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アルヴァレインの魔女  作者: 理慈
第2章
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5. 移りゆく

 そろそろ部屋を移そうと思う、と言われた時は、納得と共に軽く驚いた。

 王都から帰ってきた翌日、夕食の席で、クレイスは珍しく果実酒のグラスを傾けながら、前々から決まっていたことのようにシトラに切り出す。


「いつまでも客室に留め置くわけにはいかないからね。あなたさえよければ、明日にでも」

「どこへ移るの?」


 鶏の炙り焼きを口に運ぶシトラに、クレイスは一拍おいて答えた。

「主寝室の隣が空いているから、そこはどうだろうか。日当たりもよく、結界も厚い。それに……全属性の回路が急激に開くというのは前例がないからね。寝ているときに、この間のような回路暴走が起こらないとは限らないだろう? 隣の部屋であれば、何があってもすぐに感知できるはずだ」


 なるほど、とシトラは頷いた。居住層は二層に分かれていて、一層目が居室や台所などの共有空間と、書斎や研究室、予備の執務室などがあり、客室もその中に含まれている。中二階の奥にある二層目は完全な私的空間で、シトラもほとんど足を踏み入れたことがない。主寝室はその最奥にあるため、確かに客室とは距離があると思われた。


「じゃあ、明日移るね。でも、クレイスは明日からお仕事だったよね。一人で勝手に移っていいのかな」

「ああ、仕事に関しては問題ない。王宮へは必要な時だけ出仕することにしたんだ。元々筆頭の責務は魔塔の管理だからね。これまでは必要に駆られて他の仕事をしてきたが……私一人に集中するのは、組織にとっても危機管理上あまり良いことではない。だから分散することにしたんだよ。いつかはしなければと思っていたし、ようやく、と言ったところかな」


 クレイスはくるりとグラスを回し、黄みがかった果実酒を揺らめかせた。




 そう話したのが、昨晩のことだ。

「シトラ、おいで」

 昼過ぎにクレイスに呼ばれ、新しく用意された私室に足を踏み入れた瞬間、シトラはひそかに息を呑んだ。


 広い。


 客室も十分な広さを感じていたが、この部屋はそれに輪をかけて広かった。その空間を埋めるように、品が良く、瀟洒な家具が置かれている。寝台に天蓋が付いているのは、部屋の広さゆえだろう。長椅子と書き物机、衣装棚のどれをとっても真新しく見える。


 ふか、と足元が沈むような感覚に目を落とすと、淡い生成り色の絨毯が敷かれていた。それを踏みしめながら窓に寄ると、透かし織りの帳の向こうが露台になっていて、部屋の中からは王都が一望できた。


「え!?」

 雲海の上にあるはずの居住層、その二層目から、なぜ王都が見渡せるのか。


「私の個人的な好みでね。この層は、窓を、居室とは別の階層に繋いでいるんだ。たまには雨音を聞きながら眠りたいだろう? 雲海の上は素晴らしい眺めだが、穏やかな雨音はあまり聞けないから」


 シトラは、事もなげに言うクレイスの説明を物理的に考えようとして――やめた。違う空間同士を接続する魔術の心象を固定するなど、自分には何十年経ってもできないのではないか。そう感じるほどの、とてつもない魔術。それを、『雨音が聞きたいから』という理由で行使することに眩暈を感じて、並外れた発想にシトラは思わず笑ってしまう。


「すごく素敵な部屋で、びっくりした。ありがとう」

 シトラは振り向きながらクレイスに微笑みかけた。

「気に入ってもらえたなら何よりだ。荷物はまとめてあるかな?」

「うん、言われたとおりに木箱に詰めて、客室に置いてある」

「わかった。少し待っていてくれ」


 言い置いたクレイスがその場を後にすると、部屋はますます広く見える。シトラはまだ他人行儀な自分の部屋をうろうろと歩き回り、家具のひとつひとつに目を留めながら、最終的には長椅子に腰を下ろした。


「はぁ……」

 伯爵家では粗末と言ってもいい簡素な部屋を与えられ、使用人たちと共に暮らしていた。商会でも似たようなものだ。だから、客室に住まわせてもらっているだけでも、自分にとっては望外の喜びと思ったのに。


「すごい……」


 長椅子の座面を手のひらで撫でる。青みがかった淡い灰色の天鵞絨は艶めいて美しく、手触りは滑らかで、居室の革張りの長椅子とはまた違った心地よさがあった。毛足に沿って撫でれば、とろけるような感触とともに、ほのかにひんやりとしながら体温に馴染んでいく。毛足に逆らえば、繊細な抵抗が手のひらをくすぐって、ふっくらとした厚みを返してくる。


 その手触りに魅了され夢中でうっとりと撫でていると、しばらくして、低く漏れ出るような笑いの気配がした。


 顔を上げると、いつの間にか戻ってきていたクレイスが箱を持ちながら喉の奥で笑っている。彼は、くっくっと限界まで潰したような、それでもたまらずに出てしまったという風情を隠そうともせず、魔術で木箱を浮かせると部屋の隅に置き、それから口元を拳で覆った。


「そこまでお気に召してくれると、選んだ甲斐があるね」

「見てたの?」

 いったいいつから見られていたのか。シトラは気まずい気持ちで曖昧な顔をした。頬が熱い。


「うん。とても嬉しそうに撫でているから、声をかけるのがためらわれた。……私も嬉しいよ」

 クレイスは穏やかに目を細め、シトラに歩み寄って流れるような所作で手のひらを差し出した。

「荷を片付ける前に、茶を淹れよう」


 シトラはその手のひらを一瞬見つめ、クレイスの顔を見上げる。彼は眉を上げ、その長い指を誘うように小さく動かした。


 伯爵家の出として、意味は分かる。この手を取って立ち上がれということだ。紳士が淑女へ敬意を示す、礼を尽くした所作のひとつ。


 でも、師匠が弟子に?


