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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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5話 魔石の味と、狂犬ハムスターの臨時ボーナス

 翌朝、宿舎の冷たい鉄パイプベッドの上で、響は正確に意識を覚醒させた。

 軽く息を吐き、身体の連動を確かめながら立ち上がった、その時だった。


 コン、コン――。


 鉄扉が控えめに、躊躇いがちなリズムで2回ノックされた。

 直後、くぐもった真鍋1尉の声が廊下から響く。


「おい、響。起きているか。入るぞ」


 響が身構える間もなく、金属音を立てて扉が外側へと押し開けられた。

 そこに立っていたのは、目の下に隈を刻んだ真鍋と――その後ろで所在なさげに身を縮めている、1人の小柄な女性自衛官だった。


 年齢は20代前半。迷彩服の上に防弾ベストを着用しているが、その下にある胸元は布地がはちきれんばかりに膨らみ、規格外の豊満な質量を主張している。左右の太ももには特注と思われる刃渡りの長いコンバットナイフが固定されていた。


 だが、軍用装備の物々しさとは裏腹に、その佇まいに威圧感の欠片もない。抱え込むように自らの豊かな胸元を両手で押さえ、濡れた仔犬のような瞳でおどおどと視線を泳がせながら、今にも泣き出しそうな顔で響を見上げていた。


(……おいおい、何だその胸。ベストの留め具がちぎれそうじゃねえか……)


 響は男としての本能で思わず目を奪われかけたが、即座に自分の胸――メンズのパーカー越しでもはっきりと主張している、女性らしい豊かなふくらみに手を当てて内心で毒づいた。


(いかんいかん、今の俺も大概な身体をしてるんだった。何見とれてんだバカ者)


 響が内心で葛藤を押し殺していると、真鍋が背後の女性隊員の肩を軽く叩いた。


「第1空挺団から出向してきた、鷹野(たかの) 唯(ゆい)2等空曹だ」


 紹介された瞬間、鷹野はビクゥッ!と跳ね上がり、豊かな胸を激しく揺らしながら涙目で直立不動になった。


「ひ、ひぃっ!? は、第1空挺団、た、鷹野ですぅ……! あ、あの、足引っ張ったらごめんなさい、殴らないでください……!」


 あまりの怯えっぷりに、響は呆気にとられて片眉を吊り上げた。


「……おい真鍋。自衛隊の精鋭ってのは、こんなデカい胸のハムスターみたいな奴なのか?」


「ひっ、ハムスター!?」


 鷹野が顔を真っ赤にして両手で口元を押さえて後ずさり、真鍋はこめかみを押さえて深いため息を吐いた。


「普段はこんなだが、近接白兵戦における反射速度と殺傷力は基地内でもトップクラスの『覚醒者』だ」


 真鍋は呆れ交じりに首を振り、手にしていたバインダーの書類を響の前に差し出した。


「さて本題だ。だらだらと基地の警備をさせるつもりはない。貴様ら覚醒者2名には、実戦訓練を兼ねて、ある『小規模ダンジョン』の先行調査に直ちに潜ってもらう」


 書類の最上面に挟まれていたのは、昨日、響たちが首都高の上から目撃したあの白亜の巨塔――東京都板橋区の総合病院の写真だった。


 響の瞳が、わずかに細まる。


「板橋の病院か」


「そうだ。お前が道中で感知した通り、あの総合病院は内部が魔力障壁で閉鎖され、初期の巣穴と化している。だが、都心の巨大迷宮とは違い、発生したばかりの極小規模な異常領域だ。本格的なスタンピードを起こす前に、貴様ら2名で内部の初期変異体を間引き、中枢の核を叩いてこい」


 響の口元に、冷徹な狩人の光が宿る。

 外周のフェンス沿いで小石を投げるような無駄な訓練など、最初から必要ない。求めていたのは、魂に経験値を注ぎ込む「本物の魔獣」が巣食う閉鎖空間だ。小規模とはいえダンジョンであるなら、レベル1の現状を打開する足がかりとしては申し分ない。


「いいだろう。受けて立つ」


 響が淡々と応じる横で、写真を目にした鷹野が引き攣った悲鳴を漏らした。


「ひ、病院……!? お化け屋敷みたいなところに行くんですかぁ……!? や、やっぱり私、お留守番じゃダメですか、真鍋3佐……!」


 豊かな胸を両腕で抱え込み、半泣きで上官に縋り付こうとする鷹野を、真鍋は冷たく一瞥して手元のバインダーで軽く押し返した。


「駄目に決まっているだろう。貴様の近接戦闘能力を見込んでの編成だ。いいか、準備の制限時間は10分。装備を整えて庁舎前の車両へ集合しろ」


 真鍋は踵を返すと、有無を言わせぬ足取りで通路の奥へと立ち去っていった。


 残されたのは、開け放たれた宿舎の扉の前で佇む響と、今にもその場に泣き崩れそうな鷹野の2人だけだった。


「……うぅ、死んだらどうしよう……痛いの嫌だぁ……」


 小刻みに震えながらブツブツと弱音を吐き続ける鷹野を、響は感情を交えずに見つめた。

 取り乱すでもなく、無理に励ますでもなく、腰の刀の柄へそっと指先を添えながら、低く落ち着いた声で問いかける。


「おい、鷹野2曹」


「ひっ!? な、何でしょうか……っ!」


「その腰のナイフは、飾りか?」


 響の冷徹な問いに、鷹野は涙目のまま自分の両腰にある特注の大型コンバットナイフへおずおずと手をやった。


「か、飾りじゃないです……ちゃんと使えます……」


「なら、四の五の言わずに準備しろ。死にたくないなら、お前がその刃で活路を開くしかないんだ」


 突き放すような響の言葉に、鷹野はキュッと唇を結び、怯えの色を残しながらも小さく頷いた。


「……は、はい。準備、してきます……」


 鷹野が小走りで自室へ向かうのを見届け、響もまた、宿舎の中へと戻り、身支度を整え始めた。


 入間基地からの輸送車両を降りた響と鷹野唯の2人は、かつて白亜を誇った板橋総合病院の正面玄関前に立っていた。


 目の前の光景は、もはや医療施設としての機能を完全に喪失した廃墟そのものだった。

 ロータリーに面した巨大な強化ガラスはことごとく内側と外側の双方から叩き割られ、鋭利な破片が路面にぶちまけられている。車寄せには放置された救急車がへし折れた街灯に突っ込み、赤黒く変色した血痕がアスファルトを扇状に染め上げていた。


