8話:前半 都心の狂宴と風のように去る淑女
大宮地下ダンジョン中層、第34階層の階段脇に設けられたセーフエリア。
分厚い鉄扉に閉ざされた冷たい切石の小部屋に、唯の荒い息遣いと、布を裂く微かな音が響いていた。
「うぅ……っ、いたたた……。中層の奴ら、上層の雑魚とはパワーもスピードも違いすぎますぅ……」
唯は壁に背を預け、右腕の袖をまくり上げて痛ましげに顔を歪めている。
前腕部にはリザードマンの放った鋭利な斬撃による深い裂傷が走り、迷彩服の肩口はジャイアントスパイダーの強酸性の体液で無残に溶け、爛れた皮膚が赤く腫れ上がっていた。
上層のゴブリンやスライム相手には無双の狂犬ぶりを誇っていた唯だったが、中層に足を踏み入れて以降、その表情には徐々に疲労と焦燥が滲み始めていく。
覚醒時のステータスが完全に固定されている生身の人間にとって、オークの重打やリザードマンの統率された連携、死角から奇襲を仕掛けてくるガーゴイルの爪牙は、かすり傷ひとつが生死に直結する過酷な領域であった。
一方の響は、連日連夜の連戦にもかかわらず息ひとつ乱れていない。漆黒のフードを目深に被ったまま、膝をついて唯の手当てを手際よく進めていた。
「文句を垂れる暇があるなら歯を食いしばれ。……染みるぞ」
アイテムボックスから取り出した淡いエメラルドグリーンの初級回復ポーションを、唯の右腕の裂傷へ無造作に振りかける。
シュウウッと微かな白煙と燐光が立ち上り、ぱっくりと開いていた傷口が肉芽を盛り上げて急速に塞がっていく。
「ふぎゃぁぁぁっ!? し、染みますぅぅ! でも、血が止まりました……ふぅ」
唯が涙目で息を吐き出すのを見届けながら、響は漆黒のフードの奥で冷徹に思考を巡らせた。
自分のレベルは順調に上昇を続け、身体能力も魔力も前世の全盛期へと着実に近づいている。だが、隣を走る唯の耐久力と手札は、明らかに中層の深度に対して限界を迎えつつあった。
どれほど神速の十手術を振るおうと、一歩間合いを見誤れば、オーガの鉄塊棍棒やミノタウロスの大斧でミンチにされかねない。
(……この先の階層を食い尽くすには、狂犬の装甲と手数をもう一段階引き上げておく必要があるな)
響は虚空へ指先を差し入れ、アイテムボックスのインベントリを改めて展開した。
レベルの上昇に伴ってロックが解除された雑多な前世のストック品。その中から、現在の唯に必要な実戦装備を素早く精査し、3つのアイテムを手元へ引き抜く。
まず取り出したのは、素朴な木で削り出された、親指大の小さな人型マスコット――『身代わりの木彫りチャーム』。
「ほらよ、まずはこれを持っておけ」
響は無造作に、唯の震える手のひらへ木彫りのチャームを握らせた。
「ふえ? な、なんですかこれ……? ちっちゃな木の人形……?」
「『身代わりの木彫りチャーム』だ。ポケットにでも突っ込んで肌身離さず持っておけ。一度だけ、致命的な不意打ちや罠の初撃をお前の代わりに肩代わりして身代わりになって砕け散る。お前みたいな猪突猛進のバカには必須の保険だ」
「ひゃっ!? 致命傷を肩代わりしてくれるお守り……!? そ、そんな命綱みたいなもの、ありがたすぎますぅぅ!!」
唯は目を丸くし、宝物を扱うように両手で木彫り人形を胸元へ抱きしめると、迷彩服の内ポケットへ慎重にしまい込んだ。
続いて響が取り出したのは、専用の革シースに美しく収められた3本の細身の投擲短剣――『ミスリル混じりの投擲用ダガー』。そして、手の甲に薄い金属プレートが埋め込まれた黒い指抜きレザーグローブ――『耐酸・防刃のショートグローブ』である。
「次はこれだ」
カラン、と澄んだ金属音を立てて床に置かれた装備に、唯が目を瞬かせる。
「この指抜きグローブはワーグの革を鞣した特注品だ。魔獣の牙や刃を弾くだけじゃなく、さっきお前の服を溶かした蜘蛛やスライムの酸を完全に防ぐ。刀の柄を握るグリップ力も跳ね上がるぞ。風切りのミスリルガントレットの内側に仕込んで使え」
「あ、酸を防げる手袋……! さっき手の甲に酸が飛んできたとき、本当に肝が冷えたんですぅ……! これがあれば直接殴り倒せますね!」
