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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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4話:空中回廊と巨大要塞――入間基地の覚醒者

 警察署の頑丈な鉄扉を背にして裏口から抜け出た響たち4人は、直ちに北西へと針路を取った。


 目指すは首都高速5号池袋線の「板橋本町料金所」だ。

 地上を走る国道17号線(中山道)は乗り捨てられた車両と散乱した物資で荒れ果てていたため、響は路地裏や側道を縫うように進む隠密ルートを選択した。


「音を立てるな。足音を殺して、俺の歩幅に合わせろ」


 響の低く鋭い指示に従い、葵、店長、サラリーマンの男が息を詰まらせて後に続く。

 親子を警察署に預けたことで隊列の機動力は格段に跳ね上がっていた。背負う荷物は増えたものの、全員が自らの足で走り、身を潜める動作に無駄がなくなっている。


 道中、路地裏の物陰や住宅の敷地内から、獲物を求めて徘徊するゾンビが数体現れた。

 だが、そのすべては響の鋭敏な知覚によって接近前に察知された。


 曲がり角の死角から飛び出してきた1体に対しては、響が無駄のない踏み込みとともに短刀を一閃させ、声を出させる間もなく頸椎を切断して沈黙させた。

 遠くの車道で佇んでいた2体に対しては、響が手にした小石を進行方向とは逆の路地へ弾き、甲高い音で注意を逸らしている隙にその背後を音もなくすり抜けた。


「奴らの索敵トリガーは視界と聴覚だけだ。それさえ制御すれば、脅威にはならん」


 最小限の交戦と徹底した隠密行動を徹底したことで、一行は何の消耗も負傷もなく、順調に距離を稼ぎ続けた。


 やがて視界の先に、頭上を覆う巨大な高架橋と、地上から緩やかな傾斜を描いて上層へと伸びるランプウェイ――板橋本町料金所のコンクリート構造物が姿を現した。


 遮断桿(バー)は上がり放しになっており、無人の料金所のブースには放置された発券機の電子音すら響いていない。地上と隔絶された「空中回廊」への登り口が、暗雲の下に静まり返っていた。


「見えたぞ。あれを登れば、荒川の河川敷まで直結する首都高の上だ」


 料金所の手前、幹線道路の側道沿いに佇むコンビニエンスストアの青い看板が視界に入った。ガラス戸は半ば叩き割られ、店先には踏み荒らされた段ボールとポリ袋が散乱している。


「待て。中を調べる」


 響は手信号で後続の3人を路地裏の壁際に制止させ、自身は身を低くして割れたガラスの隙間から滑り込んだ。

 店内は先ほどの店舗以上に徹底的に略奪され尽くしていた。スチール棚はなぎ倒され、床一面に散乱した雑誌や壊れた什器の残骸が放置されている。


「響さん、何か残ってますか……?」

 葵が息を潜めて背後に滑り込んでくる。


「大半は持ち去られた後だな」


 飲料用の大型冷蔵ケースは扉ごと破壊され、ペットボトルや紙パックは1本残らず消え失せていた。常温保存できるパンやレトルト、缶詰の棚も空だ。

 だが、響の研ぎ澄まされた視線は、倒れた棚の隙間に押し込まれていた数個の未開封パッケージを捉えた。


「これは持っていくぞ」


 棚の陰から回収したのは、賞味期限の長いチョコレートバーが数本と、高カロリーなスナック菓子の小袋、それから床の泥水に浸からずに済んでいた未開封の飴玉の缶だった。ドリンク類は壊滅していたが、糖分と最低限の熱量を即座に補給できる携帯食としては十分な収穫だった。


「葵、リュックの空きスペースに詰めろ。30秒で撤収だ」


「はいっ!」


 葵と店長が素早く菓子類を袋へ放り込み、サラリーマンの男が周囲を警戒する。

 物資の回収を終えた一行は、音を立てずに店を抜け出すと、開け放たれた板橋本町料金所のゲートを潜り抜け、高架上へと伸びる緩やかなアスファルトのスロープを一気に駆け上がった。


 首都高5号池袋線の本線上に上がると、地上の喧騒と腐敗の熱気は嘘のように遠のいていた。


 見通しの良い2車線の高架道路は、予想通り物理的に遮断された「空中回廊」として機能していた。地上の路地裏のように角を曲がった瞬間の不意打ちを警戒する必要がなく、吹き抜ける風がわずかに視界と意識を研ぎ澄ませてくれる。


 路肩や本線上には、非常点滅灯を点けたまま乗り捨てられた数台の乗用車が点在していた。

 響は隊列の歩みを止めず、手信号で指示を出しながら、放置車両のドアを順に確認していった。


「鍵が開いている車だけ中を改めろ。ガラスを割って音を立てるな」


 車内のダッシュボードや後部座席から、飲みかけではない未開封のペットボトル茶が2本、車載用ティッシュ、小型の携帯充電器(モバイルバッテリー)、そして非常用のアルミブランケットが3枚回収された。地上の店が略奪し尽されている中、こうした車内に残された私物は貴重な追加補給となった。


「順調だな。このまま荒川の橋まで一気に抜けるぞ」


 店長が安堵の息を漏らし、サラリーマンの男も重い荷物を背負い直しながら足取りを速めた。


 だが、板橋本町から北西へ進み、中台付近に差し掛かった時だった。

 遮音壁の切れ目から、高架のすぐ脇にそびえ立つ総合病院の白亜の巨大な病棟が視界に飛び込んできた。


 響は突如として足を止め、右手を水平に掲げて全員を停止させた。


「……待て」


「響さん……? どうかしましたか?」


 葵が小声で尋ねる。

 響は答えず、刀の柄に指を添えたまま、高架橋の防音フェンス越しに病院の建物を鋭く見据えた。


 何かがおかしい。

 救急搬送の入り口周辺には破壊された救急車が折り重なり、無数の血痕が壁面に飛び散っている。それ自体はこれまでの惨状と同じだったが、漂ってくる「気配の質」が明らかに異質だった。


