陽和と朋紀(後編/老婆と高級茶葉の謎)
夜明けを告げる鳥の声が、窓の向こうから聞こえ、陽和はのろりと目を開けると、できるだけ音をたてないように寝台から抜け出した。床に脱ぎ散らかしたはずの衣類は、綺麗にたたまれ籐細工の箱に収められている。娼女には最低でも二人の側仕えがおり、娼女の身の回りの世話をしているのだ。
「そういえば、最中に誰かいたような……」
寝台には天井から垂れ布が下がっており、それで寝台をぐるりと囲んでいる。垂れ布を通して見ると、周囲がぼやけてとても見えにくいのだ。だから誰かがこっそり入ってきても、そうすぐには気がつかない。外側から中を見た時も同様で、ぼんやりと人の形が見えるだけだった。
「若様、もうお帰りですの?」
最後の帯を締めたところで、艶めいた色香を含んだ、しかもどことなく恨めしげな声がした。陽和は寝台に近づき垂れ布を押し上げると、豊かな胸を隠そうとせず、とろんとした目で自分を見上げている瑠杏の、流れるような艶やかな黒髪に指を絡め恭しげにそこへ口付けた。
「野暮な朝告げ鳥が鳴いたから、残念だけどもう帰らなくちゃ」
「あの鳥は、本当に憎らしい……。若様、お見送りはいたしませんよ。まだ眠いし、それに体のあちらこちらが痛いんだもの。んもう、若様のせいですよ。あんなに激しくするから」
うふふと笑って、瑠杏は陽和の手を取る。
「構わないよ、そのまま寝ていればいい」
「そうしますわ。あ、ねぇ若様。また来てくださる? わたくしのこと、忘れたりしませんわよね?」
「昨夜のあれでは、忘れようにも忘れられないよ。きっとすぐに、貴女に会いに来たくなる」
とても素晴らしい夜だったからね――と、陽和は囁くようにそう言って、紅の落ちた瑠杏の唇に己が唇を重ねた。彼の言葉に満足したのが、瑠杏は嬉しそうに笑って、きっとですよと陽和の指先をきゅっと握った。
彩春楼を出て、朝靄のかかる花町の中を、陽和と朋紀は並んで大門へ向かって歩いていく。ちらりと隣の朋紀の顔を見れば、どこかぽややんとして、心ここに在らずといった感じだ。
これはそうとう良い夜を過ごしたようだ――と、陽和はあの楼にして、本当に良かったとこっそり笑みを浮かべた。
「さて、と。お腹が空いたね。朝餉を食べてから帰ろうか?」
ぽんぽんと朋紀の肩を叩き陽和は、長兄から教えてもらった美味い朝餉を出す飯屋へと向かう。大門から出て、道を少し行った右手にある橋を渡り真っ直ぐ進み、最初の角を左に折れた所にあるその飯屋は、小汚い店ではあるが、まだ早い時間だというのに、店内は客でいっぱいで満席に近い状況だった。殆どの客が陽和達のように、花町帰りだと思われる。
「いらっしゃい。奥が空いてるよ」
若かりし頃は、もしかしたら美人だったかもしれない店の老婆が、陽和達をちらりと見て、長細い店内の奥の方に向かって顎をしゃくった。素直にそれに従う。店内の広さと比べて、座席の間がかなり狭い。並べられるだけ、座席を並べたのだろう。だがそれだけここが、人気があるという証拠だ。
二人掛けの席につくと、品書きが書かれた板を探す。が、卓子の上にも、店内の壁にも、それらしき物がない。それに周囲を見てみれば、皆、同じものを食している。
「若様、ここでは出されるものが決まっているみたいですね?」
「そうみたいだ」
先ほどの老婆が、湯飲みを持って二人の席にやってきた。
「坊ちゃん達、見慣れない顔だねぇ。ここは初めてかい?」
頷いた二人に老婆は、「ここじゃ朝は、決まった物しかださないんだよ」と言った。追加できるのは、今日は卵焼きだけだということも。陽和は二人分の朝餉と卵焼きを一皿頼むと、下がっていく老婆の後ろ姿を見ながら、出されたお茶を一口啜った。
「え?」
まろやかな舌触りのそれは、このような小汚い飯屋で出せるような物ではなく、富裕層でなくば飲めない代物だ。驚いて何度も瞬きをする陽和の向かいで、朋紀が「ありえない」と首を左右に振った。