「そして、その3本のダガーだ。刃の芯にミスリルが練り込んである。お前の接近戦だけじゃ、空を飛ぶガーゴイルや、物理攻撃が効きにくいワイトの相手に限界があるだろ。重心が完全に調整されてるから、狙った場所へ狂いなく突き刺さる。中・遠距離の牽制と、霊体潰しに使え」
唯は目を輝かせながら、さっそくショートグローブを手にはめ、その上からミスリルガントレットのベルトを締め直した。指先を小気味よく動かして感触を確かめると、腰のベルトの空きスペースへ投擲用ダガーの革シースを素早く固定する。
手首から指先にかけて吸い付くような防御感と、腰元に増えた新たな牽制の選択肢。
手痛い負傷で縮こまっていた唯の目に、再び狂犬特有の鋭い光が戻っていた。
「うひひ……! 守りもバッチリ、飛び道具もゲット、おまけに命のスペア付き……! 響さん、アタシ、なんだかさっきよりも何倍も強くなった気がしますぅ!」
「調子に乗るなよ。死ぬときは一瞬だ。……傷の痛みが引いたら、第35階層へ降りるぞ。中層の獲物を片端から間引く」
「了解ぃぃッ!! 次に出てくるトカゲ共は、アタシが遠くから眉間をブチ抜いてやりますからね!」
唯は両手のナイフをジャキリと鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。
響は漆黒のフードを目深に引き下げ、鉄扉の向こうから漂う濃密な魔物の気配を冷徹に見据える。手札を整えた2人の進撃が、再び中層の深淵へと向けられた。
第35階層の湿地帯を掃討した2人は、さらに奥へと続く湿った石造りの大空洞へと足を進める。
通路の先、ぬかるんだ足場が広がる空間のあちこちから、重たい足音と耳障りな鳴き声が幾重にも重なって響いてきた。
待ち構えていたのは、棍棒や大鉈を掲げたオークの群れと、盾と槍を構えて隊列を組むリザードマンの小隊。その奥には、筋骨隆々のオーガが2体、丸太のような太い腕を誇示するように構えていた。
「唯、前衛の豚とトカゲだ。奥のデカ物も含めて弓で削るぞ」
「了解ぃぃッ!!」
響はアイテムボックスから漆黒の剛弓と矢筒を引き抜き、唯へ手渡す。
唯は左手首のレザーリストバンドの上から装着したミスリルガントレットで弦を引き絞り、低く身構えた。風の加護が指先から矢へと伝わり、切っ先が青白い燐光を帯びる。
ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!
鋭い風切り音とともに、矢が立て続けに放たれた。
先頭を突進してきたオークたちの眉間を寸分狂わず撃ち抜き、頭蓋を貫通。崩れ落ちるオークの隙間を縫い、唯は間髪入れずにリザードマンの隊列へ矢を撃ち込む。鱗の薄い首元や関節を的確に狙い澄ました射撃が、次々とトカゲ兵の足を止めていく。
「グオォォォッ!!」
怒号を上げて迫る2体のオーガに対し、唯は距離を取りながら足首と膝を狙って矢を連射。突進の軌道を強引に逸らさせた。体勢を崩したその刹那、響が横合いから踏み込み、シースルー黒タイツに包まれた脚の一撃でオーガの頭蓋を粉砕、残る1体も無造作な打撃で沈黙させる。
亜人種の前衛部隊を瞬く間に片付け、唯が弓を下ろして息を整えた、その直後だった。
カサカサカサッ!と天井の岩肌を高速で這い回る不快な擦過音が響き渡り、空間の至る所から粘着性の白糸が降り注いだ。
現れたのは、体長2メートルを超えるジャイアントスパイダーの群れ。さらに壁面の窪みからは石の翼を羽ばたかせたガーゴイルが急降下し、奥の闇からは青白い冷気を纏う霊体――ワイトが、生気を吸い取らんと浮遊してくる。
オークやリザードマンとは異なる、変異種と飛行・霊体の複合強襲。
唯が反射的に腰の武器へ手を伸ばしかけた瞬間、響は左手を水平に掲げて制した。
「唯、手を出さずに下がってろ。こいつらは俺がやる」
「は、はいぃっ!」
唯が即座に身を翻し、後方の頑丈な岩陰へ身を潜める。
広間に残された響は、漆黒のフードを目深に引き下げると、冷徹な双眸で四方から迫る異形の群れを見据えた。
全身を巡る魔力を一気に解放し、影を滑るように地を蹴る。
キィィィンッ――!
