2-1. 見ない、言えない(1)
急に動いたりしたら悪いだろうか、とシトラは思った。
七番目の属性発見が云々、という言葉が聞こえて、学術的な話だと思いこっそり耳を傾けていると、クレイスが礼を言った後に女性がなぜか切れていた。なぜ切れる。その流れで切れる理由が、シトラにはさっぱりわからない。
聞こえてくるのは、怒っているが親し気な、ぼそぼそと控えめに落とされた声音。
(……修羅場、とか?)
動くに動けず、シトラは固まっている。回路を安定させるのに朝までかかり、そのまま疲れて長椅子で寝てしまった。頬まで被っている膝掛けは、クレイスが掛けてくれたものだろう。
お客様が来ているというのに、居候がこんなところで眠っていたせいで気を遣わせているのかもしれない。いやしかし、お客様はどっちだ。自分の方がむしろ新参者かもしれない。そう思えるだけの空気感が、ひそひそ声を通じて伝わってきていた。
このまま狸寝入りを続けているのも失礼になるだろう、と、シトラは「うぅーん」と唸ってみせた。今です。私は今起きたんです、と伸びをする。
「おや、起こしてしまったかな」
クレイスの声が近づいてくる気配がして、シトラは目を開け起き上がった。珈琲の香りを纏っているクレイスは、水差しから水を汲むと長椅子の前の卓にグラスを置く。
台所のカウンターのあたりに、女性が立っていた。赤褐色の髪をきっちりと結い上げ、細縁の眼鏡をかけた理知的な人だった。こちらを見ることなく、体ごと横の壁に向いている。
「大丈夫。ごめん、クレイス……お客様だったかな。気が付かなくて」
実際は途中から目が覚めていたのだが、修羅場だと困るので動けなかった、とまでは言えなかった。
女性は、シトラの言葉に弾かれたように振り向いた。しまった。魔塔特定個人同格化措置法の存在を彼女は知らないのだ。これでは、筆頭閣下を不敬にも呼び捨てする怪しい女の出来上がりではないか。極北の牢屋に十年だ。
シトラは咳払いをした。
「先生。すみません。寝ぼけていたようです」
今度はその言葉にクレイスが目を剥いた。
しかし彼はすぐに、困ったように眉を下げて、長椅子の背もたれに手をかけながらシトラをそっと覗き込む。
「気にすることはない。もしまだ眠いなら寝ていていいんだよ。どうしたい?」
クレイスは柔らかく目を細めた。
翻訳すれば『先生呼びは許してあげよう。この場にいるかいないか、自由に決めて構わない』という意味だろう、とシトラは思う。
さて困った、とシトラは眼鏡の女性に視線を向けた。どうやら、自分はこの女性に歓迎されてはいないようだ。愛想笑いは皆無、腕組みをしたままこちらを振り向き、すぐに視線をそらした態度。挨拶する気もないらしい。
普通に考えれば客室か演習場に退いたほうがいいと思ったが、クレイスはそれを『遠慮した』と受け取るだろう。実際その通りだから否定もできない。
「あの、まずはご挨拶をさせていただきたく」
シトラは最も角が立ちにくい選択肢を選んだ。敵意がないこと、邪魔をしないことを表明し、この空気を変えられれば。
「ああ、そうだね。……エレナ。先ほど話したが、この人が私の弟子のシトラだ」
エレナと呼ばれた眼鏡の女性がこちらに向き直り、歩み寄る。
シトラは彼女に向かって、地味な、一般的な礼をした。
ユーネルディアの名は捨てた。平民が貴族の礼をすれば、浮いてしまうだろう。
「シトラと申します。先日より、魔塔でお世話になっております。どうぞお見知りおきを」
顔を上げると、エレナもまた礼をした。その礼は胸に手を当て軽く腰を折る、魔術士としての礼だった。
「筆頭宮廷魔術士補佐官、エレナ・ブノーシェットよ」
エレナの声は冷たい。
「最低限はわきまえてるようだけど……弟子として、こんなところで寝こけているのはどうなのかしら。くれぐれも、彼に迷惑をかけないでちょうだいね」
その言葉にクレイスが眉をひそめた。シトラは慌てて、頭を下げる。
「はい。先生のお言いつけに沿って、先生のご指示通りに過ごします」
それは表向きは至極従順な物言いであり、エレナが投げつけた責言に全面的に降伏した言葉だった。しかし、彼には伝わっているだろう。『クレイスは私の自由を尊重してくれてると、知ってるよ』という言葉として。
クレイスは嘆息した。
「彼女は敏くてね。君が案じるようなことは何もないんだよ、エレナ」
「あらそう。ならいいのよ。だったらさっさと仕事に取り掛かりましょう。書斎に行くわよ」
そう言うと、エレナは振り向きもせず書斎へと去っていく。
「すまないね。あなたを一人にしてしまうが……どうか気にせず過ごしていて」
