第一話「半分のパンと、壊れた流れ」
朝の市場は、いつも通りの顔をしていた。
人は歩き、声が飛び交い、パンの焼ける匂いが漂っている。
ただ、エルド・フォン・グランツには、その“いつも通り”が少しだけ歪んで見えていた。
「……遅いな」
小さく呟く。
隣を歩く少女が首を傾げた。
「何がですか?」
リリア。
帳簿と現場管理を任せている補佐官だ。
エルドは市場を見たまま答える。
「流れだ」
「流れ?」
「人と金の動きが、少しだけ引っかかっている」
リリアは少し黙ってから言う。
「また、その“感覚”ですか」
「感覚じゃない」
エルドは即答する。
「見えているだけだ」
市場の奥へ進むほど、その違和感は濃くなる。
取引は成立している。
物は動いている。
数字も合っている。
だが“勢い”がない。
まるで誰かが世界の歯車に、薄い布を挟んだような感覚だった。
リリアは小さく息を吐く。
「私には普通に見えます」
「それが問題だ」
エルドはそう言って、足を止めた。
その視線の先に、三人の子どもがいた。
姉、弟、妹。
古い服を着て、パンの前に立っている。
動いているのに、動けていないような背中。
ミアが小さく言った。
「……今日は、少し足りないね」
弟のリクがすぐに返す。
「昨日も足りなかった」
妹のルナは何も言わず、姉の服を握っている。
その手が、少しだけ震えていた。
エルドは、その光景を見ていた。
理屈ではなく、目が止まる。
「……」
気づけば、歩いていた。
リリアが後ろからついてくる。
「エルド様?」
エルドは短く言う。
「少し見てくる」
ミアは近づいてくる気配に気づき、顔を上げた。
「あ……」
一瞬、警戒と戸惑いが混ざる。
すぐに頭を下げた。
「すみません、邪魔していましたか」
エルドは首を振る。
「いや」
それだけで、ミアは少し安心したように息を吐いた。
エルドはパンを見る。
量は少ない。
三人で分ければ、確かに足りない。
「これで全部か」
ミアは頷く。
「はい。今日もこれだけしか……」
言いかけて、途中で止める。
言っても変わらないことを知っている声だった。
エルドは、腰の袋から銀貨を一枚取り出した。
テーブルに置く。
「追加だ」
ミアは目を見開く。
「え……そんな、だめです。多すぎます」
リクが横から覗き込む。
「これ、パンいっぱい買えるやつだよね」
エルドは淡々と言う。
「なら問題ない」
ミアは慌てる。
「でも、理由が……」
エルドは少しだけ間を置いて答える。
「理由は必要か?」
その一言で、ミアは黙った。
リリアが小声で呟く。
「……また、説明しないんですね」
エルドは返さない。
ただ、ミアを見ていた。
正確には“見てしまっていた”。
古い服の袖口。
細い指。
必死に落ち着こうとする呼吸。
その全部が、必要以上に目に入る。
(……近い)
そう思った瞬間、視線を一度だけ外した。
ミアはその沈黙を不安に取ったのか、小さく言う。
「迷惑でしたか?」
エルドは即答する。
「違う」
少し間を置く。
「気にするな」
それ以上は言わない。
リクが銀貨をじっと見ている。
「ねえ、これ本当にいいの?」
ミアは慌てて止めようとするが、エルドは先に言う。
「分ければいい」
リクは少し笑う。
「変な人」
エルドは小さく息を吐く。
「よく言われる」
そのやり取りを、リリアは静かに見ていた。
「エルド様」
「なんだ」
「こういうの、慣れてるんですか?」
エルドは少し考える。
「慣れてはいない」
「ではなぜ」
「止める理由がない」
その答えに、リリアは少しだけ目を細めた。
「……そういうところが、怖いですね」
エルドは否定しない。
その時だった。
市場の音が、一瞬だけ薄くなる。
消えたわけではない。
ただ、遠くなる。
ミアが小さく首を傾げる。
「今……」
リリアは何も気づいていない。
「どうしました?」
エルドだけが、静かに立ち止まっていた。
「……またか」
何かが切れている。
確かに。
目には見えない“流れ”が、細く途切れている。
エルドはゆっくりと周囲を見渡す。
人は動いている。
世界は止まっていない。
それでも、どこかだけがズレている。
ミアが不安そうに聞く。
「大丈夫、ですか?」
エルドは短く答える。
「問題ない」
その言葉は、自分にも言い聞かせるようだった。
しばらくして、エルドは銀貨をもう一度見た。
そしてミアを見る。
「足りないなら言え」
ミアは小さく首を振る。
「これ以上は、もらえません」
エルドは少しだけ黙る。
「そうか」
その声に、ミアはなぜか少しだけ安心したように笑った。
「……また、来ますか?」
エルドは即答する。
「必要なら」
少し間を置いて、付け足す。
「必要がなくても来るかもしれない」
ミアはその言葉に、ほんの少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「変な人ですね」
リクがすぐに続ける。
「うん、変な人」
ルナも小さく頷く。
エルドは一度だけ視線を逸らす。
その“笑顔”が、少しだけ眩しく感じた。
理由は分からない。
ただ、長く見てはいけない気がした。
市場の喧騒が戻る。
何事もなかったように。
だがエルドだけは理解していた。
“何かは確実に壊れ始めている”
歩き出しながら、エルドは小さく呟く。
「流れが、戻っていない」
そしてもう一度だけ、振り返る。
ミアはまだそこにいた。
その光景を見て、エルドは静かに思う。
(これは……まだ終わっていない)