 視界と音に反応して無目的に徘徊する通常のゾンビが放つ、緩慢で濁った気配ではない。

 病院の上層階――割れた窓ガラスの奥の闇から、こちらを明確に観察し、測るような、湿り気を帯びた濃密な悪意とプレッシャーが肌を刺してくる。


 皮膚をちりちりと焼くような、濃密で粘つく魔力の残滓。

 響はこの感覚を、骨の髄まで知っていた。かつて異世界で「勇者」と呼ばれ、数多の死線と迷宮を踏破していた時代に幾度となく味わったもの――それは間違いなく、ダンジョンが放つ特有の瘴気だった。


(まさか、この現代日本にダンジョンが発生しているというのか……?)


 病院の薄暗いフロアの奥底、地下かあるいは霊安室のあたりに、異界と現世を接続する歪んだ「入り口」が生じているのは明白だった。街に溢れ出した異形の群れも、単なるウイルス感染ではなく、迷宮の汚染が地上へ溢れ出した結果だとすればすべての辻褄が合う。


 元勇者としての血が、かつての習慣に従って即座に調査へ踏み込もうと騒ぎ立てた。迷宮の主を討ち、発生源を叩くことこそが彼の役目だったからだ。


 だが、響は強く奥歯を噛み締め、湧き上がる戦闘衝動を力づくでねじ伏せた。


(――否だ。今の俺はレベル1の肉体。それに、こいつらがいる)


 振り返れば、肩で息をしながら不安げに自分を見つめる葵、重い荷物を背負って耐える店長、そして怯えを隠せないサラリーマンの青年がいる。今の戦力でダンジョンに足を踏み入れれば、彼らは1分と持たずに肉塊へと変わる。


「……何でもない。先を急ぐぞ」


 響は病院の病棟から強引に視線を切り離し、アスファルトを蹴った。

 目指すべきは当初の予定通り、荒川の河川敷だ。まずはこの3人を安全圏へ送り届け、自らの戦闘力を整えることが先決だった。


 病院の奥底に潜む「何か」を確かめる時が、いずれ必ず訪れる。

 この時、響の皮膚が捉えた戦慄と直感が寸分の狂いもなく正しかったと証明されるのは、もう少し後の話である。


 高島平の防音壁を抜け、首都高の緩やかな傾斜をさらに駆け上がると、視界が一気に開けた。


 目の前に広がったのは、どこまでも続く荒川の広大な河川敷だった。

 コンクリートに覆われた東京の街並みが唐突に途切れ、濁った川面と広大な緑地、そして遥か北西へと伸びる長い土手が視界いっぱいに広がる。


 高架橋のすぐ真下、並行するように走る国道17号線の新大宮バイパスには、放棄されたトラックや乗用車が折り重なるように停止していた。


「ここまで来れば地上の密集地帯は抜けた。だが、この高架をそのまま歩き続けて橋のど真ん中へ行けば、向こう岸で塞がれた時に逃げ場を失う」


 響は欄干へ歩み寄り、下を走る国道の路面を見下ろした。

 高低差は約3メートル。一般的な感覚からすれば骨折を覚悟する高さだが、放置された大型トラックの屋根がちょうど足場になる位置で停止していた。


「あそこのコンテナの上を経由して、下の国道へ飛び移るぞ」


「えっ……!? ま、まさか、こんな高さからですか!?」


 サラリーマンの青年が青ざめて後ずさり、店長も欄干から恐る恐る下を覗き込んで脂汗を流した。


「四の五の言うな! 階段を探してうろついてる暇はない。膝のクッションを使って衝撃を逃せば、トラックの屋根からなら誰でも着地できる高さだ。死ぬ気で跳べ!」


 有無を言わせぬ響の怒号に背中を押され、店長が腹を括ってトラックの屋根へと飛び降りた。鈍い金属音とともに着地し、そのまま滑り台のように路面へと転がり落ちる。続いてサラリーマンが悲鳴を噛み殺しながら跳躍し、葵も響の腕に支えられながら思い切りよく屋根へと身を投げ出した。


 全員が無傷で路面へ着地したのを見届けた響は、一切の躊躇なく欄干を蹴った。

 空中で身を丸め、トラックの屋根を足裏で軽く叩いて勢いを殺すと、音もなくアスファルトへ着地する。


「行くぞ。河川敷へ降りる」


 響を先頭に、一行は国道のガードレールを乗り越え、法面の草むらを滑り降りて広大な荒川の河川敷へと足を踏み入れた。


 草が生い茂る広大な河川敷へ降り立つと、視界の先にぽつぽつと人影が見え始めた。


 響が考えたこと――見通しが利き、市街地より安全な荒川の土手を伝って都外へ脱出するというルート――に思い至った人間は、当然ながら他にも存在していた。放置されたテントやレジャーシートの周り、あるいは水門の陰などに、数家族や単独行の避難者たちが身を潜めている。


 だが、逃れてきた者たちのすべてが善良な避難民であるはずもなかった。


 廃棄された軽トラックの荷台に腰掛け、煙草をふかしていた男3人組が、土手を下りてきた響たちの姿を捉えた。

 作業着やジャージを着崩したその男たちは、疲弊した店長やサラリーマンの姿を一瞥しただけで興味を失い、次いで中央の葵、そして先頭を歩く響の身体へと、ねっとりとした視線を固定した。


