37話:葵の死
響の足音が第3フロアへと続く回廊の奥へと消え、第2フロアの大ホールには、500名の回収要員による慌ただしい靴音と、背嚢に擦れ合う魔石の乾いた硬質音だけが響いていた。
直径100mを超える切石のドーム。
中央の搬送ライン脇に陣取った御子柴は、迷彩戦闘服に防弾ベストを着込んだ姿のまま、手元の端末で各梯団の回収ログを監視しつつ、周囲の死角へ鋭い視線を配っていた。腰には自衛官の規定装備であるグロック19やSIG P320コンパクト9mm拳銃、そして肩から下げた『魔導増幅メディックポーチ』のファスナーは、緊急時に備えて半開きに保たれている。
その数歩先、アーチ通路を背にして、葵が漆黒のモーニングスターを構えて立っていた。
幾度かの魔獣肉の摂取を経て変貌したその立ち姿には、かつての華奢な少女の面影はなく、歴戦の前衛に匹敵する重い重心が宿っている。
「御子柴さん、回収ラインのペースはどうですか?」
「順調よ、葵ちゃん。すでに全体の4割が搬出ルートに乗っているわ。……でも、少し気味が悪いくらい静かね」
御子柴が眼鏡のブリッジを押し上げた、その瞬間だった。
空気が、かすかに引き攣つる。
切石の冷たい空間を満たしていた魔力濃度が、気圧の抜けるような圧迫感とともに不気味に沈み込む。
視界の端の光景が水底のようにゆらりと歪み、音もなく現れた異形の影が、回収作業の隙間へとぬるりと滑り込んでいた。
異変は、回収ラインの最後尾から始まった。
大ホールの隅、切石の角柱の影で作業していた州兵の1人が、ふっと動きを止めた。声も上げず、ただ背中を丸めたまま、柱の向こう側の暗がりへ吸い込まれるように、ぬるりと足元を引きずられていく。
カラン……。
手元からこぼれ落ちた魔石が、石畳を乾いた音で転がった。
「……第3班、手を止めない――」
御子柴が視線を向けた、その刹那。
兵士の姿は掻き消え、彼が立っていた石柱の陰から、黒いタールのような濡れた影が床の亀裂を伝って這い出していた。
切石の模様を歪ませ、影がゆっくりと立ち上がる。
冷たい石の床へ染み出すように現れたのは、濡れそぼった漆黒の甲殻と、異様に湾曲した4本の歩脚。その背中には毒針の束が脈打ち、光を吸い込むような闇の中で、無数の赤い複眼がギラリと灯った。
巨大な前鎌が、音もなく次の作業員の首元へ振り下ろされる。
「全員伏せろッ! 柱から離れなさいッ!!」
御子柴の悲鳴に近い号令が、静まり返った大ホールを切り裂いた。
――【ニードル・アシッド・マンティス】。
体長4mを超える、漆黒の甲殻と長大な前鎌を備えた変異統率個体。
ギシャァァァッ!!
空気を切り裂く金属的な咆哮とともに、天井や柱の死角から取り巻きの大型ハイエナ型魔獣が十数頭、一斉に雪崩れ込んできた。
響の気配が遠ざかった瞬間を狙い澄ました、完璧なアンブッシュ(奇襲)。
「敵襲ッ! 後方へ下がれ! 荷物を捨てて外へ走れッ!!」
御子柴の怒号が響いた。
州兵たちの悲鳴が上がり、持ち上げたばかりの魔石コンテナが床へ散乱する。
巨鎌を振り上げたネームド魔獣が、逃げ遅れた作業員の背後へ向けて超高速の薙ぎ払いを放った。
「――あっ、あぶないっ……!」
石畳を蹴り砕く鋭い踏み込み。
葵が作業員と怪物の間に強引に割り込み、両手で握り締めた漆黒のモーニングスターを、腰の回転とともに下からカチ上げた!
ガギィィィンッ!!
火花が周囲を真昼のように照らし出す。
剛体シャフトから叩き込まれた渾身の打撃が、怪物の右鎌を真っ向から弾き飛ばした。
だが、相手は十条の雑敵とは次元が違う。跳ね返された衝撃を吸収するように巨躯が反転し、逆側の左鎌が葵の脇腹へカウンターで叩き込まれた。
ドカァッ!
