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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第1章
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10. 誰が為に

 シトラが魔塔に来て五日目、クレイスが王宮に泊まるようになってから三日目の昼が過ぎ、日の射し込む角度が低く移り行こうとしていた。すでに、クレイスのいない生活のほうが長くなっている。しかし、シトラの表情は暗くなかった。


 いくら唱えても何も変わらないと思っていた『光』の呪文。それが今朝は、ほんのわずかに灯ったのだ。その光はシトラがふたつまたたく間に消えてしまい、以降灯ることはなかったが、何かが功を奏したのは間違いない。


「やっぱり、回数かな……?」

 夕方に差し掛かりかけた、黄金色の穏やかな陽光が照らす演習場で、杖を軽く振りながらシトラは呟いた。細い杖の先が指揮棒のように優雅な曲線を描く。


「それとも、構えが大事だったりするのかな」

 右腕がぴんと伸ばされた。狙撃銃の照準器を覗き込むようなシトラの目が、杖の先端を睨んだ。


 魔導書の第六章、術者の確信には、こう記されている。


『確信とは、己の意志を唯一として掲げることだ。』


 今朝、たしかに光が灯った。ということはつまり、その確信に至る何かが、どこかであったはずなのだ。しかし、その何かがわからない。第六章には、確信を確信たらしめる何かについては書かれておらず、確信を鈍らせる要素、確信を阻害する条件についてが事細かに記されていただけだった。だがそもそも確信というものを掴めていないシトラにとっては、それらをいくら読んだところで助けにはならない。


 今まで灯らず、今朝の一発目で急に灯り、以降灯らなくなった理由は何なのか。もしあれが偶然だとして、その偶然に思わず驚いて、動揺してしまったせいで灯らなくなったことも考えられる。


「難しすぎる……」

 シトラはしばらく、ああでもない、こうでもないと妙な姿勢を繰り返し、ふと我に返っては、前世で読んだ漫画の独特な立ち姿にそっくりなことに気が付いて、苦笑した。


 演習場に落ちる光がだんだんと赤みを帯びてきている。

 戻らなきゃ、とシトラは思った。またここで夜を明かし、食事もとらずに寝落ちするような失態をしてはいけない。無理をするなと言われたのだから、食事と睡眠はしっかりとらなくては。


 演習場を出て、長い螺旋階段の脇にある転移門の仕掛けに触れる。エレベーターのように行先を指定するのが面白かった。科学と魔術は仕組みは違っても目指すところは収束するらしい。


 転移門から降り、空間拡張された魔塔の廊下をひたひたと歩く。廊下の高窓からは夕闇が慎ましやかに忍び寄り、安息の時の訪れを知らせていた。


 居住層の扉に手をかけ、何の気なしに開けようとして、その扉の向こうから小さな物音がすることに気が付いた。頭がそれを理解するよりも先に手が勝手に、大きな音を立てて扉を開けた。



 くつくつと煮える鍋の前にクレイスが立っている。



 純白の長衣とまた違う、銀糸で緻密な刺繍が施された濃紺の長衣。裾から立襟の首元まで釦が並び、きっちりと留められたその衣服は、儀礼式典で着用するにふさわしい装いで、およそ鍋の前で木べらを手に立つようなものではない。


 彼はゆるやかにこちらを向くと、湯気を漂わせながら「やあ」と微笑んだ。木べらを持つ腕を包む細身の袖が肘のあたりまでまくられ、窮屈そうに丸まっている。


「おかえり、シトラ。ちょうどそろそろ呼びに行こうと思っていたところだよ」


「……た……ただい、ま……??」


 どちらがおかえりで、どちらがただいまなのか判別できないまま、シトラは言葉を返した。


 彼は目元を和ませて頷くと、小皿をとり、木べらですくった赤い汁を皿にのせて口をつける。


「うん、いい味だ」


 火を止めて、クレイスは棚から二人分の食器を出し、鍋の中身を盛り付けた。


「さあ、杖を置いて座って。冷めないうちに食べよう」

 立ち尽くしたままのシトラにそう声をかけながら、彼は手際よく配膳を済ませる。


「あの……クレイス、お仕事は……?」


 その問いに、ふ、と軽い、吐息交じりの笑いが落ちた。


「仕事は、順調だよ。とてもね」


 クレイスは食卓を回り込み、シトラから杖を優しく取り上げると脇の卓の上へと置いた。そして流れるように椅子を引く。引力に従うように、シトラはすとんと腰を下ろした。


「あまりに順調だから、息抜きに帰ってきたんだ。たまたま王宮の厨房に寄ったんだが、料理長からいい食材を分けてもらえてね。今日は燻製肉の煮込みにしてみた」


 向かいの席に着いたクレイスが、手のひらで『どうぞ』と促している。

 シトラは何も考えられないまま、ぎこちなくスプーンを手に取った。体と頭が分離しているかのように、うまく働かない。それは昨日の戸惑いと似て、しかしもっと奥底が温かくなるような、不思議な感覚だった。


