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コトノハを奏でて  作者: 氷河期のやもめ
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ジンジャエールとリンゴジュース①

 職員室は、相変わらず独特の空気が漂っていた。コーヒーとインクとチョークの匂いが入り混じった、あの感じ。何度来ても慣れない。


「座れ」


 言われるまま椅子に腰を下ろすと、デスク前に座った大塚先生が、肘をつきながら半身になり、片方の目だけをキッと光らせてきた。数多の問題児を指導してきたという噂は伊達じゃない。


「で、今日の遅刻の理由は何だ?」


「え、あー……その……」


 言葉を選ぼうとして、つい目が泳ぐ。先生の目つきがギュッと鋭くなる。


「ん?」


 やばい。あたしの中の“うっかりミズキ”が警報を鳴らす。


「……じ、自転車がパンクしまして……」


 ほぼ反射的に出た言葉。ウソではない。パンクしてたのは事実だ。あたしのじゃないけど。


「ほう」


 先生は机の上で軽く手を組んだ。そしてにやりともせずに言った。


「じゃあ、今からお前の自転車を見に行ってもいいか?」


「えっ、それは……その、ちょっと……」


 はい詰んだー、あたしってほんとバカ。


「どうなんだ?」


 刑事が尋問するように、先生が膝をパンと叩く。その音がやけに職員室中に響いた気がした。ここで下手にウソを重ねると火に油だ。あたしは悟り、観念して口を割った。


「実は、その……朝、パンクしてたのは……あたしじゃなくて、野球部の奥谷くんで……。遅刻したら部活辞めさせられちゃうって……それで、自転車を貸してあげたんです。だから、あたしは徒歩で……」


 言い終える頃には、先生はもう呆れ顔を隠しきれていなかった。ふぅ、と盛大にため息をついてから、頭をかくようにして言った。


「はぁ、ったく……何やってんだお前は」


 その声に怒気はなかったけれど、諦めにも似た情のようなものが混じっていた。


「人助けは結構だがな、お前の信用を削ってまでやることじゃない。それは相手のためにもならん」


 ぐうの音も出ない正論、その通りでございますとあたしは首をすぼめて頷いた。


 その後結局、奥谷くんも呼び出されあたしと共に厳重注意を受けた。幸い彼の親には何も言わないということで、ちょっとだけ安堵した。あたしは、今回だけは大目に見てやるということで、親の呼び出しは免れた。……後日、反省文を書いてくるという条件付きで。




「あー、やってらんなーい……あの先生さぁ、目力だけで人間縫えそうじゃない? 絶対前世、拳法の達人だったよ……」


 校門から続く下り坂を自転車で駆け下りながら、あたしは愚痴を向かい風に乗せて放つ。誰に聞かせるでもないけど、吐き出せば少しはスッキリする。嫌なことがあったときの、あたしなりのいつもの儀式だ。


 向かう先は自宅……じゃなくて、いつもの場所。住宅街の外れ、細い路地の奥にある小さな洋食レストラン――Canonカノン


 パパが数年前に始めた、二十席程度のこじんまりとした店だ。厨房と客席のあいだに大きな仕切りがなくて、調理風景が丸見えってのがウリ。ついでに、あたしの大事なお小遣いの稼ぎ場所でもある。


 今日は営業時間前の仕込みだけ頼まれていた。玉ねぎのみじん切りか、キャベツの千切りか……まあ、何回もやれば誰でもできる、特別難しいことじゃないけれど。


 木目調の取っ手を引いてドアを開けると、アンティーク風のベルが軽やかに鳴った。


「ただいまー」


 厨房の向こうで、ガスの火が一瞬揺らぎ、ふっと湯気が立ちのぼる。間もなく、パパが布巾で手を拭きながら顔を出した。


「ああ、おかえ、り……」


 語尾が妙に間延びする。眉がぴくりと動いたのが見えて、なんか変だぞと直感した。


「今日は仕込みだけでいいんだよね? 何? どうかした?」


 厨房から出てきたパパが、少し身を乗り出してこちらに近づいてくる。あたしが首をかしげると、布巾を持った手であたしの背後を示した。


「そうだけど……その、後ろの子は友達か?」


「はぁ?」


 背後に誰かいる? あたしはぎこちなく振り向いた。


 ――いた。あの子が。


 校舎裏の空き地に佇んでいた、あの黒髪の少女。冷たい余韻を残していった彼女が、今この店の入り口に立っていた。


「え? な、ななな何で!?」


 思わず声が裏返る。視線も思考もフリーズ。金縛りにかかったみたいに、また動けなくなる。


 彼女は一瞥だけあたしにくれたあと、静かにパパの方へ向き直り、小さく会釈をした。その仕草は、少しぎこちなく見えたけど、それでも丁寧だった。


 パパも最初は困惑していたが、彼女が手にしている白表紙の本に目を留めると、ふと表情を変えた。


「それは……」


 まるで、遠い夢のかけらに触れたような顔。


「君、懐かしいものを持ってるね」


 その顔には、あたしの知る“シェフ”でも、“パパ”でもない、どこか柔らかくて遠い色が浮かんでいた。驚きと喜び、そして少しの切なさ。


「もしかして、妻のファンかな? それとも……」


 パパがそう尋ねる間も、彼女はうつむいたまま本を見つめていた。言葉を探しているようにも、迷っているようにも見えた。


「まあ、ここで立ち話もなんだし。こっちへおいで」


 パパはカウンター席の真ん中の椅子を引いて、優しく手で示す。彼女は一瞬だけ戸惑ったけれど、パパのあの“接客スマイル”に何かを感じたのか、小さく「おじゃまします」と言って足を踏み入れた。


 あたしの横をすっと通り過ぎていく。そのときようやく、体の金縛りが解けた。あたしも遅れて、その後を追った。

毎週木曜日投稿予定です

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