「きやぁ……あぁっ!……っ……いた、い……っ」
防刃アーマーごと吹き飛ばされた葵が、石畳を5m滑って膝をつく。耐久38のおかげで即死や内臓破裂こそ免れたものの、衝撃で肋骨がきしみ、右肩の筋肉が激しく痙攣した。
「葵ちゃんッ!」
迷彩戦闘服に身を包んだ御子柴が即座に駆け寄り、肩のメディックポーチから引き抜いた手のひらを、震える葵の背中へ押し当てた。
「【鎮痛結界】――息を吸って、葵ちゃん!」
淡いエメラルドグリーンの光が爆ぜ、骨を軋ませていた激痛が一瞬で引いていく。
手のひらから溢れ出した淡い光が、葵の背中へ染み込んでいく。
激痛がすっと引き、葵が息を呑んだ。
「痛みが……ない……?」
「感覚を麻痺させただけよ! 骨に響いてるから、無理に大振りしちゃ駄目! ……防衛班、散開! 脚を狙って牽制弾幕!」
御子柴の指示で、防衛班が一斉に魔導銃の引き金を引く。
青白い閃光が怪物の硬い甲殻を叩くが、その隙間を縫うように、取り巻きの獣が3頭、背後の州兵たちへ牙を剥いて飛びかかった。
「しまっ――」
防衛班の銃口は間に合わない。葵もまだ立ち上がれない。
御子柴は迷わず、右腰のホルスターから9mm拳銃を引き抜いた。
(響さんのと違いアダマンタイトでもない通常鋼鉄……もって数発だわ……!)
御子柴は歯を食いしばり、グリップを握る両手から銃身へと一気に魔力を注ぎ込んだ。
(もって数発……!)
キィン、とスライドが異様な高熱を帯び、手のひら越しに金属の悲鳴のような軋みが伝わる。魔力の負荷に耐えきれず、内部の機構が焼き切れようとしていた。
パンッ! パンッ!
青白い閃光をまとった銃弾が、飛びかかってきた獣の口腔と前足を撃ち抜く。
ギャンッ、と甲高い悲鳴を上げて1頭がもんどり打って転倒した。
だが、手元でカチリと不吉な金属音が響いた。
スライドの側面に、肉眼でもはっきりとわかる細い亀裂が走っている。
「(あと2発……撃てば薬室が吹き飛ぶ……!)」
取り巻きを蹴散らしたネームド魔獣が、再び葵へ向けて毒針を逆立てた。
御子柴は左腕の通信機を口元へ引き寄せ、全周波数へ向けて怒号を叩き込んだ。
「響さん、第2フロアでアンブッシュ!! 中級上位の統率個体、取り巻き多数! 私たちの火力ではこれ以上持ちません、お願いです助けて!!」
『――15秒だ』
ノイズ混じりの通信機から、低く、一切の揺らぎのない声が返ってきた。
『葵、御子柴。5秒耐えろ、すぐ着く』
「15秒……ッ! 葵ちゃん、合わせなさい! 15秒耐え抜くわよ!!」
「はいっ!!」
激痛を遮断された葵が、再び漆黒のモーニングスターを両手で握り締め、雄叫びとともに石畳を蹴った。
御子柴も破損寸前の拳銃を構え直し、残された自身の魔力残量を計算しながら、迫り来る魔獣の群れを鋭い眼光で見据えた。
◇
突進してくる獣の群れに、御子柴は両手で構えた銃口を向けた。
一撃で急所を仕留めるような神業はできない。魔力を注ぎ込みながら、引き金をがむしゃらに引き絞る。
パンッ、パンッ、パンッ!