研ぎ澄まされた抜刀の一閃。
急降下してきたガーゴイルたちの首が、空中で同時に両断された。石の身体が床へ落ちる前に、響は天井へ垂直に跳躍。張り付いていたジャイアントスパイダーの吐く粘着糸を紙一重ですり抜け、回転を乗せた漆黒の斬撃で蜘蛛たちの胴体を一瞬にして切り裂く。
床へ音もなく着地した響の背後から、最後のワイトが冷酷な死霊の手を伸ばして迫った。
だが、響は振り返りもせず、左手の掌をワイトの顔面へ無造作にかざす。
ボォォッ!
掌から放たれた高密度の魔力が至近距離で炸裂し、物理攻撃をすり抜ける霊体の身体を内側から粉々に霧散させた。
戦闘開始から、わずか数秒。
広間を埋め尽くしていた異形の魔物たちは、誰ひとりとして響に触れることすら叶わず、完全に殲滅されていたのだ。
湿地帯の床には、上質な中級魔石がいくつも転がり、静かに燐光を放っている。
響は刀を鞘へと収めると、足元に転がっていた魔石を無造作に爪先で拾い上げ、親指で弾いて口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリ……ゴクン。
咀嚼して喉へと流し込み、息をひとつ吐く。
「……こんなもんか。唯、魔石を回収したら次へ行くぞ。足を止めるな」
「了解ですぅ! すぐ拾います!」
◇
大宮地下ダンジョン第50階層、中層の最深部。
次の下層へと続く巨大な螺旋階段の直前に設けられたセーフエリア。重厚な鉄扉で外界から完全に遮断された石造りの小部屋の中は、ダンジョン特有の生臭さや冷気から隔絶され、静寂が満ちていた。
「ふぁぁぁ……! やっと着きましたぁ……! もう足が棒のようですぅ……」
唯は防弾ベストを丁寧に脱いで壁際に立てかけると、敷かれた携帯マットの上へ力尽きたように倒れ込む。
迷彩服の袖は擦り切れ、泥や魔獣の返り血で薄汚れてはいるものの、響から渡されたショートグローブやミスリルガントレットのおかげで、第34階層のような深い負傷や火傷の類は一切負っていない。
「手際はずいぶんマシになったな、狂犬」
響は漆黒のフードを下ろし、首筋に張り付いた黒髪を手で軽く払ってから、壁際に腰を下ろした。
激戦の連続だった第35階層から第50階層までの踏破。オークやリザードマンの部隊を唯の弓で崩し、変異種や飛行・霊体の群れを響が速攻で仕留める――阿吽の呼吸で階層を駆け抜けたことで、余計な損耗なく最奥まで辿り着いている。
響はアイテムボックスから干し肉と清潔な水が入った革袋、そして小ぶりな干し果実の袋を取り出すと、床で伸びている唯の前へ放り投げた。
「ほらよ。飯だ」
「わぁぁ、干しぶどうまである! 響さん、やっぱり神様ですぅ!」
唯は跳ね起きるように上半身を起こし、両手で革袋を抱えて水を勢いよく喉へ流し込むと、干し肉を小さく千切って頬張り始める。
響も自分の分の革袋を傾け、冷たい水で喉を湿らせた。
第50階層までの魔物を残らず狩り尽くし、回収した膨大な魔石を貪り食ったことで、体内を巡る魔力の奔流はさらに太く、滑らかさを増している。失われていた魂の器の修復は確実に次の段階へ進んでおり、全盛期の感覚が肉体の奥底から明確に呼び覚まされつつあった。
鉄扉の向こう、第50階層の最奥ホールからは、中層ボスの放つ重厚で凶暴な魔力の波動が、壁を伝って微かに漏れ出してきている。
「唯、飯を食い終わったらしっかり仮眠を取れ。この扉の先は中層のボス部屋だ。今までの有象無象とは桁が違うぞ」
「へーい……。お腹いっぱいになったら、すぐ寝ますぅ……」
唯はもぐもぐと口を動かしながら、頼もしそうに響の横顔を見上げた。
冷徹な眼光を鉄扉の隙間へと向ける響の横で、唯は毛布を引き寄せ、決戦に備えて静かに身体を休め始める。
◇
静寂に包まれたセーフエリアの中、数時間の仮眠を終えた唯が身じろぎをし、静かに身を起こした。
「……ふぅ。頭も身体も、すっかり軽くなりました」
