第三話「少し足りない朝」
朝の市場は、昨日と変わらない顔をしていた。
人の声。焼けるパンの匂い。荷車の軋む音。
すべてが揃っているはずなのに、エルドにはそれが薄く感じられた。
「……またか」
小さく呟く。
隣のリリアが聞き返す。
「何がですか?」
「戻りきっていない」
「昨日の“流れ”ですか?」
エルドは首を振る。
「違う。これはもっと小さい」
市場の奥へ進むと、すぐにその場所は見えた。
パンの屋台。
そして三人の子ども。
ミア、リク、ルナ。
昨日と同じ場所。だが空気が違う。
ミアが先に気づいた。
「あ……おはようございます」
昨日より少しだけ声が小さい。
リクが続ける。
「また来た」
ルナは黙っている。
その目だけがエルドを見ていた。
エルドは短く言う。
「遅くはないだろう」
ミアは少しだけ笑う。
「いえ、ちょうどです」
だがその笑顔は、昨日より少しだけ遅れて出てきた。
エルドはすぐに気づく。
(間が、ある)
ほんの一瞬。
言葉と表情の間に、わずかな空白。
リリアが小声で言う。
「今日は何か違いますか?」
エルドは答えない。
代わりに視線をミアに向ける。
ミアはパンの数を並べている。
だが、その手つきがわずかに鈍い。
リクが言う。
「これ、昨日より少ない」
ミアはすぐに返す。
「そんなことないよ」
だが声が少しだけ硬い。
エルドは銀貨を取り出す。
ミアが反応する前に、テーブルに置く。
「足りない分だ」
ミアは慌てる。
「だめです、昨日も――」
エルドは遮る。
「昨日は関係ない」
ミアは少しだけ黙る。
そして小さく言う。
「……最近、よく足りなくなりますね」
その言葉には、笑いが混ざっていない。
リクが不満そうに言う。
「なんで?」
ミアはすぐに答えられない。
「……わからない」
その瞬間、エルドの視線が止まる。
(“わからない”)
それは市場の問題ではない言葉だった。
リリアが銀貨を見て言う。
「物価の変動ですか?」
エルドは首を振る。
「違う」
「では?」
エルドは少し間を置く。
「偏っている」
リリアは眉をひそめる。
「偏り?」
「誰かではなく、何かが」
その会話の横で、ミアはパンを分けている。
いつも通りの動作。
だが、ほんの少しだけ手が止まる瞬間が増えている。
リクが小さく言う。
「ねえ、今日さ」
「うん?」
ミアが答える。
リクは少し迷ってから言う。
「なんか、お腹すくの早い」
ミアの手が一瞬止まる。
そしてすぐに笑う。
「気のせいだよ」
だがその笑顔は、昨日よりも薄い。
エルドはその“薄さ”を見ていた。
(違う)
市場ではない。
流れでもない。
もっと近い場所で起きている。
ミアがふと顔を上げる。
「エルドさん」
「なんだ」
「最近、ここによく来ますね」
エルドは短く答える。
「必要だからだ」
ミアは少しだけ首を傾げる。
「何が、必要なんですか?」
エルドは答えない。
代わりに言う。
「お前たちがいる」
その言葉に、ミアは一瞬だけ固まる。
リクが横から笑う。
「やっぱり変な人」
ミアは小さくリクを叩く。
「失礼でしょ」
だがその声は、少しだけ柔らかい。
その時だった。
エルドの視界の端で、市場の音がわずかに“ずれる”。
金属の音。
足音。
声。
ほんの一瞬だけ、全部が遅れる。
エルドは止まる。
「……またか」
リリアが聞く。
「何がですか?」
「遅れている」
ミアが不安そうに聞く。
「何かありました?」
エルドは即答する。
「ない」
だがその目は、ミアを見ていた。
ミアは気づかない。
ただ少しだけ首を傾げる。
「……変ですね」
エルドは思う。
(これは市場ではない)
(ミアの周りで起きている)
リクがパンをかじる。
「今日のパン、ちょっと固い」
ミアがすぐに答える。
「昨日と同じだよ」
だがリクは首を振る。
「違う気がする」
その言葉に、ミアの笑顔が一瞬だけ止まる。
エルドはそれを見逃さない。
(止まった)
ミアはすぐに笑い直す。
「気のせいだよ」
だが、その言葉は自分に言っているようだった。
エルドは銀貨を見下ろす。
そしてミアを見る。
「足りないなら言え」
ミアは首を振る。
「これ以上は……」
少し間。
ミアは小さく言う。
「なんだか、最近変なんです」
エルドは聞く。
「何が」
ミアは答えられない。
「わからないです」
その瞬間、エルドは確信する。
(“わからない”が増えている)
市場ではない。
人でもない。
だが確実に、ミアの周囲が変わっている。
ミアが少しだけ笑う。
「でも、大丈夫です」
その言葉は、安心ではなく願いだった。
エルドは短く答える。
「そうか」
ミアは少しだけ安心したように笑う。
だがエルドは思う。
(これは、始まっている)
市場の音は戻っている。
人は動いている。
世界は正常に見える。
それでも、ひとつだけ確かに壊れていた。
ミアの日常は、ほんの少しだけ“足りなくなっていた”。




