12. アルヴァレインの魔女
額に掌が柔らかく降りてきて、シトラの意識がふわりと浮上した。
細かく瞬き、目を開ける。
「……おはよう、シトラ」
朝日で逆光となったクレイスの顔が間近に見えた。その顔はなぜか泣きそうに微笑んでいる。シトラは状況が掴めず、陰になった彼の碧眼をぼんやりと見つめていた。
「熱は下がったようだね。顔色も随分と良くなった」
クレイスの掌がシトラの額からゆっくりと引いていく。手首に近いところから離れ、指先が最後に残り、前髪の生え際をさらりと撫でて去った。
「喉が渇いているだろう。水は、飲めるかな」
彼はシトラの背に腕を差し込むと、肩を抱き込むようにしてそっと起き上がらせる。
そして、どこから持ってきたのか、大きな枕をいくつもいくつもシトラの背と寝台の枠の間に差し込んで、無理なく座れるような背もたれを作り上げた。
「あ……ありがとう」
流れるように水のグラスを差し出され、シトラはそれを自然と受け取った。一口飲んで初めて、喉が渇いていたことを知る。
水を飲みながら、シトラは昨日のことを思い出していた。
クレイスが帰ってくるまでに、なんとか光を灯したくて、演習場にこもったこと。
途中から身体が重くなり、それでも、休まずに続けてしまったこと。
帰ってきたクレイスに、自分を運ばせてしまったこと。
「あの」
顔を上げたシトラの唇の前、宙に浮かせるようにしてクレイスは指を立てた。
「シトラ。ごめん、は無しだ」
喉を通り過ぎた謝罪の言葉を封じられ、シトラはむぐ、と唇を結ぶ。
「それに……謝罪なら、昨日聞いたよ。もうそれで十分だ。わかったかな?」
シトラは眉を寄せながら、渋々頷いた。よろしい、という声とともに、クレイスの指が下ろされる。
彼は満足げに目元を和らげて、それにね、と呟いた。
「もしかしたら、あなたは気がついていないかもしれないが」
こちらを向いていた彼の視線がそらされ、クレイスが静かに立ち上がる。脇の小卓に歩み寄って、彼は小型の刃物と果物を手に取り、立ったまま器用に皮を剥き始めた。
甘く爽やかな香りが室内に広がる。
「私はね、どうやら存外世話焼きらしい」
横を向くクレイスの口角が、わずかに上がっていた。
うつむくようにして手元を見ながら、彼は独り言のように言葉を紡ぐ。
「だから、あなたが気にすることはないんだよ」
長い指に掴まれ、皿の上、白い果肉だけになった果物が、気恥ずかしそうに端座した。クレイスは赤い皮を小さく丸い器に入れ、その果物を一口大に切り分けていく。
クレイスは手拭きで軽く手を拭うと、脇に立てかけてあった寝台用の低い卓をシトラの太腿のあたりに設置した。
シトラはその天板を、両手の指先で所在なさげに何往復も撫でる。
詫びたいが、詫びられない。差し出せるものが何もない。生まれた気持ちのやり場がなく、それはシトラの胸の中でぐるぐると渦巻いていた。たまたま魔力回路を刻んだというだけの自分を居城に迎え入れ、魔術を教え、看病し、起きたそばから世話をしてくれる彼は、なんなのだろう。親切や、優しさという枠には到底収まりきらない、これほど大きく温かな思いやりを、シトラは知らない。
視線で追うようにして、シトラはクレイスを見上げた。フォークを果物に刺した彼の目が、『ん?』というようにこちらを向いて、やんわりと細まる。
「はい、どうぞ」
寝台用の低い卓の上に、果物の乗った皿が置かれた。皿を運んだ手がすぐさま、シトラの背に挟んだ枕の位置を調整する。姿勢を保ち続けて、食べやすいような角度に。
その温かさが、心地よかった。
何も返せるものがないのに、受け取っていいのかわからない。でも、今はこの気持ちに浸っていたい。
