第六話「鳴らないはずの音」
その日は、朝から空気が軽かった。
正確には、軽いように“見えた”。
市場には人が集まり、いつも通りの声が飛び交っている。
だがエルドの目には、それが薄い膜の向こう側にあるように見えた。
「……またか」
隣のリリアが聞く。
「何がですか?」
エルドは短く答える。
「戻っていない」
市場の奥へ進む。
そこには、もう慣れた光景がある。
パンの屋台。
そしてミアたち。
ミアはすぐに気づく。
「あ、おはようございます」
声は昨日より少しだけ整っている。
だが“整えようとしている”のが分かる。
リクが言う。
「また来た」
ルナは黙っている。
だが今日は、少しだけエルドの方を長く見た。
エルドは短く言う。
「問題はあるか」
ミアは首を振る。
「大丈夫です」
その言葉は、これまでより一番軽かった。
リリアが小声で言う。
「逆に不自然ですね」
エルドは答えない。
その時だった。
――ゴォン。
鐘が鳴った。
低い音。
遠い音。
だが確かに“空気を揺らす音”。
市場の音が一瞬だけ止まる。
だがすぐに戻る。
誰も気にしていない。
しかしエルドは止まる。
完全に。
ミアが不安そうに聞く。
「今の、何ですか?」
エルドは答えない。
リリアが周囲を見る。
「鐘……?どこから?」
商人の一人が首を傾げる。
「鐘?何の話だ?」
別の商人も言う。
「聞こえてないぞ」
その瞬間、空気が変わる。
ミアが小さく言う。
「私も、聞こえました」
エルドは視線を上げる。
(聞こえた)
リクも言う。
「俺も」
ルナも小さく頷く。
エルドは確信する。
(“ズレの中心”が見えてきている)
リリアが顔を青くする。
「エルド様……これ、全員じゃないです」
その通りだった。
聞こえている者と、聞こえていない者がいる。
エルドはゆっくり言う。
「選別されている」
ミアが不安そうに聞く。
「選別って、何ですか?」
エルドは答えない。
まだ説明できない。
代わりに言う。
「影響が出ている」
その言葉に、ミアは少しだけ黙る。
リクが言う。
「なんか気持ち悪い音だった」
ミアはすぐに笑う。
「気のせいだよ」
だがその笑顔は、少しだけ遅かった。
エルドはその“遅れ”を見る。
(まただ)
リリアが言う。
「帳簿が合いません」
エルドは振り向く。
「どの段階だ」
リリアは紙を見せる。
「昨日までの数字が、一部消えています」
沈黙。
エルドは紙を見る。
そこには“空白”がある。
「消えたのか」
リリアは首を振る。
「消えたというより……最初から無かったような」
その言葉で確定する。
エルドは静かに言う。
「鐘が原因だ」
ミアが驚く。
「え?」
エルドは続ける。
「今の音は、“基準”を揺らした」
リクが首を傾げる。
「基準って?」
エルドは短く言う。
「世界のルールだ」
その言葉にミアが固まる。
「そんなのが、音で変わるんですか?」
エルドは答える。
「変わっている」
リリアが呟く。
「では、私たちはどのルールにいるんですか?」
エルドは少し間を置く。
「分からない」
その一言が一番重かった。
ミアは小さく言う。
「じゃあ、私たちはどうなるんですか」
エルドはすぐに答えない。
そして言う。
「分からない」
沈黙。
市場は動いている。
だがその中に“確実なもの”は少ない。
ミアがパンを見つめる。
「これも、変わるんですか?」
エルドは答える。
「もう変わっている」
ミアは小さく笑う。
「じゃあ、もう慣れるしかないですね」
その言葉に、エルドは一瞬だけ止まる。
(慣れる?)
それは生存ではなく適応の言葉だった。
リクが言う。
「なんか怖いな」
ミアはすぐに答える。
「大丈夫だよ」
だがその声は、誰に向けたものでもなかった。
エルドは思う。
(鐘は“始まり”ではない)
(すでに始まっているものを“固定”しただけだ)
市場の音が戻る。
だがもう、同じ音ではない。
エルドはミアを見る。
ミアもまた、少しだけ空を見ている。
その表情は、まだ崩れてはいない。
だが確実に、“ズレ”の中にいる。




