38話:雛鳥計画
オハイオ・ペイコー・スタジアム地下、第5フロア最深部。
退路となるアーチ通路へ負傷した御子柴と葵、そしてパニックに陥った回収部隊を叩き出し、巨大な切石の防壁を魔力障壁で背後から遮断した瞬間、響の双眸から一切の夾雑物が消え失せた。
仲間の安全を気にする必要のない、完全な単独戦闘。
薄暗いドーム状の石造空間、その中央で轟音とともに地煙を巻き上げていたのは、全高6メートルを超える巨猿の階層主――『グラディエーター・コング』であった。
漆黒の剛毛に覆われた筋肉の山。その右腕には、禍々しい紫紺の光条脈を走らせる巨大な黒曜石の結晶籠手が、皮膚と癒着するように巻き付いている。
「ゴォォォアッ!!」
空気を破裂させるような咆哮とともに、巨猿の右腕が切石の床面へ叩きつけられた。
爆縮のような重震撃。衝撃波が放射状に地盤を裂き、数十個の鋭利な岩塊が散弾のように全方位へ跳ね上がる。
並の覚醒者なら爆風だけで肉片に変じる一撃。
だが、すでに響の肉体は[身体強化]の超加速によって、重力すら置き去りにしていた。
「――図体ばかりデカい木偶の坊が」
響は宙へ跳ね上がった巨岩の破片を足場に、音もなく虚空を蹴った。
愛銃『黒影零式改・紫電』を抜く隙すら与えない。
右腕を振り抜いた直後、巨猿が次の殴打へ移るわずか0.2秒の硬直。
跳躍の頂点から急降下した響の身体は、黒曜石の籠手を紙一重の神速で擦り抜け、巨猿の分厚い僧帽筋の上へと影のように滑り込んでいた。
「ガッ……!?」
異変に気付いた巨猿が、丸太のような左腕を自らの首元へ叩きつけようと振り上げる。
だが、それよりも早く、響の両足が頸椎の左右を万力のように締め上げた。
「終わりだ」
冷徹な宣告とともに、黒革の手袋を嵌めた響の右腕へ、高密度の魔力が凝縮される。
頸椎の第3関節、太い筋肉の結束点へ向けて、響は躊躇なく素手を手刀として突き立てた。
メキョッ、ブチュッ!
鋼鉄をも凌駕する剛毛と筋肉を力任せに抉じ開け、頸椎の骨隙の奥深くへと手を沈める。
指先が触れたのは、ドクドクと禍々しい脈動を刻む、バスケットボール大の特級魔核。
「――フンッ!!」
気合一閃、響は力任せに腕を引き抜いた。
ブチブチと肉と神経が千切れる生々しい音を立て、血飛沫とともに引きずり出されたのは、黒曜石のように輝く結晶魔核。
中枢を力づくで引っこ抜かれたグラディエーター・コングは、咆哮を上げる間すらなく白目を剥き、巨大な黒曜石の籠手を床へ激突させながら、ドォォンと地響きを立てて突っ伏した。
通常であれば光の粒子となって霧散するはずの巨躯。
だが、生きたまま魔核を直接分離されたその身体は、質量を持った肉塊のまま、温かな血の匂いを放って切石の上に定着し続ける。
着地した響は、手元の魔石に付着した血糊を払うこともなく、アイテムボックスから異世界の「太刀」を無造作に引き抜いた。
キィィン――!
