31話:覚醒者の適正ランク格付け
地下4階の作戦会議室を退出した一行の足音は、無機質なコンクリートの通路に硬く反響していた。佐久間を無力化し、1日あたり30億円の対価を国防の最高幹部たちに呑ませた直後である。漂う空気の重みは、迷宮の深層を制圧した直後の静寂にも似通っていた。
重厚な気密扉をくぐり抜けると、地下の車両待機区画には、すでに黒塗りの大型防弾ミニバンがハザードを焚いて滑り込んでいた。運転席から素早く降りてきたのは、迷彩服の背筋を伸ばした桐生1尉。後部スライドドアを恭しく開け放ち、響たちを迎える。
「響さん、葵さん。お疲れ様でした。市ヶ谷の地上ゲートは各社の報道陣やクランの監視車両でごった返していますが、地下搬入路から抜け出せば所沢方面への首都高は完全にクリアです。車内でお寛ぎください」
「助かるぜ、桐生。あんな息の詰まる穴蔵で背広組の能書きを延々と聞かされるのは、オーガの群れを相手にするより肩が凝る」
響は手首を軽く回し、黒いライダースジャケットの裾を翻して本革仕様のセカンドシートへ身を沈めた。隣には、長時間の緊張から解放されて小さく息を吐き出した葵が腰掛ける。助手席へ乗り込んだ真鍋3佐がドアを閉めると、密閉された車内は一切の外音を遮断し、乾いた空調の微風だけが流れた。
「発車します」
桐生が滑らかにアクセルを踏み込む。低く唸るV6エンジンのトルクとともに、車体は地下の傾斜路を音もなく駆け上がっていった。防爆仕様の重い油圧シャッターが軋みながら開き、やがて地上部、厳重な検問の敷かれた市ヶ谷駐屯地の裏門を通過する。
外は、夕暮れの茜色がビル群の稜線を濃い藍色へと塗り替え始めている時間帯だった。窓外の街並みは、迷宮崩壊の爪痕を色濃く残しながらも、自衛隊の装甲車と警察車両の往来によって最低限の治安を維持している。
車が首都高のランプへ侵入し、所沢・入間方面へと巡航速度を上げる中、響は深くヘッドレストへ頭を預けて窓の外を眺めた。
「そういや真鍋さん。俺が韓国だの台湾だのイギリスだの飛び回ってる間、入間の事務所のほうはどうなってんだ? 48時間で表の1階だけ突貫で仕上げさせたきり、まともに様子を見てねえぞ」
「ああ、その件ですか」
助手席の真鍋が振り返り、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、どこか含みのある苦笑を浮かべる。
「響さんから預かった3億円の現生と20本の金塊――約5億円の予算ですがね。1階の防弾化とオフィス機能の整備だけでは、どう計算しても全体の2割も消化できなかったんですよ」
「……あ?」
響が片眉を不審そうに跳ね上げる。
「何言ってるんだ。お前、余った金を懐にでもしまい込んだか?」
「滅相もない! 自衛隊の監査と防衛監察本部を甘く見ないでください。用途不明金が億単位で浮いたら、私の首が物理的に飛ぶどころの話じゃありません。ですから――残った全額を、施設隊の精鋭工兵と民間の特命突貫業者へそのまま追加投入しました」
「追加投入って、何をだ」
「旧宿舎の全棟です。外壁の複合装甲板補強から給排水・空調インフラの全面更新、そして何より響さんと葵さんが生活するための2階と3階――完全防音・耐震・最高グレードのプライベート居住区画へのフルリノベーションですよ」
真鍋の淀みのない報告に、隣で聞いていた葵が目を丸くして身を乗り出した。
「えっ……!? 2階と3階も、ですか!? あの、畳がボロボロで鉄パイプの二段ベッドが転がってた、あのフロアが……?」