唯は小さく息を吐きながら立ち上がり、壁際に立てかけていた防弾ベストを再び身につけ、バックルを1つずつ確実に締め直す。左腕のミスリルガントレットを確かめるように握り込み、腰のベルトに収めた投擲用ダガーと剛弓を整えた。
壁に寄り添うようにして浅い眠りを取っていた響も、微かな衣擦れの音で即座に瞼を開く。黒曜石のような瞳には一切の濁りや眠気はなく、研ぎ澄まされた冷徹な光が宿っていた。
「起き抜けの動きじゃないな。息も整ってる」
響は立ち上がると、黒髪をフードの奥へ収め、腰の刀の鯉口を親指でわずかに弾いた。カチリと微かな金属音が切石の部屋に響き、刃の滑らかさを確かめてから静かに鞘へと戻す。
「唯、突入前の最終確認だ。扉の向こうにいるのは、これまでの中層の魔物を束ねる階層主だ。図体も耐久力も、一撃の重さも桁が違う。初手でお前が単独で間合いを詰めるのは絶対に禁止だ。まずは俺が前に出てタゲを取る。お前は中・遠距離から弓とダガーで死角を突き、奴の機動力と視界を削れ」
「了解です! 響さんの背中を追いつつ、絶対に無理な接近戦は避けてサポートに徹します!」
唯の返答に迷いはなかった。狂犬と呼ばれた無謀な突撃癖は影を潜め、相棒としての役割を冷徹に理解した引き締まった表情を浮かべている。
響は頷き、重厚な鉄扉の頑丈な閂を静かに外した。
両手を冷たい鉄扉にかけ、ゆっくりと前へ体重を預ける。
ギギギ……と鈍く重い金属の軋み音が鳴り、分厚い扉が押し開かれた。
扉の隙間から、これまでの中層とは比較にならないほど濃密で禍々しい魔気の熱風が吹き込んでくる。
視界の先に広がっていたのは、ドーム状に広がる巨大な円形の大広間。天井の亀裂からはダンジョンの不気味な赤い燐光が差し込み、荒れ果てた石畳の床をまだらに照らし出していた。
その広間の中央。
山のように盛り上がった瓦礫の影から、地響きを伴う重厚な足音が響く。
ドシン、ドシン、と床の切石を砕きながら姿を現したのは、全身を鋼鉄のように硬質な黒銀の毛並みと隆起した筋肉で覆われた、体長4メートルを超える二足歩行の巨獣――『ミノタウロス・ジェネラル』。
その手には、大木を丸ごと削り出したような巨大な両刃の戦斧が握られており、筋骨隆々の胸部には幾重もの戦傷が刻まれていた。
赤黒い光を宿した2つの瞳が、侵入者である響と唯の姿を捉えた瞬間、大広間の空気が爆発的な威圧感で張り詰める。
「ブモォォォォォッッ!!」
耳を劈くような咆哮が広間に轟き、衝撃波が2人の前髪を激しく揺らした。
「……中層の主詰めにしては、上等な面構えだ」
響は口元に微かな冷笑を浮かべ、漆黒の刀の柄に手をかける。
咆哮の余波が広間の空気を激しく震わせる中、響は冷静に間合いを測った。
真正面に立つミノタウロス・ジェネラルから放たれる魔力の圧は、これまでの中層の魔物たちとは比較にならない。体格、筋力、そして皮膚の硬度――単純なステータスの総量でぶつかり合えば、今の響をもってしても明らかに手に余る格上の怪物だった。正面から力比べを挑めば、骨ごと叩き潰されるのは目に見えている。
だが、響の瞳に焦りは微塵もなかった。
「ブモォッ!」
巨獣が地を蹴った。4メートルの巨躯からは信じられない初速で間合いを詰め、大木のような戦斧を豪快に振りかぶる。広間の空気が圧縮され、切石の床が踏み込みの圧力だけで放射状に砕け散る。
「響さんっ!」
後方に控えた唯が息を呑む。
その瞬間、響の姿が残像を残して横方向へブレた。
戦斧が振り下ろされる刹那、響は敵の初動の筋肉の軋みと視線の動きを完全に先読みし、紙一重の距離で内側へと滑り込む。
狙うのは、首でも胴体でもない。
――巨大な両刃斧を握り締める、右手の親指の付け根。
どれほど圧倒的な怪力と質量を誇ろうと、手先で武器を保持する構造は人型である以上変わらない。親指の腱を断てば、あの凶悪な戦斧を握り続けることは不可能になる。ステータス差を力で埋めるのではなく、構造の急所を突いて無力化する――それが響の選んだ解だった。
キィィィンッ!
