第七話「欠けた現実」
朝の市場は、静かだった。
正確には、静か“すぎる”朝だった。
人はいる。物も並んでいる。商人も声を出している。
だがエルドには、そのすべてが一枚の薄い布の向こう側にあるように見えた。
「……広がっているな」
隣のリリアが顔を上げる。
「何がですか?」
「ズレだ」
市場の奥へ進む。
そこにいるはずの場所へ。
パンの屋台。
そしてミアたち。
ミアはすぐに気づいた。
「あ、おはようございます」
声は普通。
だが“普通を保とうとしている”のが分かる。
リクが言う。
「また来た」
ルナは今日はエルドを見ない。
視線が一瞬だけ宙を漂っている。
エルドは短く言う。
「今日もいるな」
ミアは頷く。
「はい」
だが、その返事は短すぎる。
リリアが小声で言う。
「また、何か変です」
エルドは答えない。
その時だった。
ミアがパンを並べている手が、止まる。
「……あれ?」
リクが首を傾げる。
「どうしたの?」
ミアはパンを見る。
そしてもう一度数える。
「一つ……足りない」
沈黙。
リクが言う。
「昨日もそうだったよ」
ミアはすぐに首を振る。
「そんなことない」
だが声に確信がない。
エルドはその瞬間に気づく。
(“不足”ではない)
(“消失”だ)
リリアが帳簿を見て顔を上げる。
「エルド様……」
その声が少し震えている。
「数字が……合いません」
エルドは視線を向ける。
「どのレベルだ」
リリアは答える。
「昨日より悪いです」
沈黙。
エルドは理解する。
(進行している)
ミアが小さく言う。
「最近、本当に変なんです」
エルドは即答する。
「具体的に言え」
ミアは少し迷う。
「置いたはずのものが、無くなってたり」
「数えたのに、合わなかったり」
リクが続ける。
「俺もある」
「食べた気がするのに、食べてないとか」
ルナも小さく頷く。
エルドは静かに言う。
「それは記憶ではない」
リリアが聞く。
「では何ですか」
エルドは少し間を置く。
「現実の欠落だ」
その瞬間、空気が重くなる。
ミアが不安そうに言う。
「現実って……なくなるんですか?」
エルドは答えない。
代わりに言う。
「“固定されていない”だけだ」
その言葉にミアは少しだけ黙る。
市場の奥で、商人の声が上がる。
「おい、この銀貨違うぞ!」
別の声。
「いや、さっきと同じだ!」
エルドはそちらを見る。
リリアが小さく呟く。
「始まりましたね」
エルドは頷かない。
ただ見ている。
ミアが不安そうに言う。
「何が起きてるんですか」
エルドは答える。
「分からない」
ミアは少しだけ笑う。
「でも、分かる人いないと困りますね」
その言葉に、エルドは一瞬だけ止まる。
(“困る”)
それは他人事ではない言葉だった。
その時。
遠くで音がした。
――ゴォン。
鐘。
前より近い。
市場の一部が一瞬だけ止まる。
だが今回は違う。
止まったまま戻らない場所がある。
商人の一人が言う。
「今の、聞こえたか?」
別の者は言う。
「何も聞こえていない」
分断。
エルドは静かに言う。
「広がっている」
リリアが震えた声で言う。
「範囲が……増えてます」
ミアが不安そうにエルドを見る。
「これ、私たち大丈夫なんですか?」
エルドは少し間を置く。
そして言う。
「分からない」
その一言が、最も重い。
ミアは小さく笑う。
「そればっかりですね」
だがその笑顔は、弱い。
リクが言う。
「なんか怖いな」
ミアはすぐに言う。
「大丈夫」
だが、その声も揺れている。
エルドは思う。
(もう“観測”では遅い)
(これは進行している)
リリアが言う。
「調べるべきです」
エルドは頷く。
「鐘の出どころを探す」
その言葉で初めて、エルドは“動く側”になる。
ミアが小さく言う。
「行っちゃうんですか」
エルドは答える。
「必要なら」
ミアは少しだけ黙る。
そして小さく言う。
「気をつけてください」
その一言に、エルドは一瞬だけ止まる。
(これは……)
初めての“個人的な言葉”だった。
エルドは短く言う。
「問題ない」
だが、その声は少しだけ柔らかい。
市場の音は戻っている。
だが、もう元通りではない。
ミアの日常は壊れ始めている。
世界はそれに追いつき始めている。
そしてエルドは、初めてその中心へ向かう。