「……いただきます」

 常なら心の中で唱える祈りを、知らずシトラは口にする。


 白い器の中で、煮込まれた肉と野菜を包む、赤いスープが美しい。

 スプーンですくうと、その背からぽたり、と雫が落ち、一拍の間をおいて煮込みが口に運ばれた。



 おいしい。



 酸味のある、こく深い味だった。多層的な香りに、燻製肉の旨味が口の中に広がった。

 喉を通るスープの熱が、体を芯から温めていく。


 ゆっくりと嚥下して、シトラは続けて三口ほど食べ、顔を上げた。

「すごく、おいしい。……クレイス、ありがとう」


 クレイスは微笑み、彼もまたスプーンを手に取って煮込みを口に運んだ。

「口にあって、よかった」

 そう言って、頷くと、彼は小さな、囁くような声音でそっと呟く。


「うん。……おいしいね」


 彼の言葉が耳に届き、波紋のようなさざなみが胸の内に広がった。ふるふると草葉が揺れるような温かいそれは、先ほど感じた不思議な感覚の輪郭をはっきりと見せていく。


 シトラはスプーンをそっと器に沈め、息を吐いた。


(嬉しかったのか、私)


 気が付いてしまえば単純なことだった。置き手紙を読んだときも、シチューを食べた時も、そして今も。自分は嬉しかったのだ。誰かが自分を思い、心を配ってくれることが。こうして食卓を囲み、喜びを共にすることが。


 自分の感情に時間差で気付いたことがおかしくて、シトラは笑った。

「そういえば、昨日のシチュー。あれもすごく、おいしかったよ」

 頬張りながら涙が出たことは、恥ずかしくて言えなかった。


「あとね。今日少しだけ、光の呪文が成功したの。一回だけだし、灯ってたのはほんのちょっとの時間なんだけど」

 柔らかく笑んでいたクレイスの目が、わずかに見張られる。

「それは……素晴らしい朗報だね。その瞬間に立ち会えなかったことが悔やまれるな」

「あっ、でも。まだ再現性がなくて。今いろいろ試してるとこなの」


 シトラは食べながら、朝一番に光が灯った時の驚きや、驚いたことが確信を消してしまったのではという仮説を彼に話した。クレイスはひとつひとつに頷きながら、シトラの話を興味深げに聞いていた。


「だからね、もしかしたら朝一番っていう条件が大事なのかもしれなくて。また明日やってみようかなって」

 なぜこんなに、畳みかけるように話しているのか。理由がないまま、シトラは次々に浮かぶ言葉を何も考えずそのまま出していた。いつしか食器が空になり、話したいことをひとしきり話して落ち着くと、クレイスは白い布で口をそっと拭って立ち上がる。


「食後の茶を楽しみたいところだが……また王宮に戻らねばならないんだ。すまない、シトラ」


 まくっていた長衣の袖を下ろし、彼は袖口の釦を丁寧に留めた。


「あと三日で片が付く。そうしたら、あなたの『光』をゆっくりと見せてほしい。それまでは、どうか無理をしないで。毎日、夕食には帰るから。いい子でいるんだよ」


 彼はどこか悪戯っぽい響きでそう言うと、シトラに向かって穏やかに微笑んだ。


 シトラは彼に声をかけようとする。

 行ってらっしゃい。気をつけて。クレイスこそ無理しないで。


 しかし、すぐにシトラが口を開こうとするよりもずっと早く、彼は微笑んだまま指でくるりと円を描くと、多数の円環と共に、揺らめいて消えた。


「あ…………」


 シトラは、クレイスが去った後の空間を呆然と見つめていた。たった一言、言葉をかわす間も、席を立ち上がる間もない。まるで、ぎりぎりまで冬枝についていた葉が風で落ちるように、彼の姿はふっと掻き消えた。


 その唐突な消失は、この時間が偶然生まれたものではなく、彼が、仕事の合間を縫って台所に立ち、食卓を共にするためだけに戻ってきたことを、これ以上ないほど雄弁に語っている。自分が何気なく話していた時間も、彼は言葉を遮ることなく受け止め、真摯に耳を傾けてくれていた。着替える時間も惜しんでいたほどなのに、たわいのない話につきあって。


 シトラは拳で胸を押さえた。痛い気がする。ぎゅう、と絞られるような違和感。

「……絶対、成功させる」

 あと三日だと、彼は言った。その時に、光は灯りませんでした、なんて言いたくない。


 シトラは手早く食器を片付けて洗うと、クレイスが卓に置いた白樹の杖を再び手に取った。


 翌日も、翌々日も、言葉通り夕食の席には必ずクレイスがいた。彼が来るまでシトラは演習場にこもり、彼が王宮へ戻れば、シトラも演習場に戻る。『あなたの光をゆっくりと見せてほしい』――その言葉を現実にするため、ただひたすらに、杖を振るった。

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