 吹き抜ける冷たい秋風に混じり、鼻腔を突くのは濃密な消毒液と腐肉の悪臭。

 そして、その底から湧き上がるように皮膚をチリチリと焼く、粘つくような魔力の残滓だった。


「ひ、ひぃ……っ。写真で見るより、ずっとお化け屋敷じゃないですかぁ……!」


 唯は防弾ベストの上からでもはちきれんばかりの豊かな胸元を両腕でぎゅっと抱え込み、生まれたての小鹿のように膝を震わせた。小柄な身体を縮こまらせ、涙目で周囲の廃墟を見回している。


「怯えるな、無駄に呼吸を荒げると気配が漏れるぞ」


 響は低く落ち着いた声で窘めると、パーカーのジッパーを喉元まで引き上げ、腰の刀の鯉口を親指でわずかに切った。

 耳を澄ませる。地上のアンデッドが群がる気配は周囲にない。すでに自衛隊の先行部隊によって外周の掃討が完了している証拠だった。


 割れた正面エントランスのフレームを潜り抜け、2人は院内へと足を踏み入れた。


 1階フロアの惨状は凄まじかった。

 待合室に並んでいたはずのプラスチック製の連結椅子はなぎ倒され、引き裂かれた書類や散乱したカルテが、粉々に砕けた蛍光灯のガラス片とともに床一面を覆っている。壁面には無数の黒ずんだ手形と爪痕が刻み込まれ、自動再来受付機のモニターは鈍器で打ち砕かれたように内部の基盤を露出させていた。


「足元に気をつけろ。ガラスを踏み抜いて音を立てるなよ」


「は、はいぃ……っ」


 唯は響のパーカーの裾を掴みそうな勢いでおずおずと後をついてくる。怯えきって視線を泳がせているものの、その足取りはガラスの破片を正確に避け、一切の擦過音を立てていない。無意識に染み付いた体術のレベルの高さに、響は内心で舌を巻いた。


 受付カウンターの脇を抜け、響の鋭敏な知覚が捉える「重い空気」の沈む方角――地下へと続く非常階段へと歩を進める。

 重厚な防火扉を押し開け、非常灯の薄暗い緑色の光に照らされたコンクリートの階段を1階分、慎重に下りていった。


 地下1階のフロアに降り立ち、長く伸びる通路へ足を踏み入れた瞬間、響は微かに眉を上げた。


 荒れ果てた地上の廃墟とは一変し、通路の天井には軍用の黄色い仮設コードが張り巡らされ、等間隔に吊り下げられた無骨な作業用LED投光器が、無機質な白い光でコンクリートの廊下を照らし出していたのだ。


 床には迷彩色の配線カバーが敷かれ、壁際には小型の消火器や通信用の中継アンテナ、折りたたみ式のアルミコンテナが整然と積まれている。自衛隊の工兵部隊が強引に設営した、地下の仮設前線基地だった。


「あ……自衛隊のライトだ……。よかったぁ、人の気配がある……」


 唯がホッと胸を撫で下ろした瞬間、その豊かな双丘が大きく揺れた。響は余計な視線を向けないよう意識を前方に固定し、無言のまま通路の最奥へと歩みを進めた。


 通路の突き当たり、放射線科や霊安室へと続く重い鋼鉄の扉があるはずの区画に、それは異様な威容を誇って口を開けていた。


 通常の建物の壁面を無理やり削り広げたかのように、黒曜石に似た未知の黒い鉱石で組まれた「巨大な門扉」がそびえ立っている。

 扉の表面には、現代のいかなる文字体系にも属さない禍々しい古代の浮き彫りが刻まれ、門の縁からは紫黒色の冷たい霧が、まるで呼吸をするようにフロアの床へ這い出していた。


(……間違いない。正真正銘の、ダンジョンのゲートだ)


 響の魂に刻まれた元勇者としての感覚が、強烈な警鐘と高揚感を同時に鳴らした。


 そして、その異界の門扉の真正面、わずか十数メートル手前の空間に、パイプと防護ネットで組まれた自衛隊の「仮設受付・管制所」が陣取っていた。


 長机の上には野外用通信機、監視モニター、そしてバインダーに挟まれた突入記録簿が置かれている。机の前に立つヘルメットと防弾ベスト姿の隊員が、通路から歩み寄ってきた響と唯の姿を認めると、小銃を斜めに構えたまま鋭い視線を向けた。


「入間基地からの派遣部隊だな。……ご苦労様です。これより、板橋第1特異点――地下侵食領域の突入受付を行います」


「第1空挺団所属、鷹野唯2曹。それと民間人協力者の安藤響だ。この2名でアタックをかける。2名とも覚醒者で間違いない」


 響が真鍋から渡されていた特別協力者用の仮IDと作戦指示書を長机の上に提示した。


 受付の隊員はIDの照合コードと指示書の印影を端末で素早くスキャンし、響と、その後ろで豊満な胸元をぎゅっと抱え込んで震えている鷹野の姿を交互に見据えた。


「確認しました。鷹野2曹、安藤殿、両名とも間違いありません」


「今、このダンジョンの中に先行して潜っている部隊や覚醒者はいるのか?」


 響が禍々しい門扉を睨み据えながら淡々と問いかけると、受付の隊員は即座に首を横に振った。


「いえ、まだ入った者はおりません。本特異点は観測されてから日が浅く、周辺の確保と仮設管制所の設営が先ほど完了したばかりです。お二方が最初の突入者となります」


「中で何か入手した物は、そちらに提出する義務はあるのか?」


 響が淡々とした口調で問いかけると、受付の隊員は一瞬虚を突かれたように目を丸くし、すぐに首を横に振った。


「いえ、そんなことはありません。自衛隊としての最優先事項は、内部のモンスターを駆除し、汚染の拡大を食い止めることです。取得された物資やドロップ品については、現場の覚醒者の方に所有権が認められています」