 170センチの均整の取れた長身に、引き締まった手足。

 黒いパーカーの隙間から覗く白い肌と、凛々しい美貌。


 男たちの口元に、下卑たニヤついた笑みが浮かぶ。

 法と秩序が完全に崩壊したこの極限状況下で、男たちが向けてきたのは、生存者への共感などではなく、無防備な女を獲物として品定めする剥き出しの欲望そのものだった。


「おいおい……見ろよ。こんなところで上玉が歩いてるぜ」


「後ろの男どもは腰抜けばっかじゃねえか。なあ姉ちゃん、そんな頼りねえ連中といるより、俺たちと一緒に行かないか?」


 金属バットを手にした大柄な男が、ヘラヘラと笑いながら歩み寄ってくる。

 葵が怯えて響の背後に身を隠し、店長とサラリーマンが息を呑んで硬直した。


 だが、響の瞳には一片の動揺も、恐怖の色も浮かんでいなかった。

 冷たい湖面のような双眸で、間合いを詰めてくる男の足取り、重心、そして手首の筋肉の弛緩具合を瞬時に測り、心の中で冷徹に呟く。


(……この世界にも、やはり湧いてくるか。秩序が消えた途端に獣に戻るゴミ共が)


 同時に、響の胸の奥で、猛烈な不快感と嫌悪感がふつふつと湧き上がっていた。

(……チッ。そうだった。この身体、外から見りゃただの『若い女』なんだよな。男にこんなねっとりした目で品定めされるなんざ、前世でも経験したことねえぞ……反吐が出る)

 男の自意識を抱えたまま、女の肉体として性的な視線を向けられる屈辱に奥歯を噛み締め、響は腰の刀の柄へ、音もなく指先を滑り込ませた。


 響は歩調を一切緩めなかった。

 金属バットをぶら下げ、ヘラヘラと笑いながら間合いに踏み込んできた先頭の男に視線すら合わせず、すれ違いざまにその横をただ通り過ぎる。


 男が何かを言いかけ、手を伸ばそうとした刹那。


 銀の閃光が闇を裂くように奔り、直後――パチン、と乾いた硬質な音が河川敷の静寂に響いた。

 響が腰の刀を、親指の腹で鯉口に収め切った音だった。


「……え?」


 男の喉から掠れた呼気が漏れた瞬間、首筋に一本の赤い糸のような細い線が走った。

 次の刹那、男の頭部がズルリと斜めに滑り落ち、重い音を立てて草むらへと落下していった。

 噴き上がった鮮血が夕暮れの川風に舞い、首を失った胴体が、まるで糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ折れる。


「ひっ……!?」

「が、がしら……!?」


 軽トラックの陰でニヤついていた残りの2人が、目玉が飛び出さんばかりに見開き、腰を抜かして泥の中にへたり込んだ。葵たち3人も、目の前で起きた一瞬の斬首劇に息を呑み、言葉を失って硬直する。


 血振りを終えて完全に納刀した響は、振り返ることすらせず、首のない死体を冷淡に見下ろしてぽつりと呟いた。


「あ、すまん。ゾンビかと思って間違えちまった」


 抑揚のない、まるで道端の小石を蹴飛ばしたかのような声音。

 響は冷たい眼光をわずかに横へ流し、震え上がって失禁寸前になっている残りの男2人に突き刺した。


「次は間違えないようにするが……お前たちも、人間で合っているか?」


「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」

「ば、化け物……っ!」


 何事もなかったかのように歩行を再開した響の背中を、3人は戦慄と、圧倒的な頼もしさが入り混じった無言の視線で追うしかなかった。


 逃げ出そうとした男2人の背後へ、響は一歩で間合いを詰めた。

 泥濘んだ草を踏みしめる音が響いた瞬間、逃げ腰になっていた男たちの首根っこを、左右から伸ばされた響の細い両腕が同時に鷲掴みにした。


「がっ……!?」


 そのまま腕力だけで引きずり戻し、軽トラックの荷台の側面へ叩きつける。

 ドォン、と鈍い衝撃音が河川敷に響き、男2人は荷台の泥の上に尻餅をついて震え上がった。


 響はゆっくりと間合いを詰め、黒いパーカーのジッパーに指をかけながら、見下ろすように冷たい視線を落とした。


「お前たち、今のこの状況で随分余裕そうじゃないか。ひょっとして食い物でも溜めてんのか。……出してみろよ」


 低く乾いた声音には、一切の躊躇も容赦もなかった。

 さっきまで獲物を品定めしていた男たちが、今や完全に狩られる側の肉塊として縮こまっている。


「ひ、ひぃ……っ! な、ない、何もないです……っ!」


「嘘をつくな。煙草をふかす余裕があって、バットを振り回して他人に絡むだけの体力があるんだ。この軽トラの荷台か、運転席に隠してあるはずだな」


 響は腰の刀の柄頭で、男の鎖骨の隙間を容赦なく突いた。

 激痛に男が「あぎゃっ」と情けない悲鳴を上げ、隣の男が涙と鼻水を流しながら助手席のドアを指差した。


「あ、足元です! 助手席の段ボールに、コンビニから持ってきた缶詰とペットボトルの水が入ってます! 全部、全部持ってっていいですから……命だけは……っ!」


 響は視線だけで店長とサラリーマンへ合図を送った。


「葵、店長。車内を改めろ。食料と水、それから使えそうな道具を全部回収しろ」


「え、あ……は、はい!」


 店長が恐る恐る運転席へ回り込み、足元に押し込まれていた段ボール箱を引きずり出した。中には大型のサバ缶や焼き鳥の缶詰が十数個、2リットルのミネラルウォーターが3本、それに新品の工具セットや十得ナイフが収まっていた。