漆黒の刀身が冷酷に閃く。
耐久と精神力を底上げする最高部位――肩ロースから背肉にかけての極上ブロックを、流れるような太刀筋で瞬く間に解体していく。
切り分けた数トンに及ぶ特級魔獣肉、黒曜石の結晶籠手、剛毛皮のすべてを、広大なアイテムボックスの亜空間へと余すことなく収容した。
床に残ったのは、わずかな黒ずんだ血溜まりのみ。
太刀を納刀し、背後の魔力障壁を解除して地上へ戻った響は、スタンピードの完全沈静化を確認した。
駆け寄ってきたライアン少将の安堵の表情も、ステラたちの歓声も、一切の視線を合わせず背中で遮断する。
手配されたVIP機へ乗り込み、ワシントンD.C.へと直行した。
重厚な遮光カーテンが隙間なく閉め切られたホテルのスイートルームは、昼夜の境を失った冷たい薄暗がりに沈んでいた。
ペンタゴンから車で数分、アーリントンの最高級ホテル最上階。フロア全体をシークレットサービスと米軍憲兵隊が封鎖し、外の喧騒は分厚い防弾ガラスの向こうへ完全に遮断されている。
あれから、何時間が経過したのか。
キングサイズのベッドには目もくれず、響は部屋の中央、背もたれのない革張りのスツールに浅く腰を下ろしたまま、微動だにしていなかった。
身に纏う黒いライダースジャケットには、返り血こそ魔力膜で弾いて残っていない。だが、地下の淀んだ硝煙と、あの時石畳を濡らした葵の生々しい鉄の匂いが、今なお鼻腔の奥にこびりついて離れなかった。
響は無言のまま、右手を胸元へと滑り込ませた。
指先が触れたのは、内ポケットの底に溜まっていた、かすかな粉末の感触。
引き抜いた手のひらの上には、粉微塵に砕け散った木屑が、わずかに残骸として乗っていた。
――身代わりの木彫りチャーム。
のっぺらぼうの、親指大の不格好な木切れ。
異世界で勇者として戦っていた頃には見向きもしなかった、三流の使い捨て護符。
それが、葵の命をギリギリのところで繋ぎ止めた。
もし、あれを持たせていなかったら。
もし、マンティスの鎌による攻撃がチャームの効果範囲外であったなら。
葵は、あの冷たい石畳の上で、内臓を掻き出されて確実に死んでいた。
「…………」
喉の奥が、焼けるように熱い。
怒りではない。他者への八つ当たりでもない。
自分の傲慢さと、見通しの甘さに対する、冷え切った自責の念だった。
所沢、上野、千葉。
地上でゾンビを前に竦み上がっていた桐生たちに魔獣の肉を食わせ、ステータスを引き上げ、まるで自分が万能の育成者であるかのように錯覚していた。
ステータスが上がったところで、所詮は昨日今日までただの民間人だった少女だ。実戦の経験も、死線における咄嗟の判断力も、百戦錬磨の怪物たちの前では何の足しにもならない。
それなのに、500人もの大部隊を組織し、後方の防衛班長などという重責を葵に押し付けた。
自分が前を走って敵を消し去れば、後ろは安全だと高をくくっていた。
その結果が、あの血の海だ。
「……勇者様が、聞いて呆れるな」
誰もいない暗がりの中、自嘲の混じった乾いた呟きが零れ落ちた。
かつて異世界を救い、魔王を屠り、神の領域に足をかけた男の成れの果て。
術式の失敗で女の身体へ変わり、レベル1へ退行したとはいえ、知識も経験も残っていたはずだった。それだけのものを抱えていながら、最も近くにいる身内の命すら、使い捨ての木彫り人形ひとつの偶然に委ねる体たらく。
手のひらを静かに握り込む。
指の隙間から、木屑の粉末がさらさらと絨毯の上へ零れ落ちていく。
コン、コン。
静寂を破り、重厚なスイートルームの扉が控えめにノックされた。
続いて、電子ロックが解除される微かな操作音。
「響様。……入っても、よろしいでしょうか」
扉の隙間から漏れ聞こえてきたのは、御子柴の声だった。
◇
「……入れ」
低く乾いた響きの声に応じるように、重厚な扉が音もなく内側へ滑り込んだ。
入室してきた御子柴は、最敬礼の姿勢のままわずかに眉を寄せ、部屋の中央を伺う。
現場の惨状、そして何より葵が目前で死線を彷徨った直後だ。激昂しているか、あるいは暗澹たる気配を放っていると身構えていたのだろう。
だが、スツールに腰掛けた響の横顔には、普段と何一つ変わらない無機質な平静が貼り付いていた。