「そうか。ならそれでいい。ありがとう」


 響は満足そうに口角をわずかに上げると、短く礼を告げた。

 国家や軍に戦利品を没収される心配がないと分かれば、思う存分に狩り尽くすことができる。魔力結晶であれ素材であれ、すべては自らのレベルアップと戦力復旧の糧となる。


「ひ、響さん……資源とか戦利品って、あんな気味の悪いお化け屋敷の中に何があるっていうんですかぁ……?」


 後ろで豊かな胸元を両手で抱え込み、半泣きで震える唯を、響は感情の読めない冷徹な横顔で見据えた。


「行けば分かる。……行くぞ、ハムスター」


「ひぃっ、引っ張らないでくださいぃ!」


「ちょっと待ってください!」


 門扉へ足を踏み出しかけた響の背中に、受付の隊員から切羽詰まった声が飛んだ。


 響が足を止めて振り返ると、隊員はパイプの柵から身を乗り出し、呆然とした眼差しで響の足元から頭の先までをまじまじと見つめていた。


「あ、あなた……本気でそんな格好で行くのですか?」


 隊員が指し示したのは、響の身なりそのものだった。

 隣に立つ鷹野唯は、規格外の胸元で布地がはちきれそうとはいえ、迷彩服に身を包み、防弾ベストを固め、両脚に特注ナイフを吊るした完全武装の自衛官だ。

 対する響といえば、ぶかぶかのメンズ用黒パーカーに灰色のスウェット、足元は履き古したスニーカー。背中に背負っているのは小さなリュックサックひとつで、腰に差した無骨な刀がなければ、ただ近所のコンビニへ深夜にアイスでも買いに出てきた若い娘にしか見えなかった。


 生死を分かつ未知の怪異領域へ突入する人間の出で立ちとは、およそかけ離れすぎている。


 だが、響は眉ひとつ動かさず、自分のパーカーの裾を軽く引っ張って見せると、あっけらかんと言い放った。


「これしか持ってないからな。動く分には邪魔にならんし、特に問題ないだろう」


「も、問題ないって……! 防刃ベストもヘルメットもなし、ただの布切れですよ!? 中の怪異がどんな攻撃をしてくるか、まだ誰ひとり把握してないんですよ!?」


 隊員が血相を変えて忠告するが、響からすれば、かつて魔王軍の幹部や神話級の魔獣の爪牙をくぐり抜けてきた身だ。まともな防御力を持たない安物の防具で動きを鈍らせるくらいなら、身軽な部屋着のほうがよほど間合いを詰めやすい。


「心配するな。当たらなければどうということはない」


 元勇者特有の身も蓋もない現実論を平然と返すと、響はそれ以上の問答を打ち切るように踵を返した。


「ひ、響さん、本当にその格好で平気なんですかぁ……!? 私、余ってる防弾チョッキとか借りてきましょうか……っ!?」


 後ろで唯が豊かな胸を両腕で抱え込み、オロオロと涙目で訴えかけてくる。


「いらん。動きが重くなるだけだ。……行くぞ」


 響は片手で黒いパーカーのジッパーを喉元まで引き上げると、禍々しい紫黒の霧が渦巻く門の境界線へと、躊躇なく踏み込んだ。


 紫黒色の霧をくぐり抜けた瞬間、肌を撫でる大気の感触が一変した。


「……第1階層というやつか」


 響が周囲を見渡しながら低く呟く。

 病院の地下室だったはずの空間は完全に消失していた。コンクリートの壁も天井の配管もなく、視界に広がるのは湿り気を帯びたゴツゴツとした岩肌――まるで天然の鍾乳洞か地下洞窟の中に迷い込んだかのような異様な光景だった。


 湿度は高く、淀んだ空気は肺腑にまとわりつくように重く濁っている。薄っすらと漂う腐敗臭の奥に、鼻腔の粘膜をちりちりと刺激する高密度の魔力の残滓が満ちていた。光源などないはずの暗がりの中で、岩肌の隙間に群生する未知の青白い燐光苔だけが、頼りなく周囲の輪郭を浮かび上がらせている。


「ひ、ひぃぃ……っ! な、何ですかここ、本当に病院の地下なんですかぁ……!?」


 背後で唯が悲鳴を噛み殺し、防弾ベストを押し上げる豊かな胸を両腕でぎゅっと抱え込みながら、震える足で響の背中に張り付いてきた。


 響は眉をひそめ、振り返って退路を確認した。

 直前まで背後にあったはずの自衛隊の仮設受付や、黒曜石の門扉は跡形もなく消え失せていた。ただ、自分たちが降りてきたと思われる苔むした石造りの数段の階段だけが、洞窟の壁面に不自然に接続されて冷たく残されている。


「出入り口の扉が見当たらんな。……なるほど、空間そのものが現世から切り離された転送型の迷宮構造か」


 響は動じることなく、階段の石肌を軽く靴底で叩いた。

 異世界で幾度となく経験した「一方通行の侵入型ダンジョン」と同じだ。最深部の階層主を討伐するか、あるいは特定の帰還ポータルを見つけ出さない限り、来た道を歩いて戻ることはできない仕組みになっている。


