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コトノハを奏でて  作者: 氷河期のやもめ
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8/10

夕焼けとオムライス②

 一通り使い方を教わると、あたしは仕込みの手伝いに回るため、厨房へと入った。


 ひなたはそのまま、ひとりカウンターに残る。玉ねぎの皮を剥きながら、あたしは時折、横目でその様子を盗み見る。


 ノートパソコンの画面に向き合うその姿は、さっきまでの彼女とは少し違っていた。


 画面に目を落としたまま、ふと息を呑むように瞬きをしたかと思えば、わずかに口元が緩む。かと思えば、どこか遠くを見るように、静かに目を細める。


 表情が、こんなにも動くんだ。


 あたしの知らないひなたが、そこにいた。


(……ほんとに、小説好きなんだなぁ)


 その姿に、少しだけ見入ってしまう。あたしも読んでみようかな、と一瞬だけ考えて――


(いや、無理だわ)


 頭の中にびっしり並ぶ文字の列を想像した瞬間、即座に諦めた。剥いた玉ねぎを並べながら、あたしは小さく肩をすくめる。


 ふと、コンロのほうから良い香りが漂ってきた。今日のおすすめメニューで出す予定のクリームシチューだ。


 野菜の甘みと、クローブのスパイシーな香り。布濾しベシャメルソースの、滑らかな舌触り。一度食べたら、もう市販のルーでは満足できなくなる。


 想像しただけで、思わず唾を飲み込んだ。あとで絶対味見しよう。そんなことを思いながら、あたしはまた、ひなたのほうへ視線を向けた。すると彼女もまた、香りのする方へと、そっと目を向けていた。


 いくら小説が好きでも、人間の本能には逆らえないよね――そんなふうに、少しだけ微笑ましく思う。けれど、次の瞬間。


 彼女の頬を、一筋の涙が静かに伝った。


 あたしは思わず手を止める。


(え……?)


 そんなに、感動するような話でも読んでるのか。そう思った次の瞬間には、もう彼女は画面に視線を戻していた。何かを確かめるように、何度も読み返すように。


 その口元が、かすかに動く。声にはならない、言葉のかたちだけが、そこにあった。


「何ぼーっとしてんだ」


 パパの声が、背後から飛んできた。


 はっとして、あたしは手を動かす。包丁の感触が、少しだけ鈍く感じた。もう一度だけ、ひなたのほうを見る。彼女は、今気づいたようにそっと涙を拭って、何事もなかったかのように、画面に目を落としていた。


 まるで――そこが、自分の居場所であるかのように。


(……なんだったんだろ、今の)


 ひなたの見ていたほうを、なんとなく辿る。その先にあったのは、パパの背中だった。鍋をかき混ぜる、いつも通りの後ろ姿。けれど、その視線には気づいていないようだった。


 その後は、特に変わった様子もなく。あたしは任された作業を終わらせた。

毎週木曜日投稿予定です

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