひしめくその場に『彼』を置いておくのは酷だという、クレイスの合理的な配慮が働いている。

 主要国会議は終わった。高地での修練期間はもう過ぎているはずだ。


 エレナは予定帳を広げ、ほくそ笑む。

 筆頭の弟子を呼び戻すための権限は、他でもない筆頭によって自分に移されていることを確認し、彼女は満足そうに足を組み直した。


     ◇


 二週間に渡る、クレイスの長期休暇が終わろうとしていた。


 その間、回路暴走の翌日にシトラが不用意に行使した魔術の――飛行の原理について、クレイスは決して踏み込まなかった。その代わりというように、彼は紙飛行機を飛ばすところを見せてくれと幾度もシトラに頼み、ついにはベルヌーイの定理を知らないまま、クレイスは上面に風を流すだけで自在に紙飛行機を操るまでになった。それどころか、大書架の魔導書たちを鳥のようにいくつも飛ばして子供のように喜んでいた。もちろん、重力操作もなしで。ただし、シトラが読んでいる本の紙面は、その余波を何度も食らってぱらぱらとめくれた。


「街?」

 はしゃぐ紙面を手で押さえつけ、シトラはクレイスに問い返す。


「街って王都のこと? 連れて行ってくれるの?」

「もちろんだ。あなたを魔塔に一人残して行きはしない。ちょうどカンテサンスの波も落ち着いているしね。私の用事に付き合わせることになってしまうが、どうかな」

「行きたい!」


 食い気味に答えてしまい、瞬時に振り返ってシトラは気まずそうに苦笑する。クレイスはその間髪入れない反応に、吐息を揺らすようにして笑った。


「いい返事だ」


 頷いて、彼は飛ばしていた魔導書たちを指先ひとつで行儀よく整列させ、元の場所へと戻した。こちらはれっきとした重力操作だ。


「もうすぐ馬車が着く頃合いだろう。今日は風があるから上着を着たほうがいいな」

 言いながら、彼はシトラに上着を手渡した。春の空のような、淡く霞んだ水色の羽織りもの。


「馬車で行くの?」

 期待に胸が高揚し、知らず声が弾む。春用の上着は軽く、それでいて温かい。

「ああ。転移に比べ時間は多少かかるが、それもまた街行きの楽しみと思ってくれ。娘に見せたいものがたくさんあるんだよ、母にはね」


 クレイスは首を軽く傾げながら片目を細めた。そのおどけて気取った仕草と、母という言葉のずれがおかしくて、シトラは笑いながら上着に袖を通した。




 祝日だから人が多いかもしれない、というクレイスの言葉を裏付けるように、王都の表通りは人で溢れかえっていた。立ち並ぶ露店は色とりどりの布張りが目に鮮やかで、客引きの呼び込みや道行く人々の楽し気な笑い声が、寄せては返す波のように、小さく大きくシトラを揺する。


「こんなにたくさんの人がいると、はぐれたら大変だね」


 そう言ったのは自分だったが、結論から言えば、その日は三回も迷子になりかけ、最後の一回は本当に迷子になった。


 宙に光が浮いて、移動していたのだ。


 あっ、と思った。光の移動の呪文が、こんな街中で。でも呪文じゃないかもしれない。どんな仕組みなんだろう。誰が行使してるんだろう。そう思いながら眺めていると、雑多な人ごみの中でそれはひときわ輝いていて、シトラを誘うように宙で回転しては、すうっと絶妙な速度で遠ざかった。


 足が勝手に動いていた。


 人波をかき分けるようにして上を仰ぎ見ながら、シトラはその光を追っていた。光は進むたびに形を変え、球から小鳥へ、小鳥から猫へ、猫は丸くなりまた球へと繰り返す。なるほど球は卵であり猫が丸い姿でもあるんだな、と面白く見つめていると、その球がとある店の看板の前でぴたりと止まった。


『グラン・ノア 王都本店』


 一枚板の高級そうな硝子の奥は、輝くような甘味と、素朴で香ばしい焼き菓子が、通行人の目を引くように陳列されている。

 上を見ると、先ほどと同じような光が、次々とこの店の看板に吸い込まれるように流れてきていた。


 あれは広告だったのか、とやっと理解したところで、シトラは周りを二、三度見回す。


 クレイスがいない。違う。自分が振り切った。


 光に気を取られて何も考えていなかった。同行者がいるのに確認もしないなんて、大人としてあり得ない。


「……どうしよう」

 これは完全に自分のやらかしだ。


 大体今日これまでに二回も迷子になりかけていたのに。クレイスと一緒に歩いていて、露店に目を留め立ち止まっては、流れる人波に呑まれるようにして彼と距離が開いた。そのたびにクレイスは自分を呼び戻してくれていた。


 今回はそれとは違い、自分から離れてしまった。今ごろ、ひどく心配をかけているに違いなかった。クレイスはそういう人だ。高熱を出した時、そして回路の暴走が起こってから、彼は加速度的に自分に対する保護の度合いを高めている。おそらく責任感が人一倍強いのだろう。


 だから余計に、心配をかけてはいけなかったのに。


 申し訳なさ過ぎて、胃のあたりが縮むように痛い。なんてことをしてしまったんだ、私。


 表通りのざわめきを、ちらりちらりと眺めながら、シトラは硝子の前で立ち竦む。前世では迷子になったら動かないのが鉄則だと聞いた。しかしこの世界ではそれほど単純ではない。迷い子は攫われ、あるいは親元に帰れず家無し子として物乞いをし暮らす例も珍しくないだろう。自分は大人だからそこまでのことはないにしても、夜になるにつれ別の危険も増すことは必至だ。


(大丈夫。だって、クレイスが見つけてくれる)

 怒涛のように襲い来る申し訳なさの中、彼への信頼がシトラの心拍数を落ち着かせている。


 それに応えるように、十幾つ目かの光の広告が看板に吸い込まれた時、人波の間から彼が吐き出されるようにして現れた。


 淡青の髪を目立たぬよう後ろで一つに結い垂らし、一番上の釦を緩やかに開けた、いつもと違うシャツ姿。黒に近い消炭色の、張りのある薄手の外套の裾が春風にはたはたと慌ただしくはためいた。


「シトラ……」


 呆れるような、安堵するような、そして少しだけ怒ってみせるような、複雑な顔。


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