「ええ。葵さんが以前カタログでチェックしていた大型アイランドキッチンや、深型のジェットバス、ウォークインクローゼットに至るまで、すべて特注で組み込ませてあります。家具類も大塚家具の最高級グレードを即金で買い揃えました。本庁舎の貴賓室までいちいち夜道を歩いて戻る必要など、もうどこにもありません」
「な……!」
葵が歓喜と驚愕のあまり両手で口元を押さえる。響は呆れたように半眼になり、助手席の後頭部をジト目で睨みつけた。
「おい真鍋。俺は1階を適当に直せって言っただけだぞ。誰が宿舎まるごと高級マンションに化けさせろって言ったよ」
「響さん、あれだけの巨額資金を預けておいて『適当に』で済むはずがないでしょう。今やリゾナンス日本支部は、米軍もペンタゴンも一目を置く最重要戦略拠点です。トップと専属スタッフが埃っぽい廃墟同然の部屋で寝泊まりしていては、組織の示しがつきません」
淡々と正論を並べ立てる真鍋に、ハンドルを握る桐生が低く喉を鳴らして笑った。
「真鍋3佐の言う通りですよ、響さん。基地の施設隊も、無制限に支給される特別手当の威力で目の色を変えて突貫作業をやり遂げました。今やあの建物は、外見こそ落ち着いたオフィスですが、防護性能は防衛省の地下シェルターに匹敵します。風間と篠原、それに渚も、完成した内装を見て顎を外していましたよ」
「……ったく。役人ってのは、予算が余ると意地でも使い切らねえと気が済まねえ生き物なのかね」
響は頭を掻きながらため息を漏らしたが、その口元にはどこか微かな苦笑が滲んでいた。
車窓の景色はいつしか都心の過密な高層ビル群から、所沢の広大な武蔵野の平野、そして入間基地の外周を囲む鬱蒼とした並木道へと移り変わっていた。西武池袋線の線路を越え、稲荷山門の警備小隊が直立不動の敬礼で迎える脇を抜け、防弾ミニバンは基地正門のすぐ横――新装なった「リゾナンス日本支部」の専用ロータリーへと滑り込む。
車の停止とともにスライドドアが開くと、晩秋の澄んだ冷気とともに、完成したばかりの建物の真新しいコンクリートとウッドデッキの香りが漂ってきた。その瞬間、車内の後部座席の隅から身を乗り出すようにして鋭い声が上がった。
「私の部屋はどこですか!?」
見開いた目をらんらんと輝かせ、助手席の真鍋へ詰め寄るように顔を突き出したのは、それまでマチェットの手入れに余念がなかった唯だった。
真鍋はびくりと肩を跳ね上がらせ、慌てて眼鏡の位置を直しながら眉根を寄せる。
「た、鷹野2曹……君は現役の自衛官でしょうが。居住場所は規律上、基地内の第1隊員宿舎――女子居住区と決まっています」
「はぁぁぁ!? なんでですか! 私だってリゾナンスの専属戦闘員じゃないですか! 響さんの護衛兼突入前衛ですよ!? 2階と3階が丸ごと空いてるなら、私の部屋の1つや2つくらいあってもバチは当たらないはずです!」
「バチの問題ではありません! 隊内規程と営舎管理規則の壁です! そもそも君には原隊である第2輸送航空隊の籍があるんですよ。基地の外周にある特命事務所に勝手に住み着いてみろ、懲罰委員会ものだ」
「あの埃っぽい二段ベッドの部屋に戻れって言うんですか!? ジェットバス! 私もジェットバスに入りたいです! ふかふかの羽毛布団で寝たいです!!」
駄々をこねる子どものようにシートの背もたれをバンバンと叩く唯の剣幕に、真鍋はこめかみを押さえて深いため息をついた。
「だいたい、君は響さんの専属護衛という名目で、海外遠征の特別手当やら何やら山ほど融通されているはずでしょう。これ以上、規律を破って特別扱いを要求したら、同期の隊員たちからどんな目で見られるか……」
「手当と部屋は別腹です!!」
「意味が分かりません!」