 手を取るか取らないかシトラが手を宙に浮かせたままためらっていると、

「あなたは甘えるということを知らないからね。母として、きちんと教えていかないと」

 クレイスは軽く首を傾げながらそう言った。


(ああ……そうか)

 おそらく彼は、自分がこの部屋を与えられたことに対して、気後れしているのをどこかで感じ取ったのだろう。だからこうやって、気にしなくていいのだと和ませてくれている。


「このお母さん、過保護すぎない?」

 冗談を返しながら、シトラはありがたくその手を取った。指をのせるとその手が包まれて、踏み出そうとした瞬間ふわりと体が浮くように、自然と立ち上がっている。

「そのくらいが、今のあなたにはちょうどいいのさ」


 クレイスはシトラの手を放すと、もっともらしい口調で、過保護な母の宣言をした。冗談に冗談で返し、さらに冗談で返されただけなのに、シトラの胸の奥がじわっと温かくなる。


 彼は何事もなかったように先を歩きながら、階段を下りて楽しげに言った。

「これから魔塔でどのように過ごすかを話したい。あなたが選んだ菓子を食べながらね」




 買ってから三日目になるドーナツは、保存魔術のおかげかいまだしっとりとしていて、手で割るとほろほろと細かな屑を出しながら、黄色く美しい断面を見せた。シトラは指先についたドーナツの屑を手拭でぬぐい、やや逡巡したあと、半分に割ったドーナツを手に持ってそのままぱくりと口に運んだ。


 貴族社会ではありえない、作法に反する振舞いだったが、指先をぬぐいながら食べるのは気になったし、何より食べてすぐ紅茶を飲みたいから、ぬぐうひと手間すらもどかしかった。


 クレイスはなぜかその様子をにこやかに見つめていて、咎められなかったことに安堵しつつ、何がそんなに面白いのだろうか、とシトラは内心で首をひねる。


「食べ方、変だった?」

「いいや。とてもおいしそうだ」

 クレイスは笑いを含みながら、茶器の細い取っ手を指先でつまむ。


「あなたは、素晴らしい魔術士になるだろうな、と思ってね」

「???」


 ドーナツと魔術に何の関係があるのだろう。


「そのためには、まだいろいろと乗り越えねばならないことがあるが……」


 彼は紅茶を一口飲んでカップを戻し、卓の上に肘を置くようにして頬杖をついた。ひとつ間違えば無作法になりかねないその仕草は、しかしとても優美で、手のひらに巻き込まれた淡青の髪が揺れるのを、シトラは不思議な気持ちで眺めている。


「ひとまず、私の執務については昨日も言った通り、基本的には今後魔塔で行うことにした。正直に言えば、あなたの回路が真の意味で安定するまで一人にするのが不安でね。回路を刻んだ者の責務として見守りたいんだ。窮屈な思いをさせてすまないが、私のわがままに付き合ってほしい」


 それはむしろシトラにとってはありがたいことだった。クレイスはいつもそうやって、こちらが気に病まなくて済むように、自分の望みとして差し出してくれる。彼は優しいのだ。とても。


 うん、とシトラが頷いて二口目のドーナツを頬張ろうとした時、中二階の窓を何かがこつんと叩いた。クレイスが立ち上がりそちらを向いて指を滑らせると、音もなく窓が開く。それを待ちかねたように、一羽の立派な鷹が飛んできて彼の腕に止まった。鷹の足には小さな書簡筒がついていて、彼はそれを片手で器用に開けて中身を取り出すと、ご苦労、と呟いて鷹を窓の方へと向かわせる。


 窓を閉め座り直したクレイスは、その書簡に視線を落とすや否や、眉を寄せた。底冷えするような険しい顔。

 何かあったのか、と訊きたくなり、シトラは開きかけた口にドーナツを押し付けた。


「間が良いのか、悪いのか」


 無言でドーナツを食べるシトラに、彼は芝居がかったように肩を竦めて見せる。その顔からは先ほどの険しさが消え、落胆とも呆れともつかない色が滲んでいた。


「弟子がもう一人増えるんだ。正確には、戻ってくる」

「どんな人?」

「そうだね、賑やかで明るい子だよ。ただ……」


 クレイスは珍しく言い淀んで、指先で眉間を揉んだ。

「いや、先入観はよくないな」


 彼の、自分に言い聞かせるような微かな呟きを、シトラは少し冷めた紅茶を飲みながら聞いている。


「彼はまだ十七歳と若くてね。あなたが来るまでは、私の唯一の弟子だった。私が魔塔で執務をとることになり、修練もこちらで行わせることになったんだ。近々呼び戻す気ではいたが、少しばかり予定がずれた」


 彼もまた、細く息を吐いて紅茶を飲んだ。

「魔術の修練には却っていいかもしれない。魔術の行使は人それぞれで違うから……他者の修練を見るのも勉強になるだろう」


 言葉とは裏腹に、クレイスはどこか浮かない顔をしている。唇に笑みは浮かべているが、眉尻がわずかに下がっていた。目元に緊張があるのだ。


「彼のほうが兄弟子ではあるが、弟だと思って気楽に接してやってくれるかな。肩肘を張る必要はないからね」

「わかった。楽しみにしてるね」


 クレイスが何かを危惧しているのだということは察せられたが、はっきりとしたことはわからなかった。彼の弟子と自分の関係についてか、それとも他に懸念があるのか――どちらにせよ、シトラは彼の弟子と上手くやろう、と思った。


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