シトラはフォークを手に取り、一口大に切られた果物をしょりしょりと食べる。甘みと酸味が弾けて、
幸せな味が喉を通り過ぎていく。
「なんか……お母さんみたい」
沈黙が落ちた。
果物を咀嚼する音が、やたらと大きく聞こえる。
こくん、とシトラの喉が鳴った。
「…………ふふ」
密やかな笑い声が、一呼吸の静寂を破る。
「『お母さん』、ね」
クレイスは喉の奥で噛み殺した笑いの一部をこぼしながら、拳を口の前にあて、肩先を揺らした。
その様子を、シトラは気まずさを滲ませながら見やり、苦笑する。
さすがに、『お母さん』はなかったか。
「いや、すまない。他意はないんだ」
こぼれた笑顔を微笑みに変えて、クレイスは軽く首を傾げ、こちらを見る。
「よかった。失礼だったかなって」
シトラは自分の冗談めかした呟きが好意的に受け取られたことに安堵して、二口目の果物にフォークを突き刺した。
それを頬張るシトラに、クレイスは柔らかくも真摯な顔で向き直る。そして、空いていたシトラの左手のそばに、彼はそっと自身の手を置いた。
「シトラ。あなたが望むなら、私は母にでも何にでもなろう。だからもっとわがままに甘えなさい。いいね?」
果物を口に含んだまま、シトラは目を大きく見開いてクレイスを見つめた。
(な……何言ってるの!? クレイスは!? こんな……こんないい大人に、甘えなさいって。だって。そんな)
頭の中の言葉は口から出ることはなく、シトラは恥ずかしさに赤面しながら、それまでとは比べ物にならない速さでしょりしょりしょりしょり、と果物を噛んで飲み込んだ。
まるで、シトラの本心が甘えたいと思っているかのような口ぶりで。
間違ってないかもしれないけど。でも。
あり得ない。あり得ないよね。これはクレイスの冗談だ。
その差し出された甘い誘いを、シトラは必死の理性で押し返す。
「どうした? そんな困った顔をして。筆頭宮廷魔術士が母では、あなたのお気に召さないかな」
「えっ、いや、そういうわけじゃなくてね!?」
クレイスが寂しそうにこちらを覗き込むので、シトラは反射的に首を振ってしまった。
たしかにお気に召さなくない。召さなくないが。
「なら、問題はないね」
彼はおかしそうに笑いながら寝台脇の椅子に座り、膝の上で両手の指を交差させるようにして手を組んだ。
「ほら、いいから。何かわがままを言いなさい」
「そんな、無茶なこと言わないでよ……」
フォークを置いて、シトラは困惑しながらクレイスを横目で見た。
「無茶? とんでもない」
紳士的な笑みを崩さずに、彼は世界の真理を語るような真面目な口調で、しかしどこか少年のような声音を滲ませた。
「あなたが自分でわがままを言わないのなら、私が勝手に世話を焼き続けるしかない、ということになるんだ。例えば」
彼はそう言って、上体を傾けるようにして腕を伸ばすと、フォークをひらりとすくい上げる。
「病床の娘を心配するあまり、手ずから果物を食べさせる、とかね」
長い指がフォークを弄び、先端が小さな円を描いた。
「ま、待って!?」
とんでもないことを言っているのはどちらなのか。
慌てて彼の手を止めようとするシトラに、クレイスは心底おかしそうな顔で笑った。
「さあ。娘としての権利を、行使するのか、しないのか」
「するから!!」
「……いい子だ」
シトラのその悲鳴のような肯定に、彼はフォークを皿に戻す。
うぅ、という小さな呻き声が、喉の奥から漏れた。
戸惑いを隠すように、シトラはひたすら果物を食べ、皿の上を空にする。
一体、何を言えばいいというのだろう?
これだけしてもらった上に、さらに何かを要求する?
彼に何も返してないのに?