漆黒の刀身が鞘を滑り出ると同時に、高密度に練り上げられた魔力が刃の切っ先に凝縮される。
響は刃を寝かせ、ミノタウロスの太い手首の影へ、不可視の鋭い切り込みを走らせた。
ザシュッ!
硬質な毛並みと鋼のような表皮を断ち割り、刃先が親指を支える深層の腱を確実に捉える手応えが、響の腕へと伝わる。
親指の腱を断たれ、握力を失いかけた巨大な手首へ向け、響は間髪入れずに鋭い回し蹴りを叩き込んだ。
ガッ!
親指の支えを失っていたミノタウロス・ジェネラルの巨手から、大木のような戦斧が無残に弾き飛ばされる。
ドガァァン! と凄まじい轟音を立てて切石の床へと転がり落ちた戦斧を前に、巨獣が自身の空になった右手を信じられないといった様子で見つめた。
その致命的な隙を、響が見逃すはずもない。
「唯、こっちに来い!」
鋭い号令を広間に響かせると同時に、響は低く沈み込んだ体勢から一気に跳躍した。
黒刀の切っ先に魔力を集約させ、ミノタウロスの剥き出しになった右肩の関節――腕の運動を司る深層の腱をめがけ、研ぎ澄まされた一閃を振り抜く。
ズバッ!
硬質な筋組織が断ち切られ、ミノタウロスの太い右腕がだらりと脱力した。
突如奪われた武器と右腕の自由。想定外の痛打に巨獣が呆気にとられ、硬直したその刹那――
「はぁぁぁッ!!」
後方から疾走してきた唯が、響の合図に寸分の狂いもなく連動する。
身軽な跳躍でミノタウロスの死角となる左側面へ回り込み、腰から引き抜いたダガーに鋭い力を乗せて左肩の関節へ突き立て、一気に横へと切り裂いた。
ザシュゥッ!
唯の一撃が左肩の腱を正確に切断する。
両肩の腱を断たれたミノタウロスの両腕は、もはや自重を支えることすらできず、まるで操り糸の切れた人形のように左右へダラリと力なく垂れ下がった。
巨獣が両腕の喪失に気づいて咆哮を上げようとした瞬間には、すでに響がその足元へと滑り込んでいた。
漆黒の刀身が地を舐めるように鋭く閃く。
右足の付け根の腱を断ち割り、返す刃で両足のアキレス腱を的確かつ無慈悲に両断した。
「ブモォ――!?」
下半身を支えるすべての腱を瞬時に奪われ、4メートルの巨躯が完全にバランスを崩す。
地響きのような唸り声を上げながら、ミノタウロス・ジェネラルは武器も腕も足の自由も失ったまま、前のめりに石畳の床へ激しく倒れ込んだ。
切石の床に突っ伏し、もがくことすらできなくなったミノタウロス・ジェネラルを見下ろし、響の口元がつり上がる。
冷徹だった表情は消え失せ、底知れない嗜虐の色を帯びた歪な笑みが浮かんだ。
「――はははっ!」
乾いた哄笑を広間に響かせながら、響は刀を鞘へと納める。
四肢の腱を完全に断たれ、床を這うことしかできない巨獣の巨頭を見据え、魔力を全身の拳と脚へと一気に集中させた。
ステータス差など関係ない。抵抗する術を完全に奪い去った巨躯など、ただの巨大なサンドバッグに過ぎなかった。
ドカッ! バキィッ! ドスッ! ボガァンッ!