連続する乾いた破裂音。放たれた弾丸は石畳を跳ね、硬い背中を削り、3発目でようやく先頭の獣の咽喉を撃ち抜いて沈めた。
息を吸う間もなく、すぐ左から別の1頭が牙を剥いて飛びかかってくる。
パンッ! パンッ! パンッ! カチリ――。
撃ち落としたと同時に、金属のスライドが後退したまま固定された。弾切れ。
銃身から立ち上る白煙が焦げた匂いを放ち、亀裂の入ったスライドは今にも砕けそうに熱を持っている。
「っ、マガジン……!」
御子柴はマガジンキャッチを押し込み、空の弾倉を床へ落とした。
震える左手を腰のポーチへ伸ばし、予備マガジンを引き抜いて挿入口へ宛てがう。
その刹那――背後から黒い質量が突風のように迫った。
ドッ!!
「あぐっ……!?」
ネームド魔獣が薙ぎ払った巨鎌の峰が、御子柴の左腕を真横から強打した。
激しい破砕音とともに差し込み口からマガジンが宙へ弾き飛ばされ、切石の床を遠く転がっていく。打ち据えられた御子柴の左腕は異様な角度に歪み、激痛に視界が真っ白に染まった。
よろめいた御子柴の胸元へ、怪物のもう片方の前鎌が、必殺の切っ先を向けて一直線に突き出される。
「御子柴さんッ!!」
痛みを堪えて這い上がった葵が、横合いから無理やり割り込んだ。
モーニングスターの柄を両手で掲げ、その長大な切っ先を遮るように身体をねじ込む。
ザシュッ――!
防刃ベストを容易く貫通した漆黒の刃先が、葵の右腹部を深々と貫いた。
「が、ぁ……っ!?、あっ...あぁぁあ...」
口から鮮血がこぼれ落ちる。
貫通した鎌の切っ先が背中から突き抜け、葵の細い身体が冷たい石畳の上へと縫い止められた。
「あ……、葵ちゃんッ!!」
折れた左腕の激痛を忘れ、御子柴は這うようにしてすがりついた。
怪物が引き抜こうとする直前、貫通した鎌の腹へ無我夢中で体当たりし、床に縫い止められていた葵の身体を力任せに引き剥がす。
ドサリと石畳に崩れ落ちた葵の腹部から、おびただしい鮮血が溢れ出し、冷たい床を黒く染めていく。
「葵ちゃん、目を開けて! 息をして!!」
震える右手でメディックポーチをまさぐり、掌を傷口へ押し当てた。
淡い光が掌から溢れ、必死に魔力を注ぎ込む。だが、御子柴の使える初期治癒魔法は、あくまで肉体の自然治癒力を一時的に高める対症療法に過ぎない。内臓まで達した致命的な刺突創を、即座に塞ぎ切る力はなかった。溢れ出る血は止まらず、傷口を覆う御子柴の指の隙間からどくどくと溢れ出していく。
「嘘……止まりなさいよ……! 止まりなさいッ!!」
ギシャァァッ!!
獲物を奪われたネームド魔獣が怒りに複眼を光らせ、再び血塗られた巨鎌を振り上げる。
「前衛、盾を合わせろ!」
防衛班の覚醒者たちが横合いから雪崩れ込み、2人の前に割り込んだ。
鍛造鋼の大盾を構えた2名が肩を寄せ合い、漆黒の鎌を迎撃すべく身構える。
ガギィィィンッ!!