「えっ……!? と、扉がない……!? うそ、閉じ込められたんですか!? 出られないんですかぁぁ!?」


 状況を理解した唯が顔面を蒼白にし、涙目で響のパーカーの裾を掴んで激しく取り乱した。


「落ち着け。騒ぐと周囲の魔物を呼び寄せるぞ」


 響は低い声で一喝し、腰の刀の柄へ静かに指を滑り込ませた。

 周囲の静寂に耳を澄ませる。

 滴る水滴の音の合間、洞窟の奥へと続く曲がりくねった通路の暗がりから、カチ、カチと硬い爪先が岩肌を擦り合わせるような、緩慢で不気味な足音が近づいてきていた。


 カチ、カチ――。


 暗がりから響く不気味な爪音とともに、青白い燐光苔に照らされた湿った岩肌の隙間から、複数の気配が這い出してきた。


 現れたのは、犬並みの大きさに巨大化した灰色毛の魔獣――「ジャイアントラット」が3匹。

 真っ赤に濁った複眼のような瞳をギラつかせ、ナイフのように尖った黄色い門歯をカチカチと打ち鳴らしながら、湿った土を蹴って包囲するように距離を詰めてくる。さらにその足元、岩の割れ目からは、澱んだ緑色の粘液の塊――「グリーンスライム」が、地面をジュクジュクと溶かしながら緩慢に這いずり出ていた。


 地上の元人間であるゾンビとは根本から異なる、純粋な魔力で構成された本物のダンジョンモンスターたちだ。


「キシャァァァッ!」


 先頭の巨大ネズミが濡れた岩肌を猛烈な勢いで蹴り、鋭い牙を剥き出しにして跳躍した。


「ひ、ひぃぃぃぃっ! ネズミぃぃぃ! でっかいドブネズミが出ましたぁぁぁっ!!」


 唯は防弾ベストを押し上げる豊かな胸を激しく揺らし、涙と鼻水を浮かべながら絶叫した。

 響は冷静に間合いを測り、腰の刀の柄へ手を伸ばそうと低く構えた。


「おいハムスター、下がってろ! 俺が――」


 響が前に出ようとした、その瞬間だった。


「ああん!?」


 耳をつんざくような、ドスの利いた濁声が洞窟内に轟いた。


 唯が両太もものレッグホルスターへ神速で手を滑り込ませた。カチャリ、と金属が噛み合う澄んだ音と同時に、特注の大型コンバットナイフ2本が逆手で引き抜かれる。

 先ほどまで仔犬のように怯え、震えていた泣き虫の顔は跡形もなく消え失せていた。

 眉根を限界まで吊り上げ、凶悪な光を宿した三白眼で突進してくる巨大ネズミを睨み据える。


「テメェ……汚ねえツラ近づけてんじゃねえぞコラァッ!!」


 凄まじい脚力で岩肌を爆砕し、唯の身体が視界から消えた。

 あまりの加速に風圧が巻き起こり、豊かな胸が激しく揺れ動く間すら与えない。


「ギチッ!?」


 空中で巨大ネズミが動揺した刹那、すでに唯はその頭上を取っていた。

 右手のナイフが閃光のように振り下ろされる。


 ドスゥッ!


 巨大ネズミの頭蓋が眉間から真っ二つに叩き割られ、そのまま地面へ激突した。

 唯は着地するや否や、飛び散る汚泥も気にせず、左右から飛びかかってきた残りの2匹へ刃を水平に薙ぎ払った。


 ザシュッ! ザシュッ!


 首を根元から刎ね飛ばされた2匹の胴体が、宙を舞って血飛沫とともに岩壁に叩きつけられる。

 さらに唯は、足元で蠢いていたスライムの核めがけ、左手のナイフを全体重を乗せて真上から深々と突き立てた。


 グチュッ! パリンッ!


 核を粉砕されたスライムは、形を保てずにただの酸性の水たまりとなって地面に溶け落ちていく。

 戦闘開始から、わずか2秒足らず。

 第1階層の低レベルモンスターの群れは、一瞬で完全に殲滅されていた。


「チッ、ネズミの分際でチョロチョロ湧いてんじゃねえぞクソが……ドブ臭えんだよボケ」


 唯はナイフについた体液を軍用ブーツの踵で乱暴に擦り落とすと、唾をペッと吐き捨てた。

 胸元の防弾ベストが激しい荒い息で上下し、薄暗い洞窟の中で凶悪なオーラを放っている。


 抜刀しかけた姿勢のまま完全に静止していた響は、刀をゆっくりと鞘へ戻しながら、引き攣った顔で呟いた。


「……おい真鍋。これのどこが『お化けが怖くて泣いちゃうハムスター』なんだよ。完全に狂犬のヤクザじゃねえか」


 叩き伏せられた巨大ネズミの肉塊と、溶け崩れたスライムの残骸。それらが床を汚していたかと思った刹那、黒い霧のような粒子となって淡く揺らめき、まるで初めから存在しなかったかのように跡形もなく消え失せた。


 残された湿った岩肌の窪みには、カラン、と澄んだ硬質な音を立てて、米粒から小豆ほどの大きさの半透明な結晶が4つ、転がり落ちていた。


 薄暗い洞窟の底で、淡い紫と緑の光を帯びて微かに脈打っている。


「……魔石、か」


 響は歩み寄り、膝をついてそのうちの1つを拾い上げた。

 指先に伝わるのは、紛れもない純粋な魔力の微動。地上のアンデッドからは決して得られなかった、迷宮のモンスター特有のドロップアイテムだ。


(肉体が魔力へと還元され、核だけが凝縮して結晶化する……。やはり、ここは俺が知る異世界のダンジョン構造そのものだ)