「響さん、これ……結構な量があります……!」


「全部持って行け。残す必要はない」


 響は男たちの前にしゃがみ込み、視線を合わせた。

 極限状況下において、敵対意志を見せた相手に情けをかけるなどという愚行は、異世界の戦場でとっくに捨て去っていた。道徳や遠慮で腹は膨れないし、命も守れない。


「いいか。次に俺たちの視界に入ったら、今度こそ完全にゾンビとして処理する。……失せろ」


 男たちは返事すらできず、四つん這いになりながら、蜘蛛の子を散らすように河川敷の下流へ向けて這う這うの体で逃げ去っていった。


「……響さん、あんなことまでして、良かったんですか……?」


 葵が回収した物資を抱えながら、どこか落ち着かない様子で尋ねてきた。

 響は拾い上げた水ボトルのキャップを開け、喉を潤してから淡々と告げた。


「あのまま放置すれば、奴らは別の避難民を襲って食料を奪うか、隙を見て俺たちの背中を刺しに来たはずだ。牙を抜いて物資を奪い、完全に脅威を排除する。この状況下で生き残りたいなら、無駄な道徳観念は真っ先に捨てろ」


 冷徹なその言葉に、店長もサラリーマンもただ黙って頷くしかなかった。

 響は手に入れた物資を全員のリュックに素早く再配分させると、荒川の土手を北西へと見据え、再び迷いのない歩調で先頭を歩き出した。


 荒川の河川敷を吹き抜ける風が、徐々に冷たさを増していた。

 奪い取った缶詰と水をリュックに詰め直した一行の足元で、響は乾いた草むらに広げた道路地図へ視線を落とした。


 夕暮れの鈍い残光の中、響の指先が荒川の青いラインを遡り、西へと分岐する川筋を強く押さえる。


「川越の手前で、荒川から入間川へルートを乗り換える」


 店長とサラリーマンの青年が、息を整えながら地図を覗き込んだ。


「川越……街の中に入るんですか?」


「入らない。駅周辺や中心街のような密集地帯に突っ込むのは自殺行為だ。荒川と入間川の合流点から、そのまま入間川の土手伝いに西へ抜ける。市街地を完全にスルーして、川沿いを伝って進む」


 響の指先は、入間川の南側に広がる広大な空白地帯――狭山市と入間市にまたがる巨大な軍事施設の上で止まった。


「目指す最終目標はここだ。航空自衛隊・入間基地」


 その言葉に、葵が息を呑んだ。


「自衛隊の……飛行場ですか?」


「そうだ。日高の山間部にそのまま逃げ込むより、生存戦略としてのリターンが桁違いに大きい。広大な滑走路と頑丈な外周フェンスに囲まれた完全な軍事区画だ。民間の避難所とは防御性能がまるで違う。もし部隊が防衛線を維持していれば最高レベルの安全圏になるし、仮に壊滅して放棄されていたとしても、中には大量の非常用糧食、医薬品、燃料、そして武器が眠っている」


 警察署で聞いた「政府の沈黙」と「自衛隊の混乱」。その言葉が真実なら、基地がすでに地獄と化している可能性も決して低くはない。

 だが、山の中で餓死と寒さに怯えるよりも、軍事要塞を制圧・確保する方が、圧倒的な生存の基盤を築くことができる。


「荒川を遡上し、入間川へ入り、狭山を目指す。入間基地が生きている砦か、物資の宝庫か、あるいは地獄の底か――土手の上から見極めて判断する。行くぞ」


「はい!」


 響の迷いのない宣言に、全員の腹が決まった。


 背負い直した荷物の重みを噛み締めながら、4人は再び隊列を組んだ。

 先頭を行く響の双眸は、薄暗くなり始めた河川敷の遠方、冷たい水面が反射する微かな光を捉え、一切の揺らぎなく北西へと向けられていた。


 板橋を脱出してから、実に10日の月日が流れていた。


 崩壊した幹線道路を避け、荒川から入間川の土手を伝い、時に山裾の起伏を大きく迂回しながら進む行軍は過酷を極めた。


「補給」と呼べば聞こえはいい。

 だが実情は、乗り捨てられた無人の車両をこじ開け、荒れ果てた無人直売所や放棄された民家の台所に踏み込み、賞味期限の切れかかった缶詰や乾麺、泥のついた根菜を文字通り「調達」し続ける略奪紛いの綱渡りだった。

 法と秩序が死滅したこの御時世において、遠慮や良心の呵責など持ち合わせていれば、とっくに餓死して路上に転がっている。


 そして、肉体的な過酷さ以上に響を精神的に削り続けたのは、この「女の身体」という不条理の塊だった。

 野営のたび、無意識に立ち小便をしようとしてハッと我に返り、草むらで腰を下ろしながら「……クソが、いちいち面倒くせえな!」と一人で毒づく羽目になる。

 さらに厄介だったのが葵の存在だ。

「響さん、水浴び代わりの濡れタオル、一緒に使いましょうか! 背中流しますよ!」

「ばっ、馬鹿野郎寄るな! 俺の背中には触るな!」

「ええっ!? 同じ女同士なんだから減るもんじゃないでしょうに、響さんって意外とウブなんですね……ふふっ」

「ウブとか言うな! あっち行ってろ!」

 同じ女として完全に警戒を解いて無防備に迫ってくる葵に対し、精神が男のままの響は、毎日顔を真っ赤にして脂汗を流しながら逃げ回るという不条理な拷問を受け続けていた。


 響の徹底した索敵と冷徹な判断により、4人は一度も群れに捕捉されることなく、致命的な負傷者を出すこともなく、ついに目的地の入間市へと到達した。


 10日間の死線行軍を経て、一行の佇まいは見違えるほど変貌していた。

 葵の顔つきからは怯えが消え、短刀を構える手つきには迷いがなくなっている。店長とサラリーマンの青年も、重い背嚢を背負いながら泥と汗にまみれ、無駄な音を一切立てずに響の歩調に追従する体力を身につけていた。