激しい金属打撃音が石室に反響した。
巨鎌の重撃を受け止めた大盾の表面が大きく凹み、火花が激しく散る。覚醒者の肉体強化をもってしても受け止めきれず、盾役の男たちの足が石畳を削りながら後方へ押し戻された。
「ぐ、あぁッ!?」
「槍、横から目を突け! 押し返せッ!!」
後続の覚醒者が長槍を繰り出し、怪物の関節部と複眼を牽制するように突き立てる。しかし硬質な甲殻に弾かれ、刃先は虚しく滑った。圧倒的な膂力の差に、組んだ陣形が今にも瓦解しようとしている。
「2班、負傷者を抱えて下がらせろ! ここは長く持たん、早くしろッ!!」
◇
石造りの通路を切り裂くように駆け込んできた響の足が、現場の手前で急制動をかけた。
一拍、世界から音が消えた。
網膜に焼き付いたのは、惨憺たる現場の有様だった。
石畳を広大に浸す赤黒い血の海。そのただ中で、御子柴が異様な角度に歪んだ自らの左腕を抱え込み、膝をついて肩を激しく震わせている。
その胸元に抱きかかえられていたのは――葵だった。
防刃ベストの腹部を無残に食い破った大穴から、止めどなく鮮血が床へ流れ落ちている。引き裂かれた傷口は肉を割り、内臓に達する深さだった。
御子柴の右手から頼りなく漏れる微かな治癒の光は、溢れ出る血液に洗い流されて何の意味も成していない。
だらりと投げ出された葵の両腕にはもはや指先を動かす力すらなく、青白く抜けた唇の端から薄い泡が漏れるばかりだった。呼吸は弱々しく途切れ、肌から急速に体温と生気が失われていくのが、距離を隔てた響の目にもはっきりと見て取れた。
――葵。
喉の奥で、声にならない名前が潰れた。
走ってきたはずの足が、止まっている。
動いているのは、視界だけだった。血だまりに沈む葵の指先、力なく開いたままの瞳、その奥でまだ微かに揺れている光。生きている。まだ、生きている。その事実だけが、冷え切った頭の芯に杭のように打ち込まれた。
次の瞬間、思考が焼き切れた。
胃の底からせり上がるような冷酷な怒りが、脳の芯を焼き尽くす。
思考の隙間すら与えない、純粋で絶対的な殺意。
それが引き金となり、体内に蓄積されていた莫大な魔力が外殻を突き破って大気中へと爆発的に解き放たれた。
ドッ、と地下空間の気圧そのものが数気圧跳ね上がったかのような轟音が響いた。
不可視の重圧が同心円状に叩きつけられ、足元の切石に無数の亀裂が走る。
防戦に徹していた防衛班の覚醒者たちが、皮膚を針で刺されたかのような悪寒に息を詰まらせ、思わず膝を屈しかけた。空気が重く澱み、肺腑を満たす酸素すら凍りつくような殺気が場を圧迫する。
「……誰が」
響の唇から、地を這うように低い声が漏れた。
「誰が、葵に手を出していいと言った」
血走った視線が、獲物の肉片を巨鎌にこびりつかせたニードル・アシッド・マンティス、そして周囲で喉を鳴らす十数頭のハイエナ型魔獣を逃げ場なく射抜いた。
理性を塗り潰す激情をそのまま瞳に宿し、響の全身から立ち上る魔力の陽炎が、怪物の群れを呑み込むように揺らめく。
思考の臨界を超え、怒りに呑まれた意識のまま、背後の虚空へ両手を無造作に広げる。
空間の裂け目が響の頭上に大きく揺らぎ、こじ開けられた亀裂から噴き出したのは銀色の質量そのものだった。
滝などという生温いものではない。それは、大地を押し潰す鉄の濁流であり、雪崩だった。
ドガッ、ガガガガガガッ――!
台南攻略時に補給した質量。約180万発、重量10トンに及ぶ鋼鉄球が一斉に重力を解き放たれ、凶暴な自重を伴って石畳へ叩き落とされる。鼓膜を激しく打つのは、無数の金属球が互いを削り合い、跳ね踊る暴虐の破砕音。切石が粉々にひび割れて白い粉塵が巻き上がり、激突する鉄球同士の猛烈な摩擦が暗がりに無数の火花を散らす。
地面に激突した銀の奔流は、勢いを殺すことなく足元を薙ぎ払う津波となって四方へ弾け飛んだ。
逃げ場を失ったハイエナ型魔獣たちの足首を、膝を、容赦なく打ち据えながら、足の踏み場など瞬時に消し去り、その場にいた者たちの足元を根こそぎ奪い去っていく。骨を砕く鈍い音が、金属の轟音の底で幾重にも重なって響いた。
だが、それは序章に過ぎない。
吐き出された鋼鉄の海へ、響から噴き上がる暴走寸前の魔力が一瞬で浸透した。
足元を埋め尽くしていた無数の球体が青白い燐光を宿し、大地を蹴立てるようにして一斉に宙へ浮き上がる。半径100メートルの大広間全体を、逃げ場のない鉄の星屑が埋め尽くした。
響の双眸に、光はない。ただ黒い殺意だけが揺れていた。
「......消えろ」
吐き捨てられた一言と同時に、180万発の魔導鋼球が一斉に音速の壁を突破した。
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!
