11. 始まり
主要国会議最終日、帰宅したクレイスが目にしたのは、魔導燈の明かりもなく、宵闇に包まれようとしている居室だった。大窓の外は薄暗く、巨大な本棚の上部に浮く角灯だけが、頼りなげな明かりで室内を守っている。
「シトラ? ただいま」
人の気配がない居室でクレイスは呼びかけた。昨日や一昨日は待ち構えるようにして『おかえり!』と出迎えてくれた人の笑顔が、今日はない。
クレイスは指を振って魔導燈をつけると客室へ向かい、扉を軽く叩いて開けた。誰もいない。
ふと、数日前の夕食の時の会話を思い出す。
『あなたの光をゆっくりと見せてもらう』。
彼はシトラの行方を想像してたまらなくなり、ひとり唇の端に笑みを浮かべた。
「律儀な人だ、まったく」
クレイスは楽しみのあまり、年甲斐もなく胸が高鳴るのをくすぐったく感じながら、シトラの灯す光を想像する。彼女のことだから、ひどく硬い光かもしれない。もしくは、その存在を鮮烈に主張する小さな光かも。彼は笑いながら居住層を後にして、転移門を使い演習場のある中階層へと降りた。
演習場の重々しい金属扉の前に立つクレイスの耳に、詠唱の言葉は聞こえない。
彼女を驚かさないように静かに扉を押し開ける。
細く開いた扉の隙間から灯りが洩れてこない。クレイスは、扉に当てた手のひらを思い切り押し、中に踏み入った。
暗くなった演習場の真ん中で、シトラは白樹の杖を持ち、その腕をまっすぐに持ち上げていた。まるで彼女自身が樹になったかのような、いや。
「あ……クレイス。……おかえり、会議……お疲れさま」
こちらを振り向くシトラのぎこちない動き。掠れた声。自分を出迎えようと一歩踏み出す足取りの危うさ。
彼は考えるよりも先に、十数歩の距離を縮地で跳んだ。儀礼用の長衣が、急停止の余波でふわりとひるがえる。
彼女が倒れるのをいつでも支えられるように、しかし彼女の自尊心を傷つけぬよう、クレイスは細心の注意を払って、触れるか触れないかの距離で両手を差し出した。
シトラはふらつきながらも両の足で立っていた。間近で見ればその顔は青白く、頬だけが異様に赤い。唇は乾いて色が薄く、浅く荒い息が漏れていた。
「いけない」
クレイスは躊躇なくシトラの額に手を当てた。触れる寸前から伝わる、冷えた手のひらを焼くような熱。
熱すぎる。
魔力回路の暴走ではない。これは、生身の肉体が限界を超えて悲鳴を上げている、生命活動の警告だ。
今にも倒れそうだというのに、彼女の手にはまだ、杖が固く握りしめられている。
クレイスはシトラの両肩を包むようにそっと支え、慎重にその顔を覗き込んだ。
「シトラ。喋らなくていい。呼吸だけに集中しなさい」
彼女はただ、ふにゃりと、力なく笑おうとした。
「ごめん……」
衝撃がクレイスを貫いた。
消え入りそうな謝罪。心配させまいと笑い、それがまったく機能していない顔。
体調管理を怠ったことへの詫びではない。それは、自分に見せるはずだったものを、万全な状態で示せなかったことへの悔恨からくるものだ。最終日に帰ってきた自分に、光をゆっくりと見せるためだけに、この身を削り続けたことへの。
(……なんて、人だ)
喉の奥がひりつく。全身がおののく。
クレイスはその痛みを呑み込むようにして、一度だけ強く目をつぶった。
「……失礼するよ」
静かに囁いて、彼はいまだ歩こうとするシトラの前に立ち、その膝裏と背中に両腕を差し入れる。
「動かないで。あなたをこのまま運ばせてほしいんだ」
そのまま掬うように抱き上げると、熱の塊のようなシトラが、自分の胸の中で頷き、ぐったりと脱力した。
◇
寝台の脇に寄せた椅子に深く腰掛け、クレイスはまたたく時間すら惜しいほどの気持ちで、高熱に浮かされるシトラを見つめていた。
最低限に絞り込まれた魔導燈が頼りなげに揺れ、薄闇の中、彼女の赤い頬をほのかに照らしている。
