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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
20/58

1. すべて本当のこと

 風が紙面をぱらぱらとめくり、クレイスは自分の思考が止まっていることに気が付いた。


 正確には、止まっていたのではない。後悔していたのだ。


 彼は諦めたように息を吐いて観測記録の表紙を閉じると、立ち上がり、向かいの長椅子で深く静かに眠っているシトラに歩み寄る。近頃暖かくなってきたとはいえ、春の風はまだ冷えるかもしれない。クレイスは宵闇色の膝掛けをシトラの首元まで引き上げると、空中で指先をすっと引いて中二階の開いていた窓を音もなく閉めた。


 八日前、シトラが高熱で倒れてから、クレイスは彼女の魔術修練を極端に制限した。幸い、主要国会議の後は長期休暇を取ると宣言していたから、病み上がりのシトラを一人にさせることはなかった。一晩で熱が引き元気になった後も、彼はシトラに果物をはじめとした甘味を食べさせて、研究に当たる自分のそばにシトラを置いて無理をしないか見守っていた。


 過保護だった、と思う。

 高熱からの回復で、魔力回路もまた劇的な新生を遂げていた。なのに十分に魔力が放出されず、澱む寸前で滞っていた。そこに、季節変動のカンテサンス(太素)の波がぶつかったのだろう。カンテサンスが新生したばかりの回路に取り込まれ、糖を消費しながら魔力を生み出して――結果として、魔力回路が暴走したのだ。


 魔塔の結界の中であれば、滅多なことでもない限り回路も安定する。以前、そうシトラに告げたのは自分だった。これがもし不在の時に起こっていたらと思うと、想像するだけで背筋が冷えた。


 だから彼は、シトラを止められなかった。


『自分一人で回路を安定させたい』と言って苦痛に顔を歪ませながら『もっと頑張る』と繰り返し、回路の安定を図るシトラの横で、クレイスは何度止めようとしたことか。だが、回路を安定させる技術は魔術士にとって、自分の身を守ることと同義であり、不可欠だ。自分が魔力を流すことは簡単だったが、彼女はそれを望まなかった。


 そうして朝方、やっとシトラは眠りについた。

 寝台に運ぶことすら、回路への刺激になるかもしれない。そう思って、クレイスはシトラの体を膝掛けで覆い、書斎に行かず向かいの長椅子に腰を下ろして、カンテサンスの過去の記録を確認している。そのつもりだった。しかし実際にはその視線は紙面を滑るだけ、思考は沈み過去の選択について終わらない検証を繰り返している。師として、保護者として、これで正しかったのか。適切な対応が他にあったのではないかと。


 向かいの長椅子に座り直し、彼はすっかり冷めきった茶を口に含んだ。

 すやすやと眠っているシトラの頬は血色もよく、回路暴走の影響もなさそうだった。夢でも見ているのか、黒く長い睫毛が時折小さく震えていた。


「……よく頑張ったね」


 誰に言うでもなく呟いて、彼は碧い目を柔らかく細める。

 その時だった。


 訪問と言うにはあまりに無遠慮な結界の開錠音がクレイスの耳に届き、穏やかだった彼の眉間がひそめられる。

 シトラが目覚めていないか確認しながら立ち上がり、彼は苦い気持ちで玄関広間へと向かった。二日前に来ていた使い魔を適当に追い返したのがまずかったか。


 扉を規則的にたたく音。二回。次いで三回。計五回。


「わかった、わかった」


 早足で玄関に降りると、クレイスはごく細く玄関扉を開けた。その細い隙間に指を入れ、力強く扉をつかむ女性の手。下を見ると扉を閉じられないようご丁寧に足先まで捻じ込んでいる。

 視線を上げると扉の向こう、首席補佐官のエレナが、その柳眉を吊り上げてこちらを睨みつけていた。


「ちょっと、なんで開けないのよ」

「いや……」


 端的な質問に思わずクレイスは口ごもってしまった。なんとでも言えばよかった。魔塔結界の調整中だ、カンテサンスの観測が乱れる、危険な実験の途中だ、言い訳はいくらでもあったはずなのに、一瞬シトラの寝顔が浮かんでしまって、反応が遅れた。