「…………あ」
吐息のような声が、ころりと転がった。
寝台の卓から皿を片付けたクレイスの背中が、ゆるやかに回転する。
「じゃあ。ひとつ言ってもいい?」
シトラは、下唇の内側を舌先で舐め、にこり、と笑った。
「どうぞ。なんなりと」
クレイスはやや目を見張り、しかしすぐに、ゆったりと頷く。
「呪文の練習がしたい」
「なっ……」
その余裕の表情が、一瞬にして凍りついた。
「何を言っているのか、わかっているのか? 許可できるはずがないだろう!」
「だって、わがまま言っていいって、言ったじゃない」
「……それとこれとは話が別だ」
クレイスは呆れたように溜息を吐いた。
その溜息に、シトラの眉が下がる。
唇がわずかに、突き出すようにして結ばれた。
知らず、拗ねたような気持ちになっていた。いや、実際拗ねていたのだろう。受け入れてくれると言うから言ったのに、内容を聞いて却下するなんて、ずるい。
「甘えなさいって、言ったくせに」
抗議の呟きに、クレイスの動きが固まる。
当惑したような、苦いものを飲むような、それでいてどこか慈しみを帯びた瞳で、彼はシトラを見つめている。
「……あなたという人は……」
その瞳を隠すように、クレイスは額に手を当てた。
やがて、絞り出すような声が、室内に落ちる。
「……一回。一回だけだ。それ以上は許可できない」
「いいの?」
渋々といった許可に、シトラは瞬きを繰り返す。年甲斐もなくいじけてしまったことと、本音を漏らしてしまったことの気恥ずかしさが綯い交ぜとなり、どうしようもなくくすぐったい。
「ただし、演習場はだめだ。この寝台の上で、私のすぐそばで行うこと。途中で気分が悪くなったらすぐに止めること。少しでも妙な兆候があれば介入するから、そのつもりで」
クレイスは小言を言う母のごとく、指を立てた。
「うん!」
口元が自然と緩み、ふふ、と軽やかな笑い声があふれる。
嬉しい。
すごく、嬉しい。
クレイスがわざとらしく顔をしかめて歩み寄り、シトラの手をそっと取った。そして、耐えきれなくなったように微笑むと、その手に白樹の杖を握らせる。
そのまま、ひんやりとした彼の手が、杖を握っているシトラの指を包んでから、はためくように離れた。
寝台脇の椅子に腰掛けたクレイスに、シトラが視線を送る。
『ごめんね』でも、『ありがとう』でもない、浮つくような、ふわふわした気持ち。
その思いを胸に抱いたまま、シトラは静かに杖を構えた。構えるというよりは、杖先を風に遊ばせるような、力の抜けた自然な動きで。
意識するよりも前に、胸の奥から魔力が沁みるように杖に行き渡る。
ああ、はやく唱えたい。
クレイスに、『光』を、見せたい。
シトラは逸る心を抑えて、その唇で、静謐に呪文を紡いだ。
「『光よ、我が意に応じ、ここに灯れ』」
ほわり、と杖先が光った。
穏やかで慎ましやかな、丸い光。
一度、二度、三度。何回瞬いても、光は消えない。
「……できた」
生まれたばかりの光は、朝の光の中にあってなお、存在を主張するように淡く輝いている。
聞こえないほど小さな吐息が、静謐な空気を揺らした。
横向くと、クレイスが杖の先の光を、瞬くこともなく見つめていた。碧眼が照らされ、水面に光が散るようにきらきらと揺らめく。
「……温かい」
彼はそれだけ囁くと、目元をほころばせ、シトラに向き直った。
「おめでとう、シトラ。これであなたも、立派な魔術士だね」
その言葉に、シトラは首を傾げるようにして恥じらう。
「魔術士、かぁ……なんか、くすぐったい。まだひよっこだもの。でも、ありがとう、クレイス」
誇らしいような、照れくさいような、春風が全身を優しく刺激する感覚に、シトラは肩をすくめて応えた。クレイスはほのかに笑って、「これ以上はだめだよ。約束だからね」とシトラの指から杖を奪う。
そのまま、彼の大きな手がシトラの頭頂を覆うようにして、柔らかくその髪を撫でた。
「さて、ひよっこ魔術士殿。さっそくだが、母から最初のお願いをしようか」
彼は悪戯っぽく目を細めると、寝台用の卓に一枚の羊皮紙をはらりと置く。
「手続きが遅れていたんだが、魔塔の客人として、あなたの滞在登録をしなければならないんだ。ここに、署名を」
クレイスの長い指が、とん、と書類の下部の空欄を指した。
「うん。……ペン、あるかな」
頷くと、彼もまた満足そうに頷いて、シトラに羽ペンを渡した。
とくとくと、心臓が小さく跳ねている。
シトラは羽ペンを手に取り、滞在者の欄に名前を書き込んだ。シトラ・ユーネルディアではない、ただの『シトラ』として。
ここから新たな生活が始まる。
その、瑞々しい予感を大事に抱えながら、シトラは目を細めるようにして、署名し終えた羊皮紙を見つめた。
『滞在者 シトラ』
『魔塔主 クレイス・ルム・エル・アルヴァレイン』
第一章お読みいただきありがとうございます。
この先も楽しんでいただけたら嬉しいです。