 入間川の堤防の傾斜に身を伏せ、響は双眼鏡代わりの鋭敏な視線で南東の方角を見据えた。


 広大な敷地を取り囲む、何重もの高圧有刺鉄線フェンス。

 その向こうには、どこまでも平坦に伸びるコンクリートの巨大な滑走路と、格納庫の鈍い影が横たわっている。


 航空自衛隊・入間基地。


 10日をかけて辿り着いたその最終目標の敷地内には、異様な静寂が重く垂れ込めていた。警報のサイレンも、銃声も、動く航空機のエンジン音も聞こえない。


 響は腰の刀の鯉口をわずかに緩め、背後の3人へ低く囁いた。


「見えたぞ。入間基地だ」


 入間基地の外周を囲む頑丈な防護フェンスの陰に身を潜め、響たちは基地内部の様子を慎重に窺った。


 広大な敷地内には、大型輸送機C-2の巨躯が数機、滑走路脇のエプロンに翼を休めて佇んでいた。しかし、基地業務群の隊員たちが慌ただしく行き交う姿も、車両が巡回する様子も見当たらない。常時4,300名を超える人員が詰めているはずの国内最大の輸送拠点にしては、あまりにも静まり返っていた。


「響さん……本当に誰もいないんでしょうか?」


 葵が息を潜めて囁く。


「いや、完全に放棄された廃墟の気配じゃない。外周のゲートやフェンスに破壊の痕跡がないのがその証拠だ。外から侵入するぞ」


 響を先頭に、有刺鉄線の切れ目を探して敷地内へ滑り込もうと足を踏み入れた、その瞬間だった。


「――そこまでだ! 動くな!」


 鋭い怒号が鼓膜を打った。

 同時に、数十メートル前方の土嚢で組まれた簡易陣地から、迷彩服を纏った複数の人影が身を起こした。手にした89式5.56mm小銃の黒光りする銃口が、寸分の狂いもなく響たちの頭部へ向けられている。


 店長とサラリーマンが「ひっ」と短い悲鳴を上げて両手を挙げ、葵も硬直した。


「一体貴様らは何者だ! これ以上の接近は警告なしに発砲する!」


 防弾チョッキとヘルメットを装着した基地警備隊員が、張り詰めた声で誰何を浴びせてくる。銃を構える手には僅かな疲労の色が滲んでいたが、引き金にかかる指に容赦はない。


 響は両手を肩の高さまで緩やかに上げ、一切の敵意がないことを姿勢で示しながら、冷静に声を張った。


「怪しい者ではない! 我々は板橋方面から徒歩で逃れてきた避難民だ。市街地は完全に崩壊し、都外へ脱出してきた! ここで匿ってほしい!」


 無駄な嘘や懇願を挟まず、生存者としての事実のみを端的に伝えた響の返答に、小銃を構える隊員たちの間に僅かな動揺が走った。


「板橋から……? 徒歩でここまで生き残ってきたというのか……」


 隊員同士が短く視線を交わし、無線機で後方と何事か連絡を取り合った。数秒の後、指揮官と思しき先頭の隊員が銃口をわずかに下げ、手信号で合図を送った。


「……武器をすべて地面に置け。全員、両手を上げたままゆっくりこちらへ来い。これより感染検査と身体検査を行う。指示に従うなら中へ入れてやる」


「了解した」


 響は即座に腰の短刀を外し、足元へ滑らせた。

 10日間に及ぶ過酷な行軍の果てに、一行はついに自衛隊の厳重な防衛線――入間基地の内部へと足を踏み入れる権利を勝ち取った。


 現場の天幕へ連行された響たちの前に現れたのは、襟元に3等空佐の階級章を付けた、目の下に濃い隈を刻んだ30代後半の男だった。


「俺は第2基地防空隊所属の3佐、真鍋だ。……板橋から徒歩でここまで来たというのは本当だな?」


 基地司令をはじめとする将官クラスは、都内から避難してきた政府要人らを交えた対策本部で連日缶詰になっており、現場の避難民対応や隔離判断はすべて現場指揮官であるこの真鍋3佐らに一任されていた。


「本当だ。荒川と入間川の土手を伝って10日かけて踏破した」


 響の淀みない返答と、同行する3人の泥にまみれた装備を検分した真鍋は、小銃を降ろした部下たちへ鋭く指示を飛ばした。


「隔離ハンガーへ通せ。体温測定、外傷の有無、瞳孔反応を検査する。……感染の兆候が1つでも出れば、即座に射殺だ。ついてこい」


 響は無言で頷き、自衛隊員に前後を挟まれながら、重々しいシャッターの奥へと足を踏み入れようとした――が、直後に待っていたのは響にとって最大の屈辱だった。


 隔離テントで女性医官から「全身の衣服を脱いで外傷がないか見せてください」とカーテンを閉め切られた瞬間、響は「だ、脱ぐわけねえだろバカ野郎!」と反射的に怒鳴りつけ、医官を青ざめさせた。

「感染確認の必須手順です! 暴れるなら警備を呼びますよ!」「触るな! 傷なんかねえよ!」「服を脱ぎなさい!」という壮絶な押し問答の末、結局、葵に「響さん、検査なんだから我慢してください!」と羽交い締めにされ、真っ赤な顔で涙目になりながら下着姿を晒す羽目になった。