 響が魔石の感触を確かめていると、背後で荒々しく上下していた息遣いが、ふいにピタリと止まった。


「ふ、ふえ……?」


 情けない鼻声が漏れ聞こえ、響が振り返ると、そこには両手にナイフを逆手に握ったまま、涙目で自らの足元を見つめる唯の姿があった。

 先ほどの凶悪極まりない三白眼とヤクザじみた威圧感は綺麗さっぱり霧散し、濡れた瞳を白黒させてオロオロと震えている。


「あ、あれ……? 私、またやっちゃいました……? ひ、光る石が落ちてる……ネズミさんは……?」


 唯は自分の血濡れのナイフを見て顔面を蒼白にし、「ひぃぃっ! 血ぃぃ!」と叫びながら、豊かな胸元を激しく波打たせてその場にへたり込んだ。


 響は手の中の魔石を握り込み、立ち上がりながら深く息を吐き出した。


「……情緒不安定にも程があるだろ、お前」


 響は地面に散らばった4つの小粒な魔石を拾い集めると、そのうちの3つを親指で弾くようにして放り投げた。


「おい、そこの狂犬ハムスター」


「ふぎゃっ!?」


 へたり込んでいた唯は情けない声を上げながら、防弾ベストからこぼれそうな豊かな胸を激しく揺らし、慌てて両手で宙を舞った小石を抱き留めた。


「こいつはお前が倒したんだから、お前のものだ」


 響が淡々とした口調で告げると、唯は手のひらに乗った淡く光る結晶をおっかなびっくり見つめ、すぐに涙目で首を横に振った。


「え、こんなものもらっても困りますよ……! な、何ですかこれ、気味の悪い光る石……! 呪われたり爆発したりしないですよね……!?」


「ただの魔石だ。得体の知れんエネルギー源かもしれんぞ。基地の研究部門にでも突き出せば、格好の調査サンプルくらいにはなるだろう」


「い、要らないですぅ! 隊長からも『変なものは拾ってポケットに入れるな』って言われてますし……! 響さんにあげます! 全部持っていってくださいぃ!」


 唯は押し付けるように両手を突き出し、魔石を響へ突き返してきた。

 響は手元に戻された結晶と、本気で怯えている唯の顔を交互に見比べ、薄く息を吐き出した。


「……欲のない奴だな。なら遠慮なく貰っておく」


 響は手元の魔石をまとめてパーカーのポケットへと滑り込ませた。

 その瞬間、ポケットの布地越しに、結晶から放たれる微弱な魔力の波動が響の皮膚を通して体内へじんわりと浸透していく。現代社会では価値不明のゴミ同然の石ころだろうが、元勇者である響にとっては、失った能力を取り戻すための貴重な資源だった。


「さて、狂犬ハムスター。いつまでも床に座り込んでないでさっさと立て。このフロアの小物を片っ端から間引いていくぞ」


「ひ、響さん、そのあだ名本当にやめてくださいぃ……! せめてどっちかに統一してくださいぃ……!」


 唯は半泣きで抗議の声を上げながら、豊かな胸元を両腕で抱え込み、よろよろと立ち上がった。


 唯を引き連れて洞窟の奥へと歩みを進めると、湿った風の向こうから乾いた骨の軋む音が響いてきた。


 カチ、カチ、カタカタ……。


 暗がりの岩陰から姿を現したのは、人の白骨に淀んだ魔力が宿った2体の「スケルトン」だった。身につけた衣服は朽ち果て、その手には赤錆びた鉄パイプや折れた刃物が握られている。

 さらにその頭上、鍾乳石が垂れ下がる高い天井の闇の中からは、無数の赤い眼光がぎっしりと光っていた。小型犬ほどもある翼を広げた「ケーブバット」の群れが、十数匹規模で不気味に蠢き、獲物の肉の匂いにざわめいている。


「ひ、ひぃぃぃっ! ガイコツとお化けコウモリのセットぉぉぉ!?」


 唯が防弾ベストから溢れんばかりの豊かな胸を両腕で抱え込み、悲鳴を上げながら響の背中へ隠れようとした。ナイフの柄へ伸びかけたその手を、響は制するように軽く片手を挙げて止めた。


「下がってろハムスター。今度は俺の番だ」


 響は腰の刀の柄へ右手を添えると、足音ひとつ立てずに前へと出た。

 気づいた先頭のスケルトンが、カタカタと下顎を鳴らしながら錆びた鉄パイプを大上段に振り上げる。動きは鈍く、大振りで隙だらけだった。


 響の踏み込みは一歩。

 抜刀の軌跡は、暗闇の中で一本の鋭利な白線を描いただけに見えた。


 キィン――!


 一切の抵抗感なく、スケルトンの頸椎が横一文字に両断された。頭蓋骨が宙を舞い、胴体が膝から崩れ落ちるのと完全に同時、響は流れるような足捌きで反転し、2体目のスケルトンの懐へと潜り込んでいた。


 袈裟懸けの一撃。

 刃筋は肋骨と背骨をまとめて斜めに両断し、2体目の骨の塊は乾いた音を立てて足元に砕け散った。苦労の欠片もない、息を吸うような速攻だった。


 二振りの骸骨が一瞬で魔力の粒子となって霧散し始めると、頭上で待機していたケーブバットの群れが一斉にキシャァァッと甲高い超音波の悲鳴を上げ、黒い塊となって頭上から急降下してきた。


 響は刀を左手に持ち替え、空いた右手をパーカーの内側へ滑り込ませた。

 引き抜かれたのは、黒ずんだ木肌に微弱な魔力を帯びた、一本の短い杖。


 迫り来る無数の蝙蝠の群れを見据え、響の瞳が冷徹に細まる。


「吹き飛べ」


 響が短杖を頭上へ向けて一閃した。

 放たれたのは単純な魔力の暴風――風圧と衝撃波の圧縮塊。


 ドォォォォンッ!!