真鍋と唯の不毛な応酬を横目に、ハンドルを握る桐生が肩を揺らして吹き出した。
「諦めろ、唯。自衛官の身分を維持したまま民間の特命宿舎に私室を構えるなんざ、幕僚長クラスの特認でもなきゃ無理な相談だ」
「うぐぐ……桐生隊長までそんな……! 葵ちゃん、葵ちゃんからも何か言ってやってくださいよぉ!」
助けを求めるように縋り付いてきた唯に、葵は困ったような、しかしどこか微笑ましそうな苦笑いを浮かべた。
「え、ええと……唯さん、お部屋としての登録は無理でも……遊びに来てお風呂に入ったり、ご飯を一緒に食べたりするくらいなら、いつでも大歓迎ですよ?」
「ほ、本当ですか葵ちゃん!? 泊まり込みの自主警備って名目ならいけますよね!? ね!?」
「勝手な拡大解釈をするな、2曹!」
真鍋の悲鳴のような怒声が車内に響き渡る中、響はシートに深く背を預けたまま、呆れ果てたように天井を仰いだ。
「真鍋さん。部屋が余っているなら、実際にはこいつらを全員ここに呼び寄せた方がいいと思うぞ」
響がシートの背もたれから上体を起こし、平然とした調子で言葉を継ぐ。
「万が一の緊急出動の時、どうやって連絡を取り合う気なんだ。基地のあちこちの宿舎に散らばった連中を内線や放送で呼び集めてたんじゃ、初動で10分も20分も無駄にするだろ。この棟に全員まとめて住まわせておけば、ベル1つで1階に集まって即座に出撃できる。――建前は仮眠室ってことで、1人ずつ個室をあてがえば済む話だろ」
助手席の真鍋は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、呆れと困惑の入り混じった顔で振り返った。
「響さん……個室を与えて定住させる措置を、一般的に『仮眠室』とは呼びませんよ。それはただの私室、完全な引っ越しです」
「屁理屈をこねるなよ。24時間いつでも寝起きして即座に飛び出せる部屋なんだから、実質的には仮眠室みたいなものだろ」
「公文書の用語定義を力ずくで書き換えないでください。……まあ、即応体制の確立と、何より外部への情報漏洩を防ぐ機密保持という観点から見れば、全員を一箇所に集約するメリットが大きいのは事実ですがね。監査官への言い訳用書類を何枚書かされるか、今から胃がキリキリと痛みますよ」
真鍋がわざとらしくこめかみを押さえると、後部座席で耳を澄ませていた唯が身を乗り出し、満面の笑みで両手を突き上げた。
「やったぁぁぁ! 響さん、大好きです! 真鍋3佐、さっそく書類の作成をお願いしますね!」
「君は調子に乗りすぎです、鷹野2曹」
ハンドルを握る桐生も、バックミラー越しに小さく苦笑を漏らす。
「真鍋3佐には苦労をかけますが、現場指揮官としてはありがたい限りです。響さんの動向に即応できる体制が整うなら、これ以上の配置はありません」
「ふふ、これで毎日みんなで顔を合わせられますね」
隣の葵が嬉しそうに微笑み、車内は軽やかな笑い声に包まれた。
◇
入間基地の旧宿舎を改装した「リゾナンス日本支部」の正面エントランス。夕闇が急速に濃くなる中、滑り込んだ防弾ミニバンから一同が降り立った。
建物の外観は自衛隊の無機質なコンクリート建築そのものだが、重厚な強化ガラスと自動認証ゲートが据え付けられた玄関口は、最新鋭の研究施設を思わせる冷徹な威圧感を漂わせている。
車を降りた響は、軽く首を鳴らしながら真新しいエントランスを見上げた。
「……随分と大掛かりに手を入れたもんだな」