「朋紀、お前も気がついた?」
「ええ。これは……」
「胡家の、だね?」
「はい」
随分と薄めて出しているが、飲み慣れたそれを陽和達が間違えるはずもなく、彼の実家で扱っている高級茶葉に間違いない。もしかしたら店の者の中に、茶葉の横流しをしている者がいるのでは?――と、二人の脳裏に嫌な考えが浮かび、揃って眉根をきつく寄せる。
「帰ったら、兄上に訊いてみよう」
「もしかしたら若様に確かめてもらいたくて、この店を教えてくださったのかもしれませんね」
胡家の三兄弟の中で、味と香りに一番確かで敏感なのが陽和なのである。
「そうかもしれない」
きゅっと唇を真一文字に結び、強張った表情で頷いたところで、老婆が盆に二人分の朝餉を乗せて戻ってきた。ほかほかと湯気のたつ山盛りの雑穀米に、根菜等がたっぷり入った汁。焼き魚の切り身には、白根をすりおろした物が添えられており、二人のちょうど真ん中に、黄金色の卵焼きが乗った皿が置かれた。ちなみに代金は料理が全て揃ったら、その場で払う仕組みになっている。
「じゃあ、いただこうか」
「はい」
暫くの間、二人は食事に集中した。素材そのものの旨みが充分引き出されており、手の込んだ料理とはまた違った美味さがある。お茶の件はともかく、長兄がこの店の朝餉を食べてくるよう薦めたのは、本当に料理が美味いからかもと陽和は思った。
「美味しいですね若様」
「うん。家の料理人が作るのとは、一味も二味も違う気がする。何でだろう?」
最後の一切れを頬張って、陽和は途切れることなく客が入ってくる店内を眺めた。男ばかりの店内であるが、年代も様々であるように身分も様々であった。どうやら陽和達が、この中では一番年下のようだ。
食後にもう一杯茶をもらい、それを飲み干してから席を立つ。暖簾をくぐって外へと出る二人の背中に、老婆の「またいらっしゃいな、胡家の坊ちゃん」と、笑いを含んだ声がした。
振り返った陽和の目に、笑ってひらひらと右手をふる老婆の姿が見え、自分の正体を知っていることに驚いた。
「若様、あの老婆は一体……」
「俺にもわからん。とにかく家に帰り、粛生兄上に訊くしかない」
辻馬車を拾い、胡茶館まで急がせる。王都でも一等地と言われている地区にある陽和の家では、下働きの小僧が店の前の通りの掃除を始めていた。裏口に馬車を着けさせると、代金を払い家の中へと入る。
「やあ、お帰り二人とも」
身支度を整えた長兄の粛生と、階段の下で顔を合わせたので、陽和はちょうど良かったと、飯屋の茶と老婆のことを訊ねた。
「ああ、あのばーさんか。あれは曽祖父さんの妾だった女だよ。自分だけを愛してくれる男と巡り会ったから、その男と一緒になりたいので妾を辞めさせてくれって言って、曽祖父さんと正妻の前で土下座したんだと」
この界隈じゃ、今でも知られている話だよ――と、粛生は肩を竦めた。
「じゃあ、お茶は? あれは胡茶館でしか扱っていない、二等級の茶葉ですよね?」
「気がついたか?」
「香泉茶……ですよね? あれ」
「ああ。さすがは我が胡家きっての舌の持ち主だ」
「朋紀も気がつきましたよ?」
「そりゃそうだ。朋紀はお前と一緒に、祖父さんに味を叩き込まれたからな」
カラカラと陽気な笑い声をたて、粛生は陽和の頭をわしゃわしゃと撫でくり回した。
「曽祖父さんの遺言で、あのばーさんが死ぬまでは、香泉茶を売値の三分の一で売らなきゃいけないんだよ」
「さ、三分の一ですって!?」
茶葉の等級は十段階に分けられ、さらにそれ等を大きく三つに分けてる。どう決めるのかと言うと、年に一度茶葉の品評会が行われ、その時等級と同時に価格が決められるのだ。
特選・一等・二等が高級茶葉と呼ばれており、買っていくのは貴族が大半であった。香泉茶は二等級茶葉であるが、その中でも一番値の高い茶葉である。
「仕入れ値でないのが救いですね」
「まったくだ」
とんでもない遺言を残してくれた――と、陽和は溜息をつき頭を振った。