 洞窟の空間を揺るがす轟音とともに、目に見えるほどの白い衝撃波の円環が放射状に炸裂した。

 急降下していた十数匹のケーブバットの群れは、回避する間すら与えられず、正面からその暴力的な突風に呑み込まれた。


 パパパパパンッ!と連続して風船が破裂するような音が響き渡る。

 群れのすべてが肉片すら残さず、一瞬で木端微塵に粉砕され、紫黒色の粒子となって天井から雨のように降り注いだ。


 静寂が戻った洞窟の底で、響は短杖を軽く回して手元に収め、足元にカラン、カランと転がり落ちてきた無数の微小な魔石を見下ろした。


 響は足元に転がり落ちた小豆大の魔石を指先で拾い上げ、視線の高さへと掲げた。


 青白い燐光を放つその結晶を見つめた瞬間、胸の奥底から理屈の通らない激しい欲求がせり上がってきた。


(……なんだ、これは?)


 異世界で勇者として戦っていた頃、魔石は単なる素材や換金用の物資にすぎず、口に入れようなどと考えたことすら一度もなかった。しかし今、性別が変わり、ステータスがレベル1へと再編されたこの肉体は、目の前にある凝縮された純粋な魔力に対して、飢餓感にも似た強烈な「食欲」を抱いている。


 身体の内側が渇いている。失われた力を埋め合わせようとする本能の仕業か。

 抗いがたい衝動に突き動かされ、響は躊躇することなく魔石を口の中へと放り込んだ。


 奥歯で噛み砕く。


 ジャリ、ポリポリと硬い氷砂糖を噛み砕くような感触とともに、口内に微かな清涼感と、チリチリと痺れるような刺激が広がった。

 飲み込むと同時に、砕かれた魔石の粒子が喉を滑り落ち、胃のあたりから温かい熱波となって全身の血管、そして魂の奥底へと染み渡っていく。


 体内を巡るわずかな魔力の補充感。毒のような拒絶反応はなく、肉体は確実にそれを純粋なエネルギーとして吸収していた。


「ひ……ひ、響さん……!?」


 背後から、引き攣った裏返り声が響いた。

 振り返ると、鷹野唯が両手で口元を押さえ、信じられないものを見るような目で響を凝視していた。その豊かな胸元が、激しい戦慄で小刻みに揺れている。


「な、何を食べてるんですかぁぁ……!? ま、魔石ですよね!? それ、さっきの化け物から出た得体の知れない石ですよね……!?」


 響は口元を手の甲で無造作に拭うと、平然とした真顔のまま、低く落ち着いた声で返した。


「別に減るもんじゃなし、腹の足しにもならんが……悪くない。ラムネ菓子みたいなもんだ」


「ラムネじゃないですぅ! お腹壊したらどうするんですか! 毒とか寄生虫とか入ってたらどうするんですかぁぁ!!」


 頭を抱えて半泣きで絶叫する唯をよそに、響は足元に残った蝙蝠やスケルトンの魔石へ視線を落とした。

 食べることで直接魔力が還元されるのなら、この脆弱なレベル1の器を強化する手段として、十分に実用性がある。


「騒ぐな、腹は痛くなってない。……おい狂犬ハムスター、散らばった石を全部拾え。残さず回収していくぞ」


「ひぃぃ、食べる気満々じゃないですかぁ……! 私、本当にヤバい人と組まされちゃった……!」


 唯は涙目でブツブツと文句を垂れ流しながらも、命令通りにおずおずとしゃがみ込み、散らばった魔石を拾い集め始めた。


 響が喉の奥を滑り落ちていく温かい魔力の余韻を確かめていた、その時だった。


 目の前の虚空がわずかに歪み、呼び出してもいない半透明の青白いステータス画面が唐突に展開した。

 それと同時に、感情の起伏を一切削ぎ落とした無機質な機械音に似た音声が、直接頭蓋の奥へ響き渡る。


『――経験値アップを確認いたしました。ステータスへ反映いたします――』


 響は片眉をわずかに吊り上げ、視線を浮かび上がったインターフェースへと滑らせた。

 レベル1のまま灰色にロックされていたはずの各種スキルの項目。その最下段、通常ならパッシブ情報として沈んでいるはずの【鑑定】の欄だけが、淡い燐光を帯びてうっすらと浮かび上がっていた。


 しかも、その光は一定ではない。

 トン、トン、トントン……と、まるで意志を持ってこちらの反応を伺い、話しかけてくるかのように規則的な明滅を繰り返している。


 響は周囲の気配を警戒しつつ、目の前の発光する文字列へと静かに視線を固定した。


「……おい。ひょっとして、これをやってるのはお前か?」


 声に出して問いかけると、ステータス画面上の【鑑定】の枠が、カッと一段強い光を放ち、リズミカルに二度、大きく明滅した。

 声としての返答はない。だがその光の揺らぎは、まるで「左様でございます」と胸を張って頷いて見せるかのような、明確な自己主張を帯びていた。


 ただのシステムの一機能にすぎないはずのスキルが、独自の自我かプロトコルを持って機能し始めている。

 異世界の送還術式で生じたバグの産物か、あるいはこの肉体に変容したことによる副産物か。


 響は顎に手を当て、明滅を続ける青白い枠を見つめながら低く呟いた。


「ただのステータス閲覧機能だと思っていたが……随分と気の利く奴が頭の中に居座ったものだな」


 その問いかけに満足したのか、【鑑定】の文字は再び優しく瞬き、次の情報を提示するかのように静かに光の波紋を広げ始めた。


 ステータス画面の中で明滅していた【鑑定】の枠が、ふたたび鋭い輝きを放った。

 直後、先ほどと同じ無機質な機械音声が、響の頭蓋へ直接響き渡る。


『――アイテムボックスの制限を一部解除いたします――』


 そのアナウンスと同時に、青白いステータス画面の隣に、これまで硬くグレーアウトしていた直方体の空間アイコンが、淡い光を帯びて実体化するように展開した。


 響の瞳が、わずかに見開かれる。

 アイテムボックス――異世界で幾多の激戦を支えた、勇者固有の亜空間収納。転移時のエラーにより完全にロックされていたはずの機能が、今、わずかにその扉を開いていた。


(制限の一部解除だと……? 本当に取り出せるのか?)


