運命の相手(前編)
結婚は愛がないといかんよね。
「え?」
一瞬、夫――ボージェ侯爵ドミニク=オービニエの言葉が理解できず、わたくしは首をかしげてしまった。そんなわたくしを見て、夫は大仰に溜息をつき、もう一度同じ事を言った。
「私には愛する女性がいる。フルール、貴女を私の妻……侯爵夫人として遇すが、ただそれだけだ」
妻としての役割を、貴女には求めていない――夫はそうハッキリとわたくしに言ったのだ。
わたくし達は政略結婚で、想い想われてのそれではない。
だから最初から、恋愛結婚のような甘い展開は期待していなかった。
けれど神の御前で夫婦となる誓いを立てたその夜に、この仕打ちはありえないと思う。
少なくともわたくしの方は夫に対し、特別な感情がなかったわけではないのだから………。
「ですが、子供は……」
「言っただろう。侯爵夫人として遇するだけだと。子供の心配を、貴女がする必要はない。デボラが生んだ子を、私達の子供として公表すればいいのだから」
その言葉を聞いた瞬間わたくしは、着ていた純白の真新しい夜着をぎゅっと握り、強く両目を瞑ってしまった。最初から夫はわたくしを名ばかりの妻とし、愛人と幸せな家庭を持つつもりだったのだ。
おかしいとは思っていた。
伯爵家といっても実家は没落寸前で、そんな家の娘であるわたくしを妻にと望むなんて……酔狂としか言いようがないのだから。
「好きなことをしてくれて構わない。欲しい物は何でも買うといい。今まで欲しくても、経済的な理由で買えなかった物が沢山あるのだろう? 好きなだけ買いたまえ。だが、それは常識の範囲内で、だ。忘れてくれるな。貴女はボージェ侯爵夫人なのだ。この地位を手に入れたかった女性は、貴女が思うよりも数多いたのだよ。彼女らは貴女のちょっとした失敗も、それはもう面白おかしく大げさに吹聴するだろう。貴女一人が笑い者になるのはいいが、結果として我が侯爵家の評判をも落としかねないからね。重々気をつけてくれたまえ」
侯爵夫人?――そんなものに、なりたかったわけではない。
欲しい物?――確かに、我慢した物が沢山あったけれど、でもそれは無くてもどうにかなるような、そんな物ばかりだったわ。
わたくしはわたくしの両親のように、例え政略結婚でも、爵位が低くとも、互いを理解し尊重し合う夫婦になりたかった。贅沢がしたかったわけじゃない。
俯き、唇を噛むわたくしを夫は気に留めることなく、スッと椅子から立ち上がると扉の方へ身体を反転させた。が、そこでふと何かを思い出したかのように、顔だけを少しこちらへと向ける。
「言っておくが、私は貴女の閨の相手をする気はない。だから愛人を作っても構わない。が、くれぐれも子供だけはできないようにしてくれたまえ。自分の子でもない者を、この家の子供にするわけにはいかないからね」
これでもう話すことは無いとばかりに、夫はさっさと部屋(夫婦の寝室)から出て行ってしまった。おそらく愛人の所へ行くのだろう。デボラと言っていたけれど、どんな女性なのだろうか? そんなに好きなのであれば、彼女を妻にすれば良かったものを……家格の問題があったとしても、つり合う家の養女にすれば問題はないのだから。
眠る気にもなれず、長椅子に腰を下ろすと、白い夜着が酷く滑稽に思えた。
自嘲気味に笑うと、ぽろりと涙が零れ落ちる。
ぽろぽろと、それは次から次へ落ち、いつしかわたくしは膝を抱え、声を殺して泣いていた。
わたくしの想いは、表に出ることなく微塵に散ったのだ。
「バカみたい……」
こんな思いをするくらいなら、遠くから眺めているだけで良かった。彼の恋人や妻になりたいと、夢見ていた頃の自分に戻れるものなら戻りたかった。
「これでは道化じゃないの」
花嫁衣裳や嫁入り道具を選ぶのは楽しく、とても幸せな気分だったのに、いざ婚儀を挙げたら幸せは全て無くなってしまった。きっと、この屋敷の者達は皆、主に愛する人がいることを知っているのだろう……よくよく思い出してみれば、わたくしに向ける目は、どこか哀れみを含んでいたように見えた。
「お飾りの妻だとしても、わたくしはここで生きていくしかないのよね……」
実家には多額の借金があり、彼がそれらを全て清算してくれたから、わたくしは彼に買われたようなものなのだ。
だからわたくしは、わたくしに与えられた役割を果たす義務がある。
愛されようなどと思うこと事態が、始めから間違っていたのだ。思い上がりもいいところだ。
「ん、がんばろう」
己を叱咤するように、ポンポンと心臓の辺りを叩き、わたくしは眠るために一人寝台へと上がった。
**********
侯爵夫人として、そつなく日々を過ごして四年が経った。
夫とは公的な場所では仲睦まじい夫婦を演じ、屋敷では滅多に顔を合わせることはない。
彼はデボラに与えた屋敷の方で暮らしており、必要な時にだけこちらへ帰ってくる――そんな生活を送っている。いっそ彼女を、こちらへ住まわせればいいものを……何故か彼はそれをしなかった。
