第四話「足りない理由」
朝の市場は、昨日よりも少しだけ静かだった。
人はいる。声もある。物も動いている。
それなのに、どこかだけが薄い。
エルドはその違和感を、もはや“感覚”ではなく“前提”として受け入れ始めていた。
「戻っていないな」
隣のリリアが小さく聞く。
「何がですか?」
「流れだ」
リリアはため息をつく。
「それ、もう説明になっていませんよ」
エルドはそれ以上答えない。
市場の奥へ向かう。
足は自然と、あの場所へ向かっていた。
パンの屋台。
そこにいる三人。
ミア、リク、ルナ。
ミアはすぐに気づいた。
「あ……おはようございます」
声はいつも通りを装っている。
だが、少しだけ遅い。
リクが続ける。
「また来た」
ルナは黙っている。
だが今日は、エルドを見てすぐに視線を逸らした。
エルドは短く言う。
「今日もいるな」
ミアは小さく笑う。
「はい。ここしかないので」
その言葉は、軽いようで重い。
リリアが視線をパンに向ける。
「数、減っていませんか?」
ミアは一瞬だけ止まる。
「……そう、ですか?」
リクが横から言う。
「減ってるよ」
ミアはすぐに否定する。
「そんなことないよ」
だが声が少しだけ硬い。
エルドは見ていた。
パンの量ではない。
“分ける動き”が違う。
昨日より少しだけ遅い。
少しだけ迷いがある。
エルドは銀貨を取り出す。
テーブルに置く。
ミアが反応する前に言う。
「足りない分だ」
ミアは慌てる。
「だめです、そんなに――」
エルドは遮る。
「昨日も同じことを言った」
ミアは言葉を失う。
少し沈黙。
ミアは小さく言う。
「……最近、本当に変なんです」
その一言で、空気が変わる。
リクが顔を上げる。
「変ってなに?」
ミアは答えられない。
「わからない」
その言葉を、エルドは逃さない。
(まただ)
リリアが銀貨を見ながら言う。
「物価の変動ではないんですよね?」
エルドは首を振る。
「違う」
「では何です?」
エルドは少し間を置く。
「欠けている」
リリアは眉をひそめる。
「何がですか」
エルドは答えない。
ただミアを見る。
ミアはパンを分けている。
その手元が、ほんの少しだけ震えていた。
リクが言う。
「ねえ姉ちゃん、なんか今日さ」
ミアが顔を上げる。
「うん?」
リクは少し迷ってから言う。
「ちょっと、足りない気がする」
その瞬間。
ミアの動きが止まる。
ほんの一拍。
すぐに笑う。
「気のせいだよ」
だがその笑顔は、昨日よりも薄い。
エルドはその“薄さ”を見ていた。
(感情が削れている)
そんな表現が、頭に浮かぶ。
ミアが視線を上げる。
「エルドさん」
「なんだ」
「最近、よく来てくれますけど」
少し間。
「どうしてですか?」
エルドは答えない。
すぐに理由は出てこない。
代わりに言う。
「必要だからだ」
ミアは少しだけ首を傾げる。
「必要……」
その言葉の意味を考えるように、少し黙る。
そして小さく笑う。
「じゃあ、まだ必要なんですね」
エルドは一瞬止まる。
(まだ?)
その言葉の意味は分からない。
だが、妙に引っかかる。
リリアが小さく言う。
「その子、少し疲れていませんか」
エルドは即答する。
「見ている」
リリアはそれ以上言わない。
ミアはパンを包む。
その動作は慣れているはずなのに、少しだけ遅い。
リクが言う。
「今日さ、昨日よりお腹すくの早い」
ミアはすぐに返す。
「気のせい」
だが声に力がない。
ルナが小さく言う。
「ほんとだよ」
その一言に、ミアが一瞬だけ黙る。
エルドはその沈黙を見逃さない。
(認識がズレている)
市場の音が遠くで鳴る。
人は普通に動いている。
それでも、ここだけが少しだけ違う。
エルドは銀貨を見る。
そしてミアを見る。
「足りないなら言え」
ミアは首を振る。
「もう、もらいすぎです」
エルドは少し間を置く。
「足りていない」
ミアは小さく笑う。
「でも、生きてます」
その言葉に、エルドは少しだけ目を細める。
(生きているのに、減っている)
リリアが呟く。
「矛盾していますね」
エルドは答えない。
ミアは空を見上げる。
「なんでだろう」
小さな声。
誰に向けたものでもない。
エルドは思う。
(これは市場ではない)
(生活でもない)
(“何か”が削っている)
ミアが最後に言う。
「でも、明日も来ます」
その言葉は強かった。
エルドは短く答える。
「来るならいい」
ミアは少しだけ笑う。
その笑顔は、昨日よりほんの少しだけ弱い。
エルドは視線を外す。
(近づいている)
だがそれが何に近づいているのかは、まだ分からない。
市場の喧騒の中で、ただ一つだけ確かなことがあった。
ミアの日常は、確実に“足りなくなっている”。