 響は右手を前に差し出し、開かれた収納空間のインベントリに意識を向けた。

 膨大な収納枠のほとんどは依然として黒い鎖のようなグラフィックで封印されているが、その最前列、ごくわずかなスペースだけがアクセス可能になっている。


 取り出しのイメージを強く念じる。

 掌の前の空間が微かに歪み、ポッと淡い光の輪が弾けた。


 手の中に落ちてきたのは、使い込まれた茶色い「革製の水袋」が1つ。

 そして、表面が硬く焼き締められた「乾燥した保存用のライ麦パン」が1個だった。


 手のひらに伝わる革の確かな感触と、わずかに漂う麦の香ばしい匂い。

 響は取り出した品を見下ろし、確かな手応えを感じて口元をわずかに緩めた。


「本当に出てきやがったか……」


 現代日本の物資ではなく、紛れもなく異世界で携行していた野営用の補給物資。

 レベルアップか、あるいは魔石の摂取による魔力還元か。理由はともあれ、封印されていた力の一部が確実に現実へと引き戻されていた。


「ひ、響さん……!?」


 足元で魔石を拾い集めていた唯が、響の何もない手の中から唐突に出現した水袋とパンを目撃し、豊かな胸元を激しく波打たせながら腰を抜かした。


「な、何もないところからパンが出ましたぁぁ……!? て、手品ですか!? それともお化けの仕業なんですかぁぁ!!」


「騒ぐな。非常食を出しただけだ」


 響は手元の乾いたパンと水の革袋を、腰を抜かしたまま見上げている唯の前へ無造作に差し出した。


「おい、お前腹減っただろ。こいつでも食ってろ」


「ふぇっ……!? え、えぇっ、これ、さっき空間からポンッて出てきたやつですよね……!?」


 戸惑いながらも、朝から緊張と恐怖でエネルギーを消耗しきっていた唯の胃袋は正直だった。おずおずと受け取ると、慌てて水の革袋を豊かな胸元の脇にぎゅっと挟み込み、両手で乾燥パンを抱え込んで小さくかじり始めた。


 モグモグ、モグモグ……。


 硬い保存パンを両手で持ち、両頬をいっぱいに膨らませて小刻みに口を動かすその仕草は、まさに餌を必死に頬張る小動物そのものだった。豊かな胸元をベストごと上下させながら、警戒を解かずにモグモグと咀嚼を繰り返している。


 そのあまりに無防備で小動物じみた姿を上から見下ろした響は、思わず片手を口元に当て、小さく喉を鳴らして吹き出した。


「……ぷっ。唯ムスターかよ」


「んぐっ、ごほっ……! ひ、響さん、また変なあだ名混ぜて笑いましたねぇぇ!?」


 パンを喉に詰まらせかけた唯は、慌てて脇に挟んでいた革袋の栓を抜き、涙目で水を流し込みながら抗議の声を上げた。


「唯ムスター、食い終わったか」


 響が声をかけると、唯は口の周りにパン屑をつけたまま、両手で水の革袋を抱えてコクリと頷いた。


「ふ、ふぁい……ごちそうさまでしたぁ……。あの、響さん、これ以上奥に行くんですかぁ……? もう十分怖いですし、ガイコツまで出たんですから、一旦戻りませんか……?」


 防弾ベストを押し上げる豊かな胸をすぼめ、眉尻を下げて懇願してくる唯に対し、響は軽く首を横に振った。


「いや、戻る判断自体は同感だ。初日から深入りする気はない。モンスターの出現傾向と、魔石のドロップ、それと空間の基本的な構造は把握できたからな。初日の状況確認としてはこれで十分だ」


「ほ、本当ですかぁ!? よかったぁぁ……!」


 心底安堵したように唯の表情がパッと明るくなり、胸元を撫で下ろす。だが、響は歩みを止めずに言った。


「ただし、直ちに引き返すわけじゃない。この先をあと少しだけ索敵する。第1階層のフロアがどういう広がり方をしているのか、通路の分岐と、下層へ続く構造――階段か転移陣があるのかどうかだけ、目視で確認してから撤収するぞ」


「えぇぇ……まだ歩くんですかぁ……!?」


 情けない声を上げる唯を尻目に、響は足音を殺しながら洞窟の先へと進み始めた。


 先ほどの交戦でレベル2へと修復が進んだ肉体は、手足の先まで微かな魔力の巡りが改善され、わずかに足取りが軽い。ステータス画面の端で、相変わらず【鑑定】の枠が微かな光の瞬きを繰り返しながら、前方の暗がりを静かに見据えていた。


 その後、さらに30分ほど周囲の分岐路を巡ったが、得られた情報は想定の範囲内だった。


 フロア全体は迷路状に入り組んだ湿った洞窟が続き、出現するモンスターも最初に遭遇した顔ぶれと変わらない。天井に潜むケーブバット、物陰から這い出るグリーンスライムとジャイアントラット、そして徘徊するスケルトン。脅威となるような強敵や、階層主のような異様な気配は感知されず、出現パターンは極めて単調だった。


「これ以上歩き回っても、同じ連中の相手をするだけだな。引き上げるぞ」


「は、はいぃっ! 帰りましょう、早くお日様の下に出たいですぅ!」


 響の指示に、唯は飛び上がるようにして頷いた。


 最初に入ってきた石造りの階段まで戻り、段を上がると、空間の境界を抜ける独特の浮遊感とともに視界が切り替わった。

 重苦しく濁った洞窟の冷気は消え去り、板橋病院地下特有のコンクリートの匂いと、換気扇の低い唸り声が耳朶を打つ。背後を振り返れば、黒曜石の門扉が静かに佇んでおり、迷宮側からは見えなかった現世への通路が正常に機能していることを確認できた。