演習場から半ば無理やり客室に運び込み、早数刻が経過していた。
シトラの額に乗せた濡れた布が、重みに耐えかねてずり落ちる。クレイスは立ち上がると、それを手に取って傍らの洗面器に張った水に浸けた。
魔術による強制解熱は、衰弱した体への負担が大きい。ましてや回路が開いたばかりの彼女に行うことはできなかった。国一番の魔術士が、ただ、水に濡らした布で汗を拭いてやることしかできない。
「……ん……ぅ……」
苦しげな呻き声に、クレイスは急いで布を絞ると、素早くシトラに向き直ってその額に滲む汗を拭いた。まだ熱は高い。
自身の人差し指をくるむように布を持ち、前髪を持ち上げて、額の生え際にそっと押し当てていく。こめかみを通り、耳の裏、首筋に至るまで、決して素肌に触れないよう、慎重に汗を拭った。
布は彼女の体温を吸い、あっという間に温くなる。
クレイスは洗面器の中に布を浸した。水がもう冷えていない。
新たな水を出すことはたやすいことだったが、水音をたて、彼女の眠りをわずかでも妨げたくはなかった。
彼はシトラの掛布団を注意深く掛け直すと、洗面器の水を換えるために寝台から一歩離れた。
その彼の長衣を掠めるように、シトラの手がわずかに動き、宙で揺らめく。
「……おかあさん……いかないで……」
クレイスの踵が、床からわずかに浮き上がった状態で静止した。つま先が、縫い留められたように動けない。
弱々しく、か細い。夢を見ているのか、うわ言のような、輪郭のない声音。
彼は洗面器を置くと、ふたたび椅子に腰を下ろした。さまよっている白い手を、両手でしっかりと包みこむ。
迷いはあった。それでも、クレイスは優しく応えた。
「……うん。お母さんは、ここにいるよ」
彼は、包み込んだ手の甲を、親指で微かに撫でた。
「どこへも行かない。ずっと側にいるよ……だから、安心しておやすみ」
祈るように囁いて、クレイスは、彼女の手に己の額を寄せる。
そのまま、どれだけの時が経ったのだろう。
浅かったシトラの呼吸が、ふっと落ち着き、深い寝息に変わっていく。
顔を上げると、強張っていた彼女の眉間の皺が解け、苦しげだった顔は安堵に満ちていた。
クレイスの体からも、幾許かの力が抜ける。
彼は穏やかなシトラの寝顔を見つめ、深く、深く息を吐いた。
母だと言って握りしめた手を、解くに解けず、クレイスは自嘲気味に口元を緩めた。
(……やれやれ。まさか、世界の理を究めんとした果てに、男である私が『母』になるとはね)
最強の魔術士と畏れられ、数多の称号を持つ自分の、その履歴に『母親代わり』という項目が加わるとは夢にも思わなかった。
だが何故だか、嫌ではない。
母だと言ってしまえば、自分でも驚くほどに、その立場に心がすっぽりと納まった。師であれば、導かねばならない。父であれば、厳しくあらねばならない。だが、母なら。
自分の思考が可笑しく、クレイスは声を立てずに忍び笑いを漏らした。
その中で、彼の脳内でひとつの違和感が浮かび上がる。
シトラを魔塔で引き取ることを決めた際に調べ上げた、彼女の生家、ユーネルディア伯爵家の調査資料。それに記されていた家族構成。
彼女の母は、彼女を産み落とすと同時に亡くなっているはずだ。
つまり、シトラは生まれてから一度も、母親の顔を見たことはない。その温もりを知る由もない。
(顔も知らぬ母親を、これほど切実に慕うものだろうか……?)
乳母を母と呼んでいた可能性もあるが、クレイスの直感がその可能性を切り捨てる。
『いかないで』。
それは、概念としての母への憧れという理由には収まらない、もっと生々しい、切迫した叫びのようにも聞こえた。
その痛ましさに、クレイスの顔が歪む。
シトラが求めていたものの正体が、今、この手の中にある気がした。