 体温測定、瞳孔の対光反射、そして全身の皮膚に及ぶ厳密な外傷確認を終え、検査を担当した医官が真鍋3佐へ小さく頷いた。


「4名とも感染兆候なし。体温平熱、噛み傷・引っ掻き傷等の接触痕も一切認められません」


「……よし。隔離区画への移動を許可する」


 真鍋の合図で、葵と店長、サラリーマンの3人は緊張の糸が切れたように肩を落とし、誘導の隊員に従って歩き出そうとした。


 だが、パーカーのジッパーを喉元まで力任せに引き上げ、屈辱で真っ赤になった顔を背けて立ち去ろうとした響を、真鍋の鋭く低い声が背後から呼び止めた。


「おい、そこのお前――ちょっと待て」


 響は足を止め、無言のまま振り返った。

 真鍋は他の隊員を手で制して下がらせると、無骨な軍用ブーツの音を響かせて響の前まで歩み寄り、その顔を間近で見据えた。


「……なあ、お前。その見た目で、さっきから随分と落ち着いた男みたいな口調だな。何か理由でもあるのか?」


 唐突な問いに、響は表情ひとつ変えず、冷ややかな視線を返した。


「あんたに関係のある話か。要件は何だ」

「……可愛げのない奴だな」


 真鍋は小さく肩をすくめたが、すぐに鋭い眼光を取り戻し、響の立ち姿を値踏みするように見つめた。


「まあいい、他人の口調に首を突っ込む趣味はない。お前……『覚醒者』なのか?」


 投げかけられた単語に、響の視線がわずかに鋭さを増した。


「どういう意味だ」


「とぼけるな。板橋の都心部からここまで、一般人3人を無傷で引き連れて10日間踏破しただと? 正規の訓練を受けた空挺やレンジャー部隊の斥候ですら、地上のあの化け物の群れを抜けて生還できる確率は1割を切る。それを民間人の女と中年男を連れて全員無傷だと? 只者で通るわけがない」


 真鍋は腰の拳銃ホルスターから手を離さぬまま、乾いた笑みを浮かべた。


「あの異変が起きてから、全国で一部の連中に現れている現象だ。突然、超人的な膂力や身体能力を発揮し始め、化け物を素手や刃物で屠る規格外の人間が報告されている。上の連中や研究機関はそいつらを『覚醒者』と呼んで隔離・徴用を進めている。……お前が背負っているその抜き身の刀、血脂は綺麗に拭ってあるが、数百体の肉と骨を断ち切った臭いが染み付いて消えていないぞ」


 真鍋の双眸には、疑念と警戒、そして喉から手が出るほど戦力を欲している軍人特有の切迫した光が宿っていた。


「その覚醒者という言葉は初耳だな。どういう基準でそう呼んでいる」


 響が淡々とした口調で問い返すと、真鍋は値踏みするように目を細め、小さく鼻を鳴らした。


「本当に自覚がないのか、それとも隠しているのか……まあいい。見極め方は単純だ。上層部と研究班が定めた明確な基準がある」


 真鍋は部屋の隅に置かれたスチール棚から、頑丈な金属製のケースを引きずり出し、中から無骨な計測器と厚手の鋼板を取り出した。


「第1に、筋力・破壊力の異常値測定だ。お前のような細身の体躯で、鍛造鋼のプレートを拳や指先の握力だけで歪ませられるか。第2に、バイタルと反射神経の異常値。通常の人間の神経伝達速度を完全に逸脱した反応速度が出る。そして第3が、これだ」


 真鍋がケースから取り出したのは、密閉されたホルダーに収まる1本の小型カートリッジだった。先端に微細な採血針と、青黒い試薬が充填された検査キットだ。


「指先から血を1滴採取し、この不活化した侵食因子の試薬と反応させる。一般人なら試薬の魔力成分に血中の細胞が破壊されて即座に黒変するが、覚醒者なら体内の未知の免疫――あるいは生体エネルギーが、試薬の毒性を完全に無力化して透明のまま維持される」


 真鍋は鋼板と検査カートリッジを響の前の作業台に置き、値踏みするように腕を組んだ。


「常人離れした身体能力だけなら、ただの超一流アスリートや武術の達人で片が付く。だが、異変の元凶である『あの力』に対して絶対的な耐性を持っているかどうか――それが、自衛隊が覚醒者と一般人を分かつ絶対の境界線だ。試してみるか?」


「身体能力の測定なら付き合ってやるが、その採血は断る。自衛隊に俺の生体データを渡して、後から管理されたり実験台にされる筋合いはないからな」


 響が真顔で、しかしどこかからかうような軽口を返した瞬間、張り詰めていた室内の空気がピシリと凍りついた。


 真鍋はぽかんと口を開け、数秒の沈黙の後、額に青筋を浮かべて深いため息を吐き出した。


「……妙に勘が鋭いな。まあいい、採血を強制するまでの権限はこっちにもない。貴重な研究検体を無駄に消費したくもないしな」


 真鍋はカートリッジをケースへ乱暴に仕舞い込むと、代わりに金属製の握力計と、旧式の反射速度測定器を作業台の上にドンと叩きつけた。


「いいだろう。なら第1と第2のテストだけで判断してやる。まずはこの握力計を握り潰す勢いで握れ。それから、さっき置いた鍛造鋼板に素手でどれだけ痕をつけられるか見せてもらおうか。並の人間なら指の骨が砕けるだけで終わりだが……お前のその細腕で、どこまで記録が出るか見ものだな」


 周囲の小銃を構えた隊員たちも、息を呑んで響の手元を凝視している。


 響は軽く手首を回し、白くしなやかな指先を測定器の金属グリップへと滑らせた。

 レベル1とはいえ、元勇者としての肉体スペックは健在だ。力の数値は78。通常の人間の数倍に達する膂力を、この計器がどう記録するか――響は口元に微かな笑みを浮かべ、指先に力を込めた。


 響は金属製の測定器を指先で軽く挟むと、まるで乾いた枝でも折るかのように、ほとんど力みすら見せずに指を握り込んだ。


 ――バキッ、メキメキッ!