鋭い眼光も、引き結ばれた薄い唇も、任務を終えた直後の「いつもの冷徹な顔」そのもの。内面で渦巻く冷え切った自責や、砕け散った護符の残骸を握り締めていた動揺など、微塵も表層へ滲ませてはいない。
「ポーションの効力、および生体反応の安定を確認いたしました。佐伯女史も別室にて待機を完了しております」
「そうか。……御子柴、お前、左腕は本当に痛まないのか?」
発せられた声の調子に、御子柴の肩が微かに跳ねた。
いつもの冷淡な業務命令ではない。妙に柔らかく、妙に懇切丁寧な、耳慣れない声音。
「骨折した部位の神経痛や、魔力枯渇による眩暈はないか? 無理をしているなら、まだ横になっていた方がいい。……ポーションで肉体が戻っても、精神的な負荷はすぐには抜けないからな」
「は、いえ……バイタル、魔力残量ともに実務可能域まで復帰しております。響様にご心配をおかけするような後遺症はございません」
直立不動のまま答える御子柴の眉間に、隠しきれない当惑の皺が寄る。
普段なら「痛むなら下がって寝てろ、邪魔だ」の一言で切り捨てるはずの男が、やけに親密で、腫れ物に触るような気遣いを向けてくる。その慇懃なまでの過剰な丁寧さに、かえって背筋が寒くなるような違和感を覚えていた。
「そうか。ならいいんだ。……長居する理由はねえな。ペンタゴンの狸どもが嗅ぎ回る前に、とっととズラかるぞ」
響はスツールから立ち上がり、黒のライダースジャケットのファスナーを首元まで引き上げた。
動作そのものに淀みはない。だが、部屋を出る直前、無意識に御子柴の歩調を確かめるように半歩待つ仕草を見せる。
出迎えの廊下には、失血による青白さを微かに残しながらも、自らの足でしっかりと背筋を伸ばした葵が待機していた。
響と目が合うと、葵は痛むはずのない右腹部を無意識に押さえ、ぎこちなく、だが必死に笑顔を作ってみせる。
「……響さん、ご心配をおかけして、すみませんでした」
「葵、無理に笑わなくていい」
響は無造作に歩み寄り、葵の肩へそっと手を添えた。
普段から葵に対しては命令口調を排し、細やかな配慮を見せていた響だったが、今の距離感と気遣いは明らかに度を越していた。
「顔色がまだ戻っていない。貧血の症状は? 吐き気や悪寒はしないか? 歩くのが辛いなら、背負っていくか、あるいは車椅子を手配させるが」
矢継ぎ早に落とされる過保護の嵐に、葵の目が丸くなる。
「え、あ、大丈夫です! 本当にちゃんと歩けますから……!」
「そうか。……少しでもふらついたら、遠慮せずに言え。お前の歩幅に合わせてゆっくり歩くからな」
普段の過保護が「不器用な気遣い」であるとするなら、今の響はまるで「今にも割れて砕け散りそうな薄氷」を両手で抱え込んでいるかのようだった。平静を装おうとすればするほど、極端な親密さと過密な配慮となって漏れ出し、周囲に強烈な居心地の悪さを突きつけている。
ライアン少将や米軍上層部が用意した祝勝会も事後聴取の打診も、すべて御子柴を通じて書面1枚で突っぱね、一行は手配されたVIP機へと直行した。アンドルーズ空軍基地を深夜のうちに離陸した輸送機は、太平洋の闇を切り裂き、一路、日本へと針路をとる。
機内でも響の奇妙な過保護は続いた。
毛布の掛け具合を何度も確かめ、葵が少し身じろぎをするたびに視線を向け、御子柴には「水分は足りているか」「気圧で腕の古傷が痛まないか」と過剰な確認を繰り返す。
腕を組み、目を閉じている時ですら、その呼吸の奥には張り詰めた糸のような異様な緊張感が沈殿していた。
十数時間のフライトを経て、機影は分厚い雲を抜け、見慣れた武蔵野の平野部へと降下を開始する。
タイヤが白煙を上げて滑走路を叩き、激しい逆噴射の轟音が機内を揺らした。
航空自衛隊入間基地。
滑走路の脇には、すでにリゾナンス日本支部の業務車両と、眉間に深い皺を刻んで落ち着きなく行ったり来たりを繰り返している真鍋3佐の姿が見えていた。
タラップが接続され、外の生ぬるい風が機内へと流れ込んでくる。
響は葵の足元を一歩一歩見守るように付き添い、ゆっくりとタラップを降り立った。
「あ、安藤さん……! 無事だったんですね……!」