彼が謝ることは何もないのに、と思いながら、シトラは声を出さずに頷いた。
二人が出て行ったあと、シトラは長々と息を吐きだし、クレイスが用意してくれたグラスの水を飲み干した。
居室の、大書架にぽっかり穴があいたような廊下を進んだ先に書斎はある。二人のやり取りは聞こえないから、ここで多少魔術を使っても平気だろう。黙って演習場に行くのは気が引けた。クレイスは自分が八日前に高熱を出して以来、ひどく心配性になったように、自分が彼から離れることを嫌がったからだ。
そのおかげで回路暴走にもいち早く気付けたのだから、ありがたいことだと思う。
シトラは白樹の杖を手に取ると、「光よ」と短く詠唱し、光を灯した。
「うん、できる」
一度できてしまえば、呪文は短縮詠唱でも変わらず灯った。熱が下がったあの寝台で『光を見せたい』と思った気持ちを思い返すと、何度でも光は灯る。
だが問題はこの後だ。
シトラは杖の先に灯ったその光を動かそうと、眉根に力を寄せる。
途端に光が霧散した。
「あぁー……」
光の移動は、ただ灯すよりもずっとずっと難しい。何かを動かすという現象は、やはり自分の中では物理と結びついてしまうのかもしれなかった。
杖を構え、何度唱えても、やはり光は霧散する。光を灯そうとがむしゃらに努力したときのことがよみがえり、重なった。
それから二時間ほどたっただろうか。あまりに繰り返しすぎて力が入り、両肩が凝り固まっていて、痛い。
気分を変えよう、とシトラはもう一度杖を構える。
「風よ、吹け」
シトラの頬の周りで微風が巻き上がり、黒髪を揺らして通り過ぎた。にこり、とシトラはひとり笑う。
風を起こすことは得意だ。そもそも風は気圧差があれば吹くし、直接大気中の分子に力を加えることを想像しても、そよ風程度の風なら生み出せる。クレイスに教えてもらったときも、光の呪文とは違って一度で成功し、それは驚かれたものだった。
「やっぱり、心象を固定できると強いんだなぁ」
調子に乗って、シトラは垂直に風を吹かせた。筒を立てたような上昇気流を想像すると、周りの空気を巻き込んでつむじ風になり、卓の上に重ねられていた白紙の羊皮紙が舞い上がって、部屋中に散った。
「わあぁ!!」
焦りながら散らばった紙を拾い集めていた時、 奥から足音が聞こえてきて、居室に戻ったクレイスが眉を上げてその惨状を目にしていた。
咄嗟に名を呼びそうになり、彼の後ろにエレナがいるのを認めて、「先生」と呼ぶ。
「すみません、ちょっと風の呪文を試していて」
シトラは集めた羊皮紙を卓に戻すと、白樹の杖をちょいと振る仕草をして見せた。
「その杖……」
どこか見咎めるように眉をひそめたエレナを遮って、クレイスは後ろを振り返った。
「彼女は魔術を学び始めたばかりだからね。自分専用の杖をまだ持っていないんだ。さあ、仕事は終わっただろう? そろそろ平穏な休暇を返してくれないかな、補佐官殿」
「ちょっと、誰のせいだと思ってるわけ? そもそもは貴方が使い魔を追い返したからでしょうよ。大体、貴方は最近、筆頭としての自覚がなさすぎるのよ」
遠慮なく言葉をぶつけあう二人を前に、シトラは卓の上の紙を整えるふりをして、そっと長椅子に座った。
クレイスとエレナは、付き合いが長いのだろう。エレナの言葉の強さ、選び方、直接的な物言いに反して突き放しきらない声音が、彼女のクレイスに対する親しみを表していた。エレナの視線が時折、おそらくは本人も気が付かない程度に、クレイスを一瞬捉えてはすぐに離れることを繰り返す。クレイスはそれに気づいているのかどうか、こちらは風を受け流すように、一定の声音と穏やかな表情で応えていた。
「シトラ、一人にさせてすまなかった。あとであなたの練習成果を見せてもらいたいんだが、いいかな」
「あ、うん……はいっ。わかりました」
唐突に話しかけられ、シトラは素を漏らしそうになり慌てて取り繕った。クレイスはこちらに向かって寂しそうに首を傾げると、エレナの背をさりげなく押すようにして玄関へと誘導する。その紳士的な所作は柔らかく、しかし線を引くように毅然とした手つきだった。
なんとも言えない気持ちが胸に広がる。
ひどく場違いで、自分がここにいていいものか戸惑うような気まずさ。
見たものに意味を持たせないよう、気を逸らそうとして、シトラは卓の上の羊皮紙を一枚取った。軽く折り、筆記用の小刀で半分に切る。魔獣の皮でできた紙は、動物の皮の紙よりもずっと薄く、折り目もつきやすい。シトラは半分に切った羊皮紙をさらに半分に折り、器用に折りたたんだ。