 耳障りな金属破壊音が天幕内に響き渡った。

 頑丈な業務用の握力計が、文字盤の強化ガラスごと飴細工のようにひしゃげ、内部のスプリングと歯車が歪な音を立てて弾け飛ぶ。


 響は平然とした顔で壊れた計器の残骸を作業台に落とし、そのまましなやかな指先を伸ばした。整えられた爪先を、銃弾すら弾き返す厚さ数センチの鍛造鋼板の表面へ押し当てようとした、その瞬間――


「――待て! やめろ、もういい!」


 真鍋は顔面を蒼白にし、裏返った声を張り上げて響の手首の前へ身を乗り出した。

 天幕を警護していた隊員たちも、銃を構えたまま目を見開き、息を呑んで硬直している。


 常識的に考えれば、成人男性が全体重をかけてもビクともしない厚手の鋼板である。だが、目の前の女が本気で爪を突き立てれば、鋼の板ごと作業机がバターのように貫通されるという確信めいた恐怖が、真鍋の本能に警鐘を鳴らしていた。


「……測定器を素手で握り潰した上に、防弾鋼板を爪で穿とうとする奴が普通の人間なわけがあるか……っ」


 真鍋は額に滲み出た脂汗を手の甲で乱暴に拭い、ひしゃげた測定器の残骸を震える手で検分した。針は200kgの計測限界を遥かに振り切り、軸ごと粉砕されていた。


「確定だ。……お前、間違いなく『覚醒者』の上位指定個体だぞ」


 真鍋の視線から、先ほどまでの侮りや疑念は完全に消え去っていた。

 そこに残されていたのは、圧倒的な異能を前にした軍人としての戦慄と、この絶望的な戦況を覆し得る「兵器」を見出した男の、ギラついた野心と困惑の入り混じった眼差しだった。


「やめてくれるか。こんな可憐な乙女に対し、そんな化け物を見るような目で見るのは」


 響が冷ややかな視線のまま、肩をすくめて真顔で言い放った。


「お前、ふざけてるのか? 笑えねえジョークだぞ」


 真鍋の喉から、掠れた怒声が絞り出された。


「金属製の計測器を片手で粉砕した直後に『可愛い乙女』だと……!? どんな顔して言ってやがる! 冗談ならもっと笑えるやつを持ってこい!」


 真鍋はひしゃげた計器を乱暴に机の端へ押しやり、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。周囲で小銃を構えていた隊員たちも、呆気にとられて引き金から指を緩めている。


「……まあいい。理由は何であれ、お前のその規格外の戦闘力は本物だ。これで上の連中に提出する報告書は書ける」


 真鍋は腕を組み、軍人としての厳しい眼光を取り戻して響を睨み据えた。


「確認だが、お前、その力を基地の防衛のために使う気はあるか? 当然、タダ働きとは言わん。連れてきた3人の安全と食料の完全保障、それにお前自身への特別配給枠を約束する。この入間基地は今、喉から手が出るほど『戦える手駒』を欲しているんだ」


「まあ、手伝う程度ならいいな。拘束されるっていうんならお断りだ。ある程度の自由は約束させてもらうよ」


 響が淡々とした口調で条件を突きつけると、真鍋は苦々しい表情を崩さずに短く息を吐いた。


「上等だ。軍の規律で縛り上げようとして、お前みたいな規格外に基地の中で暴れられたら敵より先にこっちが崩壊する。お前の行動の自由はある程度保証する。その代わり、基地の外周防衛ラインへの応援要請と、重要物資の回収任務には優先して協力してもらうぞ」


 真鍋はデスクの引き出しから、赤褐色のプラスチック製IDプレートを1枚取り出し、机の上に放り出した。


「それは特別協力者用の仮IDだ。隔離エリアを出て隊員用の宿舎区画へ入れる。連れの3人には安全な民間人収容ハンガーを用意し、一般避難民の倍の食料配給を回すよう手配しておく」


 響は手元のプレートをつまみ上げ、指先で弄びながら言った。


「話が早くて助かる。まずは連れに飯を食わせて、横になれる場所を用意してくれ。10日間泥水をすすって歩いてきたんだ」


「手配は済んでいる。おい、案内しろ」


 真鍋の指示を受けた部下が直立不動で敬礼し、天幕の出口を開けた。

 葵、店長、サラリーマンの3人が誘導され、響もその後ろに続いて歩き出す。


 足を踏み出した基地のメインストリートには、夜間管制の薄暗い非常灯が点滅していた。

 広大な滑走路を吹き抜ける夜風の中に、遠く埼玉の闇から漂ってくる腐敗の臭気と、不気味に蠢く気配が混ざり合っている。


 響は懐のIDをポケットに押し込み、腰の刀の鯉口を親指で軽く押さえ、並んで歩く真鍋を横目で見た。


「話は変わるが。この世界にダンジョンってあるのか?」


 響が何気ない調子で問いを投げかけた瞬間、真鍋の身体が目に見えて硬直した。


「……な、なぜそのことを知っている?」


 真鍋の目が丸く見開かれ、表情から余裕が完全に消え失せた。先ほど響が金属の測定器を素手で握り潰した時以上の、純粋な警戒と動揺がその顔に張り付いている。


 響は肩をすくめ、視線を逸らしながら平然と答えた。


「いや、こっちに来る途中に病院の雰囲気が怪しくてな。なんとなくそんな気がしたんだよ」


「病院だと……?」


 真鍋は額に手を当て、信じられないといった様子で低く唸った。


「勘だけでそこまで察知したというのか……。その通りだ。公には伏せられているが、都内や主要都市の大型総合病院、地下鉄網の深部、あるいは地下施設を中心に、空間が歪んだとしか思えない『侵食領域』が発生している。防衛省や研究班はそれを符丁で『ダンジョン』と呼称している」


 真鍋は周囲に聞こえないよう声を潜め、響の耳元へ顔を寄せた。


「奴ら――感染者や変異種どもは、ただの病原菌で生まれたわけじゃない。その地下の『ダンジョン』から湧き出し、地上を汚染している元凶なんだよ。……お前が通りがかりに見た病院も、すでに巣穴の1つに変わり果てていたに違いない」


