本と少女③
さて、と。教室で食べると絶対ハルナに「一口ちょーだい」って言われるの分かってるからなあ、このパンはひとりでじっくり味わいたい。
あたしはどこか静かな場所探すことにした。ついでに、飲み物も買ってこよう。そう思って、階段の踊り場にさしかかったときだった。
ふと何気なく、窓の外に目をやる。風に押し出された雲の影が、校舎の裏をゆっくりと横切っていた。その片隅、誰もいないはずの空き地に、ひとりの女生徒が佇んでいた。
長い黒髪が、風に揺れていた。それがなぜか妙に気になった。
別に知り合いでもなんでもない。ただ、あの佇まいがちょっと普通じゃなかった。呼び止めるほどの理由はないけれど、見過ごしてしまうには、何かが引っかかった。
気づけばあたしは、3分の1ほど残ったメンチパンを片手に校舎を降りていた。口にくわえたまま、階段を駆け下り、ぐるりと校舎裏に回り込む。
でも、そこにはもう誰もいなかった。
午後の光がまばらに届くその場所には、小さな石がいくつも、ぽつぽつと積み上げられていた。それは墓石のようにも、子どもの遊びの跡のようにも見えた。
「うーん……アートか、なんかか?」
つい、そんなひとりごとが口をついた。味の付いてない最後のパンの端を口に入れ、指についたソースをぺろりと舐める。
そしてふと振り返り視線を移したその先、校舎の影に一冊の文庫本が落ちているのを見つけた。近づいて拾い上げてみると、白地の表紙に小さくタイトルだけが書いてあった。
――『若草奇譚』。
(小説だ……落し物かな。さっきの子の?)
ページに折り目ひとつなく、カバーすらかかっていないその本は、誰かの大切なものに見えた。さっきの子が持っていたものだとしたら、やっぱり何か事情があるんじゃないかって思った。
制服のリボンの色をちらりと見た気がする。たしか、あたしと同じ一年生のやつだった。髪が長くて、雰囲気はちょっと――いや、だいぶ静かそうだった。
名前も知らない。クラスも分からない。けれど、なんとなく、このまま放っておくのはイヤだった。
あたしは本をそっと胸に抱えた。もう一度、校舎に戻ってみよう、そう思った。昼休みの残り時間で、手がかりがつかめるかもしれない。とりあえず、あたしは一年生の全クラスをまわった。教室をひとつずつ覗き、できるだけ自然なふりをして中を見回した。けれど、あの子はいなかった。
昼休みは終わり、授業が始まった。教室に戻ったあたしは、机の中にそっと文庫本をしまい込む。放課後になったら、もう一度あの場所に行ってみよう。もしかしたら、あの子が本を探しに来るかもしれない。根拠なんてないけれど、そんな気がした。
ホームルームが終わると同時に、あたしはもう一度、校舎の裏へと向かった。
生活指導の先生から「放課後、職員室に来いよ」と呼び出しを受けていたので、あまり時間をかけていられない。でも、どうしても、あの子に会えたらと思った。もし居なかったら、本だけでも戻しておこう。なんだか、この場所にあの本が残ってるのが、いちばん自然な気がしたから。
昼休みと変わらない、人気のない空き地だった。陽が少し傾いて、石の影が長く伸びていた。風が止んで、空気は湿り気を帯びている。
「……うーん、やっぱりいないか」
ぽつんと積まれた石たちが、まるで行き場を無くしたかのように並んでいる。その形には規則性も意味も感じられないけれど、なんとなく、人の手で丁寧に置かれたように思えた。
「マジでなんなんだろね、これ」
あごに指を当ててしばし眺めるも、分かるはずもなくて、結局ため息まじりに肩を落とす。
そしてふと、胸に抱えていた文庫本を持ち上げた。白地の表紙に『若草奇譚』の文字。小説なんて普段は読まないのに、その題名だけは、なぜか懐かしさを呼び起こした。
(……あれ?)
遠い昔――まだ小さかった頃。
ママの書斎の棚で、同じ題名を見た気がする。表紙は記憶にない。ただ、背のあたりにこの名前が、淡く印刷されていたのを思い出した。
あたしはそっと、本のいちばん最後のページをめくった。そして、目を見開いた。
著者:都築 真唯子
(やっぱり……ママのだ)
今は結婚して名字が変わったけど、たしかにこれ、昔出版したことがあるって言ってた小説だった。読んだことはない。読む気もなかったけど、なんとなく――“読まなくてもいい”と言っていた母の声だけは、記憶の隅に残っていた。
「……って、えっ?」
その時だった。背後に、ふっと風のような気配が走った。
「うわあっ! びっくりしたぁ!」
慌てて振り返ると、そこに立っていたのは――間違いなかった。昼休みに窓から見かけた、あの少女。長い黒髪が、ほとんど風もないのにふわりと揺れていた。真っ白な顔に、感情の読めないまなざし。
「い、いるなら声かけてよー……」
なんとか明るく声をかけたけど、少女は何も言わず、あたしの手元に視線を落とした。
「あ、これね。そこに落ちてたよ。忘れ物かなって思って、あなたのこと探してたんだ。はい」
そう言ってあたしが本を差し出すと、彼女はためらいがちに受け取った。
でも、小さくこもったようにありがとうと言いかけた彼女の声に、あたしはかぶせてしまった。
「てか、ここで何してたの?」
その瞬間、少女の目がすっと細くなった。表情がわずかに、硬くなった気がした。
「あっ、ごめん、気に障った? いや、なんかその、石が……気になって……」
取り繕うように言葉を重ねたけれど、空気はしんと重たくなっていた。少女はうつむいたまま答えず、まるで何かを飲み込んでいるようだった。
この空き地の空気が、急に冷えてきたように感じた。石たちは墓標のように無言で並び、彼女の白い顔は、生気が薄れているようにも見える。
(この子……人だよね? 生きてるよね?)
背筋に冷たいものが走る。金縛りのように動けない。心の中で”ヤバい”と”どうする”がループしている。
けれどその時、救いのように校内放送が鳴った。
「一年二組、織付ミズキさん。職員室の大塚のところまで来てください」
野太い声が魔法のように金縛りを解き、あたしを現実に引き戻した。背筋にようやく力が入る。
「うわっ、やば。……じゃあ、あたし行くわ。変なこと聞いてごめんね」
そう言ってその場を離れかけたところで、あっと思い出したように、足を止めて振り返った。
「その本――それ、あたしのママが書いたんだ、ずっと前に。その……読んでくれて、ありがとね」
あたしはそれだけを伝えて、今度こそ校舎の中へ駆け戻った。後ろを振り返ることはしなかった。
けれど、なぜだろう。
あの少女の姿が、まぶたの裏に静かに焼きついて、いつまでも消えなかった。
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