駆け寄ってきた真鍋の額には、びっしりと冷や汗が滲んでいた。オハイオでのスタンピード、そして米軍部隊の壊滅的被害の報せを受け、防衛省本省と官邸からの怒号の板挟みで胃を痛め抜いた男の顔だ。
「真鍋。出迎えご苦労だったな。……お前も、胃の調子はどうだ? 激務で倒れられたら困るからな」
「……は?」
いつもなら「うるさい」「騒ぐな」と冷ややかに一瞥して通り過ぎるはずの響から、真顔で体調を気遣う言葉を掛けられ、真鍋はぽかんと口を開けて硬直した。
その異様な空気を察した御子柴が、真鍋の背後へ静かに回り込み、小声で「……触れないでください。今、非常に不安定です」と耳打ちする。
響は二人の不審げな視線に気付く風もなく、葵の肩に手を添えたまま、事務所の車列へと歩みを進めた。
「事務所へ戻るぞ。……腹が減った。やるべき仕事が山ほどある」
◇
入間基地の敷地内、プレハブを改装したリゾナンス日本支部の事務所。
靴を脱ぐ暇すら惜しむように、響は足早に奥の給湯室兼簡易調理場へと直行した。
「安藤さん、ちょ、ちょっと待ってください! 防衛省への事後報告のすり合わせが……!」
真鍋の悲痛な呼び止めを、響は背中で完全に無視した。ライダースジャケットを脱ぎ捨ててスウェットの袖を捲り上げると、業務用コンロの前に陣取り、すぐさま【アイテムストレージ】の亜空間を展開する。
冷気とともに、調理台の上へドサリと巨大な肉塊が次々と出現した。
ペイコー・スタジアム地下で解体したばかりの『グラディエーター・コング』の肩ロース。
それだけではない。過去に単独で刈り取り、ストレージの底にストックしてあった未消費の肉塊――赤黒いサシの入った巨大獣のロース、深層の爬虫類型魔獣の締まった尾肉、硬質な霜降りを湛えた野牛のヒレ肉。
響の瞳には、一切の迷いも躊躇もなかった。
手元の牛刀が銀の軌跡を描き、瞬く間に分厚い肉塊をサイコロ大の「一口サイズ」へと切り刻んでいく。
トントントントン、と規則正しく狂いのない包丁の音が狭い調理場に響き渡る。
切り分けられた肉は、部位ごとに手際よく平皿の上へと山盛りにされていく。
1種類ではない。違う肉、また違う肉へと無機質な手つきで手を伸ばし、まな板の上で次々と角切りに解体しては、フライパンの上へと叩き込んでいった。
ジュゥゥゥッ――!!
強火に熱せられた鉄板の上で、脂が爆ぜる激しい音が上がる。
塩と胡椒を軽く振るだけの、最小限の味付け。余計な手を加える時間すら惜しいと言わんばかりに、手早く表面を焼き締め、肉汁を閉じ込めたサイコロステーキを次々と巨大な盛り皿の上へと積み上げていく。
香ばしい肉の匂いと、微かな魔素の熱気が調理場から溢れ出し、事務所のリビングスペースを満たしていく。
「……あの、響さん? 何をそんなに急いで……」
葵がおずおずと調理場の入り口から覗き込もうとした、その瞬間だった。
「よし、できたぞ」
両手に掲げられたのは、山盛りのサイコロステーキがギッシリと並べられた複数枚の大皿。
湯気をもうもうと立てるその肉の山を抱え、響はリビングの応接テーブルへと大股で歩み寄ると、ドン、ドンと音を立てて卓上に並べ立てた。
その表情は、不自然なほど真剣で、どこか鬼気迫るものすら宿っている。
「移動で腹が減っただろう。……いいから、これを食え。全部だ」
響は葵と御子柴、そして呆然と立ち尽くす真鍋の顔を見据え、皿をぐいと前に突き出した。
「一口サイズにしてあるから喉に詰まることもない。噛み切れない筋は全部落とした。冷める前に、片っ端から胃袋へ流し込め。……食えば、必要なものは全部手に入る」
有無を言わせぬ圧力。
だがその声の底には、二度と身内を傷つけさせまいと焦燥する、親鳥のような異様な過保護が色濃く滲んでいた。
「ほら、遠慮なんかしてないでどんどん食え。冷めたら脂が固まるぞ」
響は湯気を吹き上げる大皿をさらに卓の中央へと押しやり、一同を見回した。
その手つきには一切の躊躇がなく、皿の上には角切りにされた多種多様な肉が、香ばしい焼き目を纏って山を築いている。
「……いただきます」
口火を切ったのは唯だった。爪楊枝を伸ばして手近な赤身肉を口へ放り込む。