響の拳と蹴りが、容赦のない連打となってミノタウロスの頭部と胴体へ叩き込まれた。
骨を砕き、肉をすり潰す鈍い破壊音が絶え間なく鳴り響く。巨獣が苦悶の声を漏らす暇すら与えず、四方八方から容赦のない打撃の嵐がその巨体を蹂躙していった。
「ブ、モ……ッ!」
最後の呻き声とともに分厚い頭蓋が完全に陥没した瞬間、ミノタウロス・ジェネラルの身体が激しい亀裂のような発光に包まれる。
ゴォォォォッ――!
膨大な質量の肉体が青白い光の粒子へと崩壊し、眩い光の渦となって宙へと巻き上がっていった。
中層の支配者であった巨獣は、完全に消滅したのだ。
光の奔流が収まった広間の中心には、これまでの魔物とは比較にならないほど巨大で、濃密な輝きを放つ階層主の極上魔石が、コロンと音を立てて床に残されていた。
光の粒子が完全に空へと溶けて消え、静まり返った広間に、唯の引きつった声がぽつりと落ちる。
「……えげつない。完全に解体ショーじゃないですか、響さん……」
ダガーを逆手に握ったまま立ち尽くしていた唯は、戦慄したように頬を引きつらせ、床に転がる巨大な魔石と響の姿を交互に見つめていた。親指から始めて四肢の腱を寸分違わず断ち切り、抵抗手段を奪い尽くしてから一方的に粉砕する――その戦術の合理性と容赦のなさは、まさに鬼畜の所業そのものである。
響は乱れた前髪を無造作に払うと、息ひとつ乱さずに振り返った。
「勝てばよかろうなのだ。格上を相手に正々堂々付き合ってやる義理なんざ、最初からねえよ」
何食わぬ顔でそう言い放つと、響は床に転がっていた赤黒く輝く大粒の魔石の前にしゃがみ込んだ。バスケットボール大の極上魔石を両手で無造作に持ち上げ、その表面を指先でなぞる。中層の全魔力を凝縮したような濃密な波動が、掌を通じてじんじんと伝わってきた。指先に力を込め、硬質を誇る外殻の一角を無造作にへし折る。そのまま剥離した魔石のかけらを口に運び、咀嚼した。奥歯で砕かれた結晶から、熱を帯びた純粋な魔力奔流が喉の奥へと一気に雪崩れ込んでいく。
視界の端に、これまで沈黙を保っていた無機質な半透明の光文字が、鮮烈な青白い燐光を伴って浮かび上がった。
『階層主ミノタウロス・ジェネラルの討伐を確認』
『高濃度生体魔力核の直接摂取・吸収を確認』
『獲得経験値が規定値を超過しました』
『対象の器の修復フェーズが移行――レベル30に到達しました』
続けざまに、脳内へと直接響くようなシステム音が重なる。
『レベル30到達に伴い、スキル[身体強化Lv.1]の封印を解除』
『固有機能【アイテムボックス】の封印を一部解除:保管物の取り出し制限【レベル30適正枠】までの装備・アイテムの引き出しが解除されました』
「……ほう」
響の眉がわずかに動いた。
中層の踏破で蓄積されていた経験値と、格上である階層主の撃破が呼び水となったのだろう。失われていた魂の回路がまたひとつ強引に繋がり、一気にレベル30の領域へと押し上げられた感覚が全身を駆け巡る。
灰色のロックに閉ざされていたスキル[身体強化]の文字が、[身体強化Lv.1]として点灯した。
レベル上昇による緩やかな基礎値の底上げとは一線を画し、スキル発動に伴う魔力の循環が肉体そのものを別次元の出力へと引き上げる感覚がある。身体強化側にも明確な熟練度・レベルが存在する構造を確認したことで、これまで初期値の伸び悩みによって生じていた火力不足の懸念は完全に払拭された。
響は手元の極上魔石を虚空へ放り込み、ミノタウロス・ジェネラルが落とした残りのドロップ品――黒銀の剛毛と硬質な角の破片も手早く回収する。
「よし、回収終了だ」
「はい! こっちのドロップも全部拾い終わりました」
唯が足元の戦利品を回収し終え、剛弓を肩に掛け直して響の元へ駆け寄ってきた。その表情には、中層最奥のボスを完封したことで生まれた確かな自信と、直後に控える未知の領域への緊張感が入り混じっている。
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