第二話「手の届く距離」
朝の市場は、昨日と同じ顔をしていた。
人は動き、声は飛び、物は売れている。
ただエルドには、それが少しだけ薄く見えた。
「まだ残っているな」
リリアが隣で小さく聞き返す。
「何がですか?」
「昨日の“ずれ”だ」
リリアは眉をひそめる。
「また、その感覚ですか」
「感覚ではない」
エルドは歩きながら続ける。
「まだ繋がりが戻っていない」
市場の奥へ進むと、すぐにその“場所”が見えた。
パンの屋台。
そして三人の子ども。
ミア、リク、ルナ。
昨日と同じ場所に立っている。
ミアが先に気づいた。
「あ……」
小さく声が漏れる。
リクが横から言う。
「昨日の人だ」
ルナは黙っている。
ただ、少しだけエルドの方を見ていた。
エルドは短く言う。
「まだいたか」
ミアは慌てて頭を下げる。
「すみません、邪魔でしたか」
「違う」
即答だった。
ミアは少しだけ驚く。
リリアが小声で言う。
「慣れてきましたね、このやり取り」
エルドは返さない。
ミアはパンの数を見せる。
「今日は、少しだけ増えました」
リクが続ける。
「でも、まだ足りない」
エルドはそれを見る。
昨日よりは確かに多い。
だが三人で分けるには心許ない。
エルドは銀貨を取り出す。
ミアがすぐに手を伸ばしかけて止まる。
「……それは」
「昨日の続きだ」
銀貨はテーブルに置かれる。
ミアは困ったように笑う。
「続き、って……そんなものあるんですか?」
エルドは少し考えてから答える。
「あると思っている」
ミアは小さく息を吐く。
「変な人ですね、本当に」
リクがすぐに言う。
「うん、変」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩む。
ルナが小さく笑った。
それを見て、ミアもほんの少しだけ表情を崩す。
エルドはその変化を見ていた。
(……笑うのか)
その事実に、少しだけ目が止まる。
すぐに視線を逸らす。
ミアが気づく。
「どうかしました?」
エルドは即答する。
「何もない」
だが一拍遅れて付け足す。
「問題ない」
リリアが小さく呟く。
「今の、少しだけ見てましたよね」
エルドは返さない。
ミアは銀貨を見つめる。
「こんなに、いいんですか」
エルドは答える。
「使え」
ミアは少し迷う。
そして小さく言う。
「……ありがとうございます」
その言葉は、昨日より少しだけ柔らかかった。
エルドはそれを聞いて、なぜか一瞬だけ呼吸が遅れる。
リクが突然言う。
「ねえ、おじさんってさ」
エルドはすぐに返す。
「おじさんではない」
リクは笑う。
「じゃあ何?」
エルドは少し考える。
「エルドだ」
リクは満足そうに頷く。
「変なの」
ミアが軽くリクの頭を叩く。
「失礼でしょ」
だが声は優しい。
その様子を見て、エルドはまた少しだけ視線を外す。
(距離が近い)
物理的な距離ではない。
“空気の距離”だ。
その時だった。
市場の音が、ほんの一瞬だけ遠のいた。
誰も気づかない程度の揺れ。
だがエルドだけが止まる。
「……またか」
ミアが不安そうに聞く。
「今、何か」
エルドは短く答える。
「何もない」
だがその目は、遠くを見ていた。
リリアが小さく言う。
「それ、何もなくないですよね」
エルドは答えない。
ミアが少しだけ前に出る。
「本当に、大丈夫ですか?」
その距離が少しだけ近い。
一歩分。
エルドはそれに気づく。
視線が一瞬止まる。
そしてすぐに言う。
「問題ない」
その一言で距離は戻る。
ミアは少しだけ笑う。
「ならいいです」
エルドは思う。
(この距離は……危うい)
理由は分からない。
ただ、長く見てはいけない気がした。
ミアが最後に言う。
「また、来てくれますか?」
エルドは少しだけ間を置く。
「必要なら来る」
ミアは首を傾げる。
「それ、いつもですね」
エルドは答えない。
代わりに、短く言う。
「来る」
ミアは少しだけ安心したように笑う。
その笑顔を見て、エルドはまた視線を逸らす。
市場の喧騒に紛れながら、エルドは小さく呟く。
「……近いな」
だがそれが何を意味するのかは、まだ分からない。