「貴方が使い魔を追い返すから、私が来る羽目になったの。もたもたしてないで、早く中に入れてちょうだい」

「今はだめなんだ」

「はぁ?」


 扉を閉めたいが、指と足を捻じ込まれている以上、無理やり力ずくで閉じることはできない。それを見越してか、エレナが思い切り力を籠め、扉を開ける。


「入らせてもらうわよ」

 勝手知ったる、と言った風情でエレナは中に踏み込んだ。制止する間もなく、彼女は靴音を響かせて居室へと続くアーチをくぐる。


 そして、その足をぴたりと止めた。


「……………………は?」


 呼気と共に短く吐き出された、疑問符の形をした言葉。


 エレナの背後でクレイスは、彼女が見たであろうものを視線でたどる。暖炉の前、こんこんと眠るシトラの姿。宵闇色の膝掛け。二人分の茶器。


 魔塔の滞在者登録は出した。首席補佐官としてエレナも見たかもしれない。だが、シトラを手元に引き取ることを直接説明はしていなかった。その必要性を感じなかったからだ。魔塔に人を住まわせることを不用意に告げれば面倒なことになるだろうとも思った。


 だが、これは。


 クレイスは嘆息した。長椅子の背ににかかったシトラの上着、眠った時に脱がせたまま無造作に置いてある室内履き。あちこちに見え隠れする生活の痕跡は、シトラが魔塔に深く根を下ろしていることの証左だ。ようやく衣服や日用品も揃い始め、客人ではなく住人として迎えられるようになった。それは彼女が昨日今日やってきた人間ではないことを表している。


 であればなぜ、すぐに言わないのかとエレナに詰められるかもしれない。正直に『君に口を出されたくないからだ』などと言って激怒されてもたまらない。かと言って安易なごまかしはシトラへの侮辱だ。それだけはできない。

 クレイスはふたたび嘆息した。


 面倒なことになった。余計に。


 思案するクレイスの視線の先で、シトラがわずかに身じろぎ、膝掛けがずれた。寒そうな身震い。

 クレイスはエレナを無言で追い越して、長椅子の前にそっと片膝をついた。

 起こさないよう細心の注意を払い、吐息のように極めて小さな声で「回路の暴走だよ」とクレイスは説明する。彼はひとまず現状を伝えることだけを考えた。経緯は後で構わない。


 膝掛けを頬まで掛けてやり、シトラが起きていないことを確かめると、彼は立ち上がって、まだアーチの下で呆然としている補佐官を台所のカウンターへと誘導した。

「……どういうことよ……」

 回路暴走と、シトラが眠っていることの因果がわからないのか。混乱している様子のエレナに、クレイスは手早く湯を沸かしながら自嘲の笑みをこぼす。


「初めてのことだったから、本人も加減がわからなかったようでね。無理をさせてしまった。体に負担がかかりすぎたんだ」


 その言葉に、エレナがすごい勢いで振り向いた。


「なんですって?」


「私のせいなんだ。だから、もう少し休ませてやりたい。声を落としてやってくれ」

 クレイスは珈琲の準備をしながら注意する。


 湧いた湯を細く注ぎながら、彼は早朝の出来事を思い返した。回路の暴走を抑えようと、苦痛に耐えながらも一人で制御しようとした健気な姿。

「……『もっと』と言ってきかなくてね……」

 必死に回路を安定させようとしていたシトラの顔が脳裏によみがえり、クレイスは痛ましげに、しかし温かい気持ちで頬を緩ませる。


「あまりに一生懸命だったから、止めるタイミングを見失ってしまった。それで、朝方やっと寝付いた。私がもう少し、ちゃんと優しくしてやれればよかったのだが」


 淹れ終わった珈琲を差し出して――クレイスは、エレナが目を剥いて唇を震わせ、顔を赤くしているのを怪訝な思いで見つめた。


 なんだ、この顔は。


「朝方って……貴方……まさか……」

 エレナは困惑とも怒りともつかない震える声で呟いた。


 クレイスは眉を寄せる。何かおかしなことを言ったか?