「なるほど。中の腐敗した魔物、つまりグールか何かが病原菌の元ということか。そいつらを駆逐しない限りはこの騒動は収まらないな」


 響が淡々とした口調で結論付けると、真鍋は険しい表情のまま深く頷いた。


「グール、か……。神話やゲームの怪物のような呼び方だが、実態はまさにそれだ。防衛省の研究班が回収した初期の検体からも、既知のいかなるウイルスや細菌とも異なる、腐敗組織を急速に活性化・増殖させる未知の汚染因子が検出されている。地上でいくら感染者を間引いたところで、地下の発生源から次々と変異体が這い出してくる以上、蛇口を開けたまま床を拭いているようなものだ」


 真鍋は腕を組み、基地の地下施設が集中する庁舎の方角へ視線を向けた。


「上層部もその結論には至っている。だが、通常の小銃弾や砲爆撃では侵食領域の深部を破壊できない。内部の『核』――あるいは元凶を直接叩くための戦力として、お前のような覚醒者を血眼になって探していたんだ。もしこの基地の防衛線が安定したら、いずれ近隣のダンジョン制圧部隊への同行を要請されることになるぞ」


 響は薄く口角を上げ、懐の仮IDを指先で弾いた。


「元凶を叩けば終わる話なら、方針としては単純で分かりやすい。手伝いの条件に『ダンジョンの戦利品は山分け』も追加しておいてくれ」


「……冗談がきついな。化け物の巣穴を物資の宝庫か何かと勘違いしてやがる」


 真鍋は呆れたように首を振ったが、その目には絶望的な現実に一筋の突破口を見出したかのような、確かな光が宿っていた。


 響はニヤッと口角を釣り上げながら、真鍋に聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた。


「そうなんだよ、資源の宝庫なのさ」


 元勇者にとって、魔物の巣窟であるダンジョンは恐怖の対象などではない。

 高純度の魔力を宿す素材、未知の鉱石、常識外れの効果を持つ武具、そして何より己のレベルを跳ね上げ、凍結されたスキルを解き放つための最良の狩場だった。


 真鍋は怪訝そうに響の横顔を睨みつけた。


「……何を企んでるか知らんが、常軌を逸した奴だ。死にたがりでないことだけを祈るぞ」


「安心しろ。俺ほど命に執着している人間はいないよ」


 宿舎棟の前で真鍋と別れ、響は誘導の隊員が待つ宿舎区画の通路へと歩き出した。

 後方から駆け寄ってきた葵が、心配そうに響の顔を覗き込む。


「響さん、自衛隊の人と何を話していたんですか……?」


「今後の飯の調達先が決まったって話だ。葵、店長、サラリーマン。今夜は泥のように眠れ。基地のベッドが使えるうちに、体力を限界まで戻しておくんだ」


「は、はい!」


 3人は安堵したように表情を緩め、割り当てられた避難ハンガーの簡易ベッドへと雪崩れ込んでいった。


 響は一人、宿舎の冷たい鉄パイプベッドに腰を下ろすと、薄暗い天井を見つめながら意識を集中させた。

 網膜の裏側に、青白く半透明のステータスウィンドウを呼び出す。


【ステータス】

 ・名前:アンドウ ヒビキ

 ・レベル:1

 ・体力:115/115

 ・魔力:12/600

 ・力:78

 ・敏捷性:85

 ・持久力:80

 ・知力:58

 ・精神力:92


【特殊機能】

 ・アイテムボックス(制限中)


【スキル】

 [身体強化]未開放

 [剣術]未開放

 [気配遮断]未開放

【絶対防御】未開放

【状態異常完全無効】未開放

【精神干渉完全耐性】未開放

【不老】未開放

【鑑定】未開放

【看破】未開放


「やはり、ダンジョンが存在するなら話は早い」


 響は小さく握りこぶしを作った。

 この世界の軍隊が恐れ慄く「侵食領域」に潜り、元凶である腐敗の魔物を狩り尽くせば、魔力もスキルも急速に取り戻せる。

 国家や軍がどう崩壊しようと、己が頂点に立ちさえすれば、この腐った世界で生き残る主導権は完全にこちらの手元に握ることができる。


 遠く基地の外周から、夜の闇を切り裂く威嚇射撃の乾いた銃声が響いてきた。


 板橋から入間までの10日間、道中で首を刎ね飛ばし、頭蓋を叩き割ってきた感染者――地上のゾンビどもの数は優に3桁を超える。だが、ステータスの数値は1ミリも動かなかった。経験値の概念すら反応せず、レベルは「1」のまま固定されている。


「地上のゾンビどもは、あくまで魔力汚染で腐敗した元人間……ただの生体端末にすぎないってことか」


 経験値として魂に還元される「本物の魔力」を宿していない以上、いくら間引いたところでレベルが上がらないのは道理だった。


「だが、ダンジョン内部のモンスターなら話は別だ」


 異世界の理(ことわり)で言えば、ダンジョンという閉鎖空間そのものが濃厚な魔力の吹き溜まりであり、そこで自然発生、あるいは変異した純粋な魔獣・魔物には、高密度の魔力結晶と経験値が内包されている。


「地下の巣穴に蠢く純然たる魔物――グールなり、変異獣なりを直接狩れば、経験値が入り、止まった歯車が回り出す可能性がある」


 レベルが上がりさえすれば、未開放のままである[身体強化]や[剣術]、そして何より【絶対防御】や【鑑定】のロックが外れるはずだ。


「自衛隊が恐れるダンジョンとやら、試してみる価値は十分にあるな」


 響の唇が、冷酷な狩人のそれへと歪んだ。

 単なる人助けや基地防衛のボランティアなどする気は毛頭ない。自衛隊の補給と情報網を盾に使いながら、地下の魔物を刈り取り、己の力を完全に取り戻す――そのための道筋が、響の頭の中で明確な戦略として組み上がっていった。

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