続いて葵や桐生、風間、篠原、御子柴も恐る恐る手を伸ばし、一口大の肉を次々と口内へ運んでいった。
咀嚼した瞬間に溢れ出す濃密な肉汁と、胃の腑に落ちた直後にじわりと広がる熱い波。
真鍋を除く全員が、肌を粟立たせるその独特の感覚に心当たりを持っていた。
――これを食べれば、またステータスが跳ね上がる。
これまでの経験からその恩恵を確信しつつも、目の前で山を成す肉の出所や、それが何の魔獣のどの部位なのかまでは、誰一人として知る由もない。
「……うまっ。いや、これ本当に何の肉なんですか? めちゃくちゃジューシーですけど、牛でも豚でもないですよね」
「こっちの白身っぽい部位、噛めば噛むほど旨味が出てきて止まりませんよ」
風間と篠原が驚嘆の声を漏らし、桐生も咀嚼を止めぬまま無言で頷いている。
そんな中、響の視線が鋭く女性陣――唯、葵、御子柴の三人へと注がれた。
響は特定の皿から、ゼラチン質のぷるぷるとした光沢を帯びた肉塊を大振りのフォークでいくつも掬い上げる。
「ほら、お前ら。これなんかコラーゲンたっぷりだから、残さず全部腹に入れろ。肌にもいいし疲れも一発で消し飛ぶぞ。ほら食え、食え、食えって」
「え、ちょっ、響さん!? まだ口の中に……んぐっ!」
「あ、安藤さん、これ量多すぎますって……!」
葵の小皿に山盛りに放り込まれ、抗議する間もなく唯や御子柴の器にも強引にねじ込まれていく。
普段の冷徹な佇まいとはまるで別人のように、何かに追われるような勢いで、響は肉を押し付け続けた。
「響様、このプルプルとしたお肉は何なんですか? すごく弾力があって、お肌にも効きそうですけど」
小皿の肉を箸で持ち上げ、御子柴が呑気な声を上げた。
噛むたびに溢れるゼラチン質の甘みに、葵も「本当ですね、牛すじとも豚足とも違う上品な味わいで……」と素直に箸を進めかけている。
響は手元のトングを小気味よくカチャリと鳴らし、至極あっさりと告げた。
「あ、そいつか。そいつお前も知ってるだろ。あの砂嵐の時にいたワームだよ」
ぴたり、と室内の空気が氷結した。
「……は?」
御子柴の箸が空中で止まり、口を動かしていた葵の動きも完全にフリーズする。
砂嵐、中東、砂漠を割って出現したあの巨大な多節環形動物――そのグロテスクな輪切りを脳裏に思い浮かべた瞬間、二人の喉仏が引き攣るように強張った。
そんな凍りついた空間の中、唯がひくひくと引き攣った笑みを浮かべ、震える箸の先で別の皿の赤身肉をおずおずと指し示した。
「じ、じゃあ響さん……こっちの、しっかりした歯ごたえの赤身肉は何なんですか……? これは普通のお肉、ですよね……?」
すがるような唯の視線に対し、響は肉をもう一切れフライパンから小皿へ追加しながら、何でもないことのように言い放つ。
「それはほら、お前は食いたくなかったけどオーガだよ」
「………………」
唯の顔から、さーっと音を立てるように血の気が引いていく。
青白さを通り越し、土気色へと変色していくその表情を前にしても、響は何食わぬ顔で「栄養満点だぞ」と大皿をぐいと押し出した。
「あの、安藤さん……確認のためにお聞きしたいんですが、卓上に並んでいるその肉類は、元を辿ると何という個体群から採取されたものなんでしょうか?」
冷や汗を拭いながら、真鍋が恐る恐る口を挟んだ。
防衛省の資料や米軍の被害報告書を精査してきた参謀としての危機察知能力が、目の前の香ばしい湯気に向けて猛烈な警鐘を鳴らしている。
響はトングを軽く打ち合わせ、実に気安い調子で皿を順々に指し示していった。
「なんだ、気になるのか? この筋繊維が詰まった赤身はオーガのランプ肉だ。隣の岩肌みたいにゴツゴツしてたのがアースシェイカー。脂が乗ってゼラチン質になってるのが、砂漠で掘り起こしたワーム型魔獣の身柱だな。蒲焼きっぽく締まってるこの長細い切り身は、地底で獲った双頭蛇竜アンフィスバエナ。で、ちょっと歯ごたえが強い角切り肉が、スタジアムで解体したグラディエーター・コングの肩ロースだ」
カツン、と乾いた陶器の音が室内に落ちた。
全員の箸が、ぴたりと動きを止めた。
換気扇の回転音だけが虚しく響く。
人型凶悪種、地割れを起こす規格外の重装甲獣、砂漠の巨大環形生物、猛毒を撒き散らす双頭の蛇竜、そして米陸軍部隊を壊滅させた巨大猿――。