空気が爆縮を起こしたかのような衝撃波とともに、白熱化した鉄の奔流が怪物の群れへ全方位から収束する。
防御の姿勢をとる暇すら与えられず、ニードル・アシッド・マンティスの硬質甲殻が、最初の0.1秒で数千発の超音速球に蜂の巣状へ穿たれた。甲殻が砕け散る間もなく、四肢を、胴体を、巨大な頭部を、無慈悲な質量が物理的にすり潰していく。
取り巻きの魔獣たちも等しく、一瞬でミンチ状の肉塊へと変えられた。
だが、鉄の嵐は止まらない。
標的を貫通した弾丸は石壁や床を削りながら火花を散らして跳弾し、獲物のあった空間へと狂ったように何度も交差を繰り返す。
ズガガガガガガガガッ――!
単一の地鳴りと化した連続破砕音の中、切り刻まれ、叩き潰された肉体は、肉片として飛び散る猶予すら奪われて細胞単位で微細な赤黒い霧へと粉砕されていく。
数十秒後、轟音が唐突に途切れた。
血煙が立ち込める中央の空間には、骨のかけらひとつ、甲殻の破片すら残っていない。
ただ、超高圧の摩擦熱によって気化した体液が焦げ付いた異臭を放ち、周囲には熱を帯びて赤黒く汚れた無数の鉄球が、波打つように石畳を埋め尽くしていた。
「……響さん」
瓦礫と鉄球の海に立ち込める焦燥と硝煙の中、掠れた声が静寂を破った。
折れた腕を抱えた御子柴が、青ざめた唇を震わせながら響を見上げている。その呼びかけに、血走っていた響の双眸から僅かに狂気が引いた。
張り詰めていた空気が緩み、響はふと我に返る。
荒い息を一つ吐き出すと、周囲を埋め尽くす残虐な鉄の残骸を一瞥もせず、力なく横たわる葵の傍らへ足早に歩み寄った。
血だまりの縁に、両膝が崩れるように落ちる。
「葵――」
名を呼ぶ声が、自分でも驚くほど掠れていた。
浅い息を繰り返しながら虚ろに視線を彷徨わせている葵の顔は、血の気を失って紙のように白い。震える指先を伸ばし、その頬へ触れようとした瞬間、響の動きが凍りついた。
――腹部の、傷が。
内臓まで達していたはずの致命的な裂傷。あれほど溢れていた鮮血が、今はぴたりと止まっている。
傷口は確かにそこにある。だが、死へ向かって流れ続けていたはずの時間が、まるで何かに堰き止められたかのように、静かに凪いでいた。
理解が追いつかない。何が起きた。
響の視線が、縋るように葵の全身を這った。
そして、腰元で揺れる小さな音に気づく。
さらさら、と。
乾いた木屑が、指の間から零れるように崩れ落ちていく。
素朴な木肌で削り出された、親指大の小さな人型マスコット。
目も鼻もない、のっぺらぼうの不格好な木切れ。あれだけ葵にからかわれ、あれだけじゃらじゃらと腰に括り付けさせた、使い捨ての安物の護符。
――身代わりの木彫りチャーム。
その一体が、役目を終えた抜け殻のように、音もなく崩れ落ちようとしていた。
息を止めたまま、響はただその光景を見つめ続けた。
(お前が……守ったのか)
喉の奥に、言葉にならない熱の塊がせり上がる。
怒りでも、安堵でもない。その両方が同時に押し寄せ、行き場を失ったまま胸の内で渦を巻いていた。
震える指先が、崩れゆく木片の最後のかけらへ、そっと触れる。
粉塵となったそれは、もう何の重みも返さなかった。
響は長く、長く息を吐き出した。
血に濡れた葵の手を、両手でそっと包み込む。
「……上等だよ、お前は」
掠れた声が、静まり返った大広間に小さく溶けていった。




