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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
22/58

2-2. 見ない、言えない(2)

「……待たせたね、シトラ」

 玄関から戻ってきたクレイスは、眉を下げながら向かいの長椅子に座った。


「それにしても『先生』とはね。驚いたな」

「なんて言ったらいいかわからなくて。さすがに呼び捨てはまずいかなって」

「あなたの思慮深いところは美徳だが……どうか次からは魔塔法に則って話してくれないか。母として、他人行儀に敬語を使われては切ないだろう?」


 彼は目元を和らげて、静かな圧をかけるようにこちらを見つめた。


「でも……部下の人の前で筆頭閣下を、クレイス、なんて呼べないよ」

 そうか、と彼は穏やかに笑った。


「ならば、彼女が居住層に許可なく立ち入らないよう、結界の仕様を変えておかないとね」


「ええ!? 冗談でしょ!?」

「冗談なものか」

 クレイスは至極真面目な顔で返す。

「魔塔結界の仕様を変えるにはいろいろと通さねばならない手続きもあるが……来年の改正がちょうどいいだろう。なに、元々居住層の立ち入りは制限しようと思っていたんだよ。私の安寧のためさ」


 たかが口調ひとつでとんでもないことに波及しそうだ。しかしそう言われては、自分に口を出せることではない。

 半ばあきらめてシトラは細く息を吐き、再び羊皮紙を折り始めた。


「それは?」


 クレイスの指が卓上を指さす。シトラの手が折っていたのは、紙飛行機だ。

「……これは……手慰みっていうか。ちょっと試してみたいことがあったの」

 立ち上がり、シトラは杖と紙飛行機を両手に持った。


「さっき、練習成果を見たいって言ってくれたけど。私、まだ光を移動させられないんだ。だから」

 杖の先端を、紙飛行機の上面に当てる。光よ、と呟くと、杖先が――いや、紙飛行機の上面が、ほわりと丸く光った。


「ほう?」

 クレイスが興味深げに身を乗り出した。


 シトラは紙飛行機を揺らしてみる。光は紙に着いたように離れない。これなら。


「これをね……こう!」

 二、三度、勢いをつけて、シトラは紙飛行機を飛ばした。しゅっと空間を裂くように光をのせた紙飛行機が進み――落ちかける。


「風よ、吹け」


 ごく微細な風が、紙飛行機の翼の上面だけを撫でた。まるで吸い上げられるかのように、機首をかすかに落とした紙飛行機が、ふわりと浮き上がりながら進む。


「旋回」


 左に曲げようと、シトラは右翼の上面を撫でる風を速めた。紙飛行機が傾いて、左側に曲がっていく。光は紙飛行機に付いたまま、淡く灯って部屋を回った。


「できた!」


 思ったよりも大きな声が出てしまい、シトラは慌てて口を噤む。頭の中で考えていたことがそのまま実現し、知らず、興奮していた。


 喜びを抱いたままクレイスを振り返ると、彼は眉を寄せながら、怖いほどに真剣な顔をして紙飛行機を見つめていた。


 その姿に、シトラの動きが止まる。

 制御を失った紙飛行機が、床の上に落ちた。


 失望させてしまったのだろうか。光を移動させず、紙を動かすのは邪道だと思ったのかもしれない。

「あの……」

 シトラは紙飛行機を拾った。もう光は消えている。


「ずるかったかな。これじゃ移動させたことにならないとは思うんだけど、やってみたくて」

「いや」

 クレイスは短く否定すると、顎先に指を当てた。


「光の移動にならないのは、その通りだ。しかし、別の物体に光をのせ、物体を移動させることで光が灯った状態ごと移動させる……魔術を学び始めた段階でその発想が出るのは素晴らしい」


 とても褒めているとは思えない、硬い声だった。


 クレイスはシトラの手から紙飛行機をひらりと取り上げる。

「私も紙を飛ばしたことはあるよ。軽くて、風の影響を受けやすい。初学者が飛ばすにはちょうどいい。紙、木の葉、羽根……風の呪文を覚えたら誰しも一度は飛ばすだろう」


 なぜ、彼の声音がこんなにも強張っているのか、理由がわからない。


「だがね、シトラ。その時は誰一人として例外はなく、皆、下の面から風を当てるんだ。物を浮かせるならそれが一番だから。なのにあなたは……上の面に風を吹かせたね?」




 ――あっ!!




 シトラは固まった。


 そうだ。その知識は、この世界の知識ではない。


 翼の上面の空気の流れが速くなれば圧力が下がり、揚力が生まれる。流体力学の基本、ベルヌーイの定理。それを自分は使ってしまった。前世で、飛行機がなぜ飛ぶか調べた時の知識を使ってみたくなり、何も考えずに魔術に応用した。


「正直に言おう。私には原理がわからない。だが、あれは……非常に洗練されていた。下から風を当てるよりもずっと制御が利き、魔力の消費量も少ない。まるで……世界そのものの、理のように」


 クレイスは、碧く澄んだ瞳をシトラに向けた。


 ――どうしよう。


 胸の前で握った拳が、震える。


 前世を覚えているなどと、狂気の沙汰と思われてもおかしくない。出会ってひと月にもならない人間が言い出したところで、信じてもらえるわけがない。しかもその前世はこの世界とまるで違う、魔術のない、科学の世界なのだ。受け入れてもらえるはずがない。


 耳の奥が痛くなるほどに、沈黙が刺さっていた。


 シトラは固く目をつぶる。


 何も言えない。返せない。あれは物理ですなんて、どうして言える?


 この魔塔で過ごした温かい日々が、一瞬で脳裏を駆け巡った。


 回路のために呼び捨てにしろと言われた日。

 体を保つためだけではない、温かい食事。

 わがままを言えと迫られ、初めて光を灯したこと。


 言ってしまえば、そのすべては、呪文が失敗したときの魔術のように霧散してしまうかもしれない。最初からなかったものとして、跡形もなく。


 ぎゅう、とシトラは拳を握りしめる。


 その、震えるシトラの両肩に、控えめな温もりがためらうように落ちてきた。


「……すまない。あなたを、詰問するつもりはないんだ」


 柔らかい声音に顔を上げると、ひどく申し訳なさそうな顔で、クレイスが微笑んでいた。


「あなたの魔術が、あまりに美しくて……。驚いてしまっただけなんだよ」


 彼はシトラの肩を優しく撫でた。一度、二度。


「私の悪い癖だ。興味を惹かれると周りが見えなくなる……怖い思いをさせたね」


 最後にクレイスは、その手のひらで、シトラの頭をぽんぽんとあやすように軽く叩いた。

「夕餉の支度の前に、茶でも飲まないか。魔力を使ったんだ、甘味が欲しくなるだろう?」


 すっかり普段通りの声音になって、彼はシトラから離れた。台所に向かい、湯を沸かしている。

 シトラは大きく息を吐いた。


 ――彼は敢えて、見ないふりをしてくれた。自分が、言えなかったから。


 クレイスの深い配慮に、シトラは胸が詰まるほどの安堵と、言葉にならない感謝を抱いていた。

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