 ふたりが地下の仮設ゲートから地上階へ戻ると、防護服と戦闘装備で固めた真鍋たちが即座に駆け寄ってきた。


「安藤さん、鷹野2曹! 無事だったか」


 真鍋の鋭い視線がふたりの全身を走る。外傷がないことを確認してわずかに安堵の息を漏らしたが、その表情は依然として険しい。


「内部の様子はどうだった。通信が完全に途絶していたが、何が起きていた?」


 響は肩の力を抜き、淡々とした口調で報告を切り出した。


「内部は病院の設備とは完全に切り離された天然の鍾乳洞だ。地上のゾンビのような感染者は1体もいない。代わりに、完全なファンタジーの魔物どもが徘徊している」


「魔物……だと?」


 真鍋が眉根を寄せる。響は指を折りながら簡潔に特徴を挙げた。


「確認したのは4種類。天井から急降下してくる小型のコウモリ型、床を這う酸性のスライム、犬並みのサイズがある巨大ネズミ、そして錆びた鉄パイプなどを振り回す白骨兵――スケルトンだ。どれも動き自体は単調で、白兵戦の基礎ができていれば対処に苦労する相手じゃない」


「……スケルトンにスライムか。俄には信じがたいが、君たちの無事な姿が何よりの証拠だな。フロアの広さや構造はどうなっている?」


「同じような形状の岩道が複雑に入り組んでいるが、基本的な構造と出現する怪異はあの範囲内では一定だ。初日の状況把握としてはこれで十分だろう」


 響の淀みない報告を聞き終えた真鍋は、顎に手を当てて深く考え込んだ後、手元のタブレットに情報を素早く記録し始めた。


「了解した。極めて貴重な一次情報だ。直ちに本部へ上げ、突入部隊の装備編成を見直す。……それにしても、鷹野が怪我ひとつなく戻ってくるとはな。てっきり腰を抜かして泣き喚いているかと思ったが」


 真鍋が視線を向けると、唯は防弾ベストをぎゅっと抱え込み、涙目で小さく身を縮こまらせた。


「ひ、酷いです真鍋3佐ぃ! 私だってやるときはやるんですぅ……! で、でも本当に怖かったんですよぉ……!」


「……まあ、こいつの『やるとき』は想像以上に派手だったがな」


 響は引き攣った苦笑を小さく漏らし、ポケットの中にある小粒の魔石の感触を指先で確かめた。


 そして、パーカーのポケットに手を差し入れ、残しておいた小粒の魔石を1つ取り出すと、真鍋の前に差し出した。


「事前に『拾ったものは好きにしていい』とは言われていたが、一応報告のついでだ。これを渡しておく」


 淡い青光を微かに明滅させる親指大の結晶が、真鍋の手のひらに転がり落ちた。

 真鍋は目を見張り、手袋越しにその結晶を掲げて光に透かした。


「これは……鉱石か? まるでそれ自体が発光しているようだが」


「魔石だ。魔物を倒すと死骸が消滅し、これが床にドロップする。防衛省の研究機関で色々と解析してみるといい。おそらく、未知の新型エネルギー資源として化ける可能性がある」


「エネルギー資源……」


 真鍋の表情が引き締まり、声のトーンが一段低くなった。


 現在の日本政府や自衛隊は、ダンジョン内部の生態系はおろか、魔石の存在意義や価値すら全く把握していない。ただの奇妙な副産物と見過ごされかねない物体だったが、響の言葉と、その掌の上で確かに熱と光を帯びる鉱石の存在感に、真鍋は強い興味と警戒を示した。


「魔物から結晶が精製されるというのか……物理法則を無視した現象だな。だが君の言う通り、もし安定した熱源や電力の代替になり得るなら、国家的な超重要物資になりかねん。直ちに分析班と研究機関へ回す」


 真鍋は胸ポケットから密閉式の証拠品回収パックを取り出し、魔石を厳重に封入した。


「貴重なサンプル提供に感謝する、安藤さん。君の助言通りに手配しよう」


 真鍋が厳重にパックへ収めた魔石を見送りながら、響は隣で安堵の息を吐いている唯へ横目を向けた。


「おい、狂犬ハムスター」


「ふぇっ!? な、なんですか響さん、またその呼び方ぁ……!」


「お前、さっきは気味悪がって俺に押し付けたがな。研究機関が魔石のエネルギー価値を証明して買い取りシステムでも立ち上げたら、あの石ころがお前の臨時ボーナスになるぞ」


「えっ……!? り、臨時ボーナス……!?」


 唯の垂れ下がっていた眉がピクリと跳ね上がり、丸い瞳が大きく見開かれた。

 小動物じみた怯え顔から一転、頭の中でそろばんを弾き始めたのか、豊かな胸元をぎゅっと抱え込んだまま視線を宙に泳がせる。


「ぼ、ボーナス……! 私の手取り、危険手当がついてもカツカツで……もし本当に国や自衛隊が高値で買い取ってくれるなら、コンビニの新作スイーツも食べ放題……!?」


「倒せば倒すほど小遣いが増える仕組みだ。そうなれば、お前のその無駄に高い戦闘スペックも少しは報われるだろうよ。ははは」


 響が小さく笑うと、唯はギュッと両拳を握りしめ、鼻息も荒く息巻いた。


「よ、よし……! 次からは全部拾います! 1個も残さず回収して、私のヘソクリにしますぅぅ!!」


「現金な奴だな。さっきまで『変なもの拾うなと言われてる』って半泣きで突き返してきたくせに」


「背に腹は代えられないんですぅ! 資本主義万歳ですよぉ!!」


 現金すぎるハムスターの豹変ぶりに、真鍋もタブレットを操作しながら苦笑いを浮かべ、現場の張り詰めた空気はようやく解けた。

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