この頃になるとわたくしも、ある程度は彼女について知ることができた。デボラは彼が懇意にしている仕立て屋の、数多いるお針子の一人だった。特に美人というわけではなく、どこにでもいるような平凡な顔立ちをしており、性格は大人しく、ふんわりとした柔らかな雰囲気の女性だそうだ。
そして彼女は今、その身に新しい命を宿している。もちろん夫の子だ。その事を知った時、わたくしの中で何かが壊れたような気がした。いつかはくると覚悟はしていたけれど、いざそれが現実のものとなると、いくら省みられることは無いと分かっていても、わたくしの心は嵐のように荒れ狂った。
愚かだと、自分でも思う。
他の女を愛している男を、いつまでの想っているのなど、愚かなことでしかないと………。
けれどわたくしが、いつまでも彼への想いを吹っ切れないのは、夫のわたくしへの態度のせいでもある。
周囲の目がある場所では、夫はとても優しく、心からわたくしを大切にしている――というような態度なのだ。それは「もしかして愛されているのではないだろうか?」と錯覚させるほどで……そのせいでわたくしは、いつまでも彼への想いを消すことができないでいた。
仲睦まじい夫婦。
妻想いの優しい夫。
そう周囲に思わせているせいで、わたくしは彼の居ない所で、貴婦人や令嬢方から嫌がらせを受けている。
彼はきっと、それを知らないだろう。
いや、そうじゃない。
知っているけれど、見て見ぬふりをしているのだ。
何故なら彼は、わたくしに関心がないから。
わたくしが何を言われようとも、何をされようとも気にならないのだ。
いつまで経ってもわたくし達の間に子供ができないことを、彼の親族に彼の居ない所でわたくしが酷く責められ、財産目当ての石女と罵られていようとも―――。
「いい加減、わたくしも腹を括らなくては……」
離縁するには、充分の年月が過ぎた。わたくし達は清いままであり、それは充分離縁の理由にできる。聖教会で決められた白い結婚は、三年までなのだから。
「わたくしは、充分役割を果たしてきたわよね? もう、いいわよね?」
この四年間のわたくしが、立て替えてもらった実家の借金に対し、どの程度に値するか分からない。きっとまだまだ足りないだろう。けれど慰謝料を貰わないことで勘弁してもらおう。
「これ以上はもう、わたくしは“侯爵夫人”でいることはできないわ」
自由に……何にも縛られずに自由に、わたくしはこの先を生きていきたい。そのためには、自分から離縁を切り出さなくてはいけない。
そんな機会があるだろうか?
夫は滅多にこちらへ来ないのだから………。
離縁を申し出る――その機会は、思っていたよりも早く来た。
決意してから十日ほど過ぎたその日、先触れもなく夫が、こちらへ帰ってきたのだ。
けれど彼は、一人ではなかった。
少し癖のある漆黒の髪に、深緑の瞳をしたその人は、夫とはかなり親しい間柄らしい……何故なら彼が、わたくしといる時に見せる作り笑いではなく、自然と笑んでいるからだ。
「初めまして奥方。リオネル=コーベルです」
にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべ、夫の幼馴染みだというバイヨ公爵家嫡男のリオネル様は、流れるような仕草でわたくしの右手をやんわりと掬い上げた。
その瞬間、体の中を何かが駆け巡った。
甘く痺れるようなそれに驚き、目を瞠ったわたくしを、彼も同じように驚いたように見ていた。
「は、初めましてリオネル様。ドミニクの妻のフルールと申します」
わたくしはそっと視線を伏せる。右手はまだリオネル様に取られたままだ。彼はキュッと一瞬強く握ると、軽く手の甲に口付けを落としてから手を離した。その瞬間、寂しいと思ってしまった。
「外国に留学している間に、ドミニクが結婚したのは知っていたけれど……まさかこんなにも美しい女性だったなんて。まったく、羨ましいよきみが」
「ありがとうリオ。フルールはとても素晴らしい妻で、私はとても満足しているよ」
素晴らしい妻――とは、わたくしが役割をきちんと果たしているからだ。侯爵夫人として満足している――と、いうことなのだ。
わたくし達は場所を居間へと移し、女中頭が三人分のお茶を運んできた。わたくしの分は必要ないのに。
「これはとても良い茶葉だ。王宮で出されるのに匹敵する」
「そうなのか?」
「ああ。って、きみ、毎日飲んでいるのに気がつかなかったのかい?」
「あ、いや……」
言葉に詰まり黙ってしまった夫に、リオネル様は「きみは昔から、色々と無関心だからね」と苦笑した。そんなことはないと、夫は彼の言葉を否定するが、リオネル様はにやにやと笑って「いいや。きみはそうだよ」と夫の言葉を否定する。わたくしは何も言わず、二人の遣り取りを黙って聞きながら紅茶を啜った。