各国の軍隊やギルドが総力を挙げてなお損害を垂れ流す特級危険生物のオンパレードを、よりによって一口大のサイコロステーキにして胃袋へ流し込んでいた事実。
それを完全に理解した一同は、青ざめた顔のまま手元の小皿を見つめ、完全に硬直していた。
「よし、みんな食ったな。食ったよな。……ちょっとステータス確認するぞ」
響は満足げに空になった大皿を流し台へ放り込むと、手をパンと叩いて一同を見回した。
その双眸の奥に淡い魔力の燐光が宿り、異世界の秘術――【鑑定】のスキルが全員の肉体と魂を捉えて発動する。
網膜の内に展開される不可視のステータスウィンドウ。全員の数値の変貌を一瞥した響は、フッと口元を歪めた。
「ペンとノート持ったか? 全員、聞き漏らすなよ。今から各自の数値を叩き込むからな」
響はホワイトボード用の黒マーカーを掴み、キャップを外してボードにペン先を走らせていく。
キュッ、キュッと乾いたプラスチックの摩擦音が響き、【鑑定】で読み取った各自の「直前までの数値」と「今回の食事を経た現在値」が整然と書き殴られていく。
いつもの冷めた調子とは異なり、早鐘を打つような性急さが声音に混じっていた。
「左が食う前、右が今の身体の出力値だ。現実をしっかり脳みそに刻み込め」
ペン先が黒い線を激しく刻み、並んだ一同の視線が否応なくボードの一点へ吸い寄せられる。
「鷹野。筋力82から89、耐久75から78。敏捷は151から154まで伸びて、魔力は28から29、精神に2入った。元の地力が飛び抜けてるから派手な跳ね上がりには見えねえが、前線の切り込み役として頭一つ抜けたぞ」
「次、葵だ。筋力36から53、耐久38から46、敏捷29から41。魔力5から9、精神は11から19まで引き上げた。……これで、そう簡単には死なねえ。前衛として十分すぎる骨組みができた」
響の目が微かに揺れ、息をつく暇もなく次の行を指す。
「真鍋。お前もだ。筋力28から50、耐久26から46、敏捷24から38。魔力はゼロから4発現して、精神は45から49だ。一般自衛官の体力検定なんざ問題にならん化け物枠に片足突っ込んだぞ。デスクワークで過労死する心配もねえ」
「桐生。筋力54から65、耐久57から60、敏捷30から38。魔力16から20、精神に新規で8乗った。純粋なタンクとして、国内の自称重装甲連中を完全に置き去りにする肉の盾が完成したな」
「風間。筋力32から49、耐久32から40、敏捷40から49。魔力34から38、精神は8だ。足腰の踏ん張りも引き金絞る瞬発力も段違いだ。狙撃も索敵も余裕ができる」
「篠原。筋力40から53、耐久36から44、敏捷51から55。魔力29から33、精神に8。二刀流で振り回されねえ体幹と、踏み込みのバネが両立した。前線で好きに暴れ回れるぞ」
「最後、御子柴。筋力28から49、耐久27から45、敏捷32から44。魔力は42のままだが精神に8入った。衛生特化だからって油断するな。そこらの近接アタッカーを素手でへし折れる耐久力だ」
響はマーカーをトレイに放り投げると、カラッとした明るい笑顔を浮かべた。
「御子柴。悪いが、国内に点在してるダンジョンの一覧、未踏破の危険区域も含めて全部リストアップして出しといてくれ」
唐突な事務要求に、御子柴が目を丸くしてパチクリと瞬きを繰り返す。
そんな反応を気にする素振りもなく、響はジャケットの袖を無造作にまくりながら、近所のスーパーへ特売品でも見に行くような軽さで言い放った。
「それが済んだら、俺はちょっくら食材の買い出しに行ってくるわ。ストックが寂しくなってきたからな」
「…………それ、絶対普通の買い出しのテンションじゃないですよね!?」
御子柴の悲鳴に近いツッコミが、間髪容れずに事務所内へ木霊した。
買い出しと称して全国の指定危険ダンジョンへ単身殴り込み、鎮座する厄災級の階層主をミンチにして持ち帰る算段であることは、火を見るより明らかだった。
テーブルを囲んでいた唯、葵、真鍋、桐生、風間、篠原の全員が、誰一人として口を挟むことなく、揃いも揃って深々と首を縦に振っていた。