「どうせ手切れ金をたんまり貰ったんでしょう? それなのに茶葉の売値まで……」
「あ、それは違うぞ。ばーさん、手切れ金を頑として受け取ろうとしなかったんだと。自分が裏切ったからって。それまで曽祖父さんに買ってもらった物で、充分だって言ってさ。でも、曽祖父さんとしては、受け取って貰いたかったから、無理矢理に受け取らせようとしたんだと。けどばーさんは、泣いてそれを拒否した。そこで視点を変えて、曽祖父さんはばーさんに、何かして欲しい事はあるかって訊いた。そうしたら男と二人で店を始めるつもりだから、そこで出すお茶は胡茶館のを使いたい――って言い出して、自分の一番好きな香泉茶を、曽祖父さんが生きている間だけでよいから、割安で売って欲しいって頼んだんだと」
自分が生きている間だけでいいと彼女は言ったが、それでは納得できず、陽和の祖父は彼女が死ぬまでと期限を定め、香泉茶を売値の三分の一で売るようにと遺言書に書き残したのだ。
「曽祖父の元妾、か……だから俺のこと、あの老婆は知ってたわけだ」
ぽつりと呟いたそれに、粛生がにやりと口端を上げる。
「あのばーさんが言うには、お前が一番曽祖父さんに似てるんだと。だから時々、ばーさん自ら茶葉を買いに来るんだぜ。お前のこと、こっそりと見るために」
なんだかんだ言いつつも、あのばーさんは曽祖父さんが今でも好きなんだよ――そう言って、粛生はバンバンと陽和の背中を叩いた。
「それでは何故、他の男と一緒に?」
「ん? そりゃあ妾なんて不安定な立場より、正妻の方がいいからに決まってるだろ? 愛するより、愛されたいんだよ。曽祖父さん、妾が五人いたんだ。本人曰く、皆、それぞれ大事だったみたいだけど、そんなもんは男の独り善がりであって、囲われる方は自分が一番じゃなきゃ嫌なんだよ。で、ばーさんもそのクチで、だけど愛した男は自分を一番に愛してくれない。皆を平等に扱う。堪ったもんじゃないよな。そこに自分だけを見てくれる男が現れた。揺れるだろ、心がさ。男は料理屋の板前で、ばーさんの幼馴染で、しかも初恋の相手だった。燃えるだろ、そういうの。運命の再会――とかってさ。で、熱心に口説かれて、ばーさんは男と一緒になることに決めたってわけだ」
「はあ……確かにそうですね」
「まぁそのお陰で楼帰りの男達は、美味い飯が食べられるんだけどな」
「確かに、美味しかったです」
頷く陽和に粛生は「だろ?」と言って破顔した。今度は樹伊と三人で行くか?――と耳もとで囁き、店を開ける準備をしに行ってしまった。
「はぁ~何だか凄い縁ですねぇ」
「そうだね」
少し眠るからと、陽和は私室へと引っ込む。ふと鏡に映った己が顔を見て、陽和が生まれる随分前に鬼籍に入った曽祖父のことを思った。
「そんなに似ているのかな?」
後で父に訊いてみよう――と、そう心に決めて、陽和は柔らかな寝心地の寝台へと潜り込む。そろりと目蓋を閉じれば、瑠杏の柔らかく艶のある声音が耳奥に蘇り、あやうく一点に熱が集まりそうになって焦って目を開けた。深呼吸を二回繰り返し、落ち着け自分と言い聞かせる。が、そこで先ほど粛生が囁いた言葉を思い出し、陽和はおもわず顔を顰めた。
「兄上は、どちらの事を言ったんだろう?」
楼か?
老婆の店か?
その両方か?
「どちらにしても、兄弟揃って楼に行くのは勘弁だな」
彩春楼にはまた行くつもりだが、それは兄達と一緒ではない。どちらかの兄に、瑠杏を先に指名されたら嫌だからだ。
「だけどあの店には、一緒に行ってもいいな」
三人揃って行ったら、あの老婆はどんな顔をするだろうか?――そんな事を思いながら再び目を瞑る。すぐに眠気がやってきて、またあの卵焼きが食べたいなぁと呟いたのを最後に、陽和の意識は完全に眠りの淵へと落っこちた。
飯屋の老婆の楽しみは、元愛人(陽和の曽祖父)に陽和が、どこまで似てくるかを確かめに行くことだったりします。