 そうして自分の発言を振り返り――決定的な過ちに気づく。


「誤解だ」

「何が誤解なもんですか!」

「声が大きい、起こしたらどうする」

「見損なったわよ!」

「エレナ、変な邪推をしないでくれ。回路の暴走だと言っただろう。彼女は、その……私の新しい弟子なんだ」

 クレイスは深々と溜息を吐き、こめかみを押さえた。


「弟子? あれが?」

 エレナは苦々しげに吐き出した。

「あの濃紺の膝掛け……学生時代から貴方が愛用してるものよね。貴方の魔力が繊維の奥まで染み込んで……結界にも等しい、誰にも……触れさせなかったものじゃない。それを被って寝てるのがただの『弟子』なわけないでしょうよ」


 彼はその反論に眉間を揉んだ。


「何も掛けないわけにはいかないだろう。風邪をひくじゃないか」

「そういうこと言ってんじゃないのよ!」

 エレナは眼光鋭くクレイスを睨みつける。


「やれやれ……」

 話さざるを得まい。

 珈琲を一口飲み、彼は内心、覚悟を決めた。


「いいか、これから言うことは他言無用だ。彼女はね……全属性適性の持ち主なんだよ」

 眉を吊り上げていたエレナの表情が固まる。

「嘘でしょう?」

「真実だよ。商会で出逢ったんだ。彼女の回路は私が刻んだ」

 エレナは再び眉を吊り上げ目を剥いた。

 もはやそれには構わず、クレイスは温くなりかけた珈琲を飲む。


「……そう。あの商会から移管した未届違法資材って、あれだったわけね。貴方が自分で手続きするなんておかしいと思ったわ」

「シトラだ」

 その名前にエレナは鼻を鳴らして腕を組み、シトラにちらりと冷ややかな視線を向けた。

「名前は知ってるわよ、滞在者登録で見たんだから。まさか居住層に直接住まわせてるなんて思わなかったけど。……全属性適性なら、王宮の魔術院にでも保護させればいいじゃない。彼らなら喜んで飛びつくでしょう?」

「いや、それはできない。言っただろう、他言無用だと。彼女はまだ雛鳥なんだ。自分の身を守る術もないのに、猛獣だらけの魔術院に入れるなど正気の沙汰ではない。それに、全属性を導けるのは私くらいのものだよ。回路を刻んだ責任もあるしね」


 クレイスが挙げた合理的な理由を受け、エレナは不愉快そうに吐き捨てる。

「だからって、筆頭が――『王国の至宝』が、ここまで親身に世話する必要はないでしょうよ?」


 大層な二つ名に、クレイスが苦笑する。

 自分の直弟子の面倒を見るのに、至宝も何もあるものか。


 だが、世間は――エレナは、この自分に至宝たる振舞いを求め、その道から外れることを許さない。

 筆頭宮廷魔術士というものは、その座が空位になることも多い、王国最高位の魔術士の称号だ。

 八年前に筆頭の座に就いた時、クレイスは、それが全属性という異能を持つ自分の責務だと思った。権力を得ることで誰にも脅かされぬ代わりに、王国の至宝として生きる。それは、少年時代から将来を想定してきたクレイスにとって当然のことであり、疑う瞬間もなかった。


 しかし、知ってしまった。


 気をつけてと送り出してもらえる温かさを。

 おかえり、ただいまと無事を確認しあう平穏を。

 おいしいねと言い合える喜びを。


 それを今更手放すことは、自分にはできない。なぜなら。


「……信じられないかもしれないがね、エレナ。ここ数日、私はどうやら『母親』としての適性に目覚めてしまったらしい」


「はぁぁぁ!?」


 大声をあげながらエレナは顔を強張らせた。クレイスは右手の人差し指を立て、自身の唇に寄せる。

「静かにしてくれ、頼むから」

 そう言って彼はシトラの様子を窺った。幸い、起きてはいない。


 エレナは温くなった珈琲を、まるで酒のように一気にあおった。

「……七番目の属性の発見なんて歴史的偉業よ。おめでたいことね」

「ありがとう。補佐官殿の理解が早くて助かるよ」

「理解したんじゃないわよ!」


 クレイスに何度も注意されたせいか、エレナは小声で、しかし鋭く切り返す。

「笑えない冗談はやめてちょうだい。……筆頭宮廷魔術士がままごとなんて、正気を疑われてもおかしくないわ」


「ままごと、か」

 彼は苦笑した。エレナはこれを冗談だと思っている。もし、正直にすべてを話したらどうなるだろうか。


『熱で倒れた彼女がうわ言でお母さんと言ったので、お母さんだよと答えました。それ以来母として振る舞っています』――医療班を呼ばれる。確実に。だからこれでいい。


 クレイスは宵闇色の膝掛けに目をやり、眉を下げながら薄い唇でひそかに微笑んだ。

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