「5億円の即時拠出ですからね。外壁には対魔力コーティングが施され、窓ガラスはすべて戦車の装甲板と同等の多層防弾仕様。1階には作戦室と通信管制室、2階と3階が居住・公務待機区画、地下には独立電源と大型保管庫を完備しています。名目上は自衛隊との合同研究施設ですが、中身は完全に独立した要塞ですよ」
真鍋が公用バッグを抱え直しながら誇らしげに眼鏡を押し上げる。セキュリティゲートを通過して1階フロアへと足を踏み入れた、その時だった。
「お帰りなさいませ、響様、皆様」
廊下の奥から凛とした声が響き、白衣の上に対破片ベストを纏った女性が、書類用のクリップボードを手に無駄のない足取りで歩み寄ってきた。
御子柴渚2等陸曹。
十条ダンジョンの惨劇から響に救出され、元自衛隊中央病院の衛生要員としての高い事務処理能力と冷静沈着な手腕を買われて響の専属秘書兼医療管理責任者に就いた人物である。
「御子柴、出迎えご苦労。拠点の引き渡し手続きは滞りなく終わったか?」
桐生が声をかけると、御子柴は視線を落とすことなく淡々と報告を返した。
「第1次搬入物資および医療機材の検収は完了しています。各区画の通信インフラ、生体認証登録も98%完了。……ですが、落ち着く暇はなさそうです」
御子柴は手元の端末を操作し、壁面に埋め込まれた大型モニターを起動させた。
「合衆国リゾナンス本部、およびペンタゴン国家軍事指揮センター経由で、響様宛てに最優先の緊急要請が入電しています。ステラ・ヴァレンタイン氏より、ライアン少将同席のもとで直通回線が開かれ、現在作戦室のホットラインが待機状態です」
「……ステラから?」
響がわずかに眉を寄せると、真鍋が即座に緊張を露わにした。
「ライアン少将が同席……? ペンタゴンの作戦指揮を執るトップが、ステラ女史を介して直接連絡を入れてくるなど、ただ事ではありませんよ」
「話を聞くぞ。作戦室へ案内しろ」
響が歩き出すと、御子柴が淀みない動作で先導し、防爆二重扉で密閉された1階の作戦管制室へと一行を導いた。
部屋の中央に鎮座する円形作戦卓。その頭上に浮かび上がった立体ホログラムパネルの中央で、暗号化通信のインジケーターが赤く点滅している。
御子柴がコンソールに指を滑らせて回線を接続した瞬間、スピーカーから張り詰めた、しかし安堵の混じった女性の声が響き渡った。
『……響様!? つながりましたね……!』
「ステラか。落ち着け、要件は何だ」
響が静かに問いかけると、通信の向こうで短く息を整える気配のあと、引き締まった老将の声が割り込んできた。
『合衆国陸軍のライアンだ、響殿。無礼を承知で、ステラ女史の私設ホットラインを介して直接連絡を入れさせてもらった。……事態は一刻を争う』
「ライアン少将。マンハッタンの事後処理で何か起きたのか?」
『ダンジョン内部の崩壊ではない。問題は……覚醒者たちの無謀な深層突入です』
ライアン少将の重苦しい声とともに、作戦室の大型モニターへ全米および欧州主要都市のダンジョン被害データが電送されてきた。画面を埋め尽くしたのは、生体反応の途絶を示す無数の赤いロストマーカーと、破損した覚醒者ライセンスの識別情報だった。
『マンハッタン侵食孔の制圧を受け、各国のギルドや大手クランが色めき立った。浅層や中層で魔石を納入し、ポイントを稼いで名目上の「Sランク」に昇格した覚醒者部隊が、功名心と資源確保のために次々と第40層以深の深層へ乱入していきました。……結果は壊滅です。昨日だけで米国内の精鋭部隊3組が全滅、欧州でも同様の惨劇が起きているとの知らせです』
「……浅層で小粒の魔石をいくら集めてSランクの看板をぶら下げたところで、深層の階層主の前じゃただの肉塊だからな」
響の冷徹な一言に、ライアン少将は苦渋に満ちた溜息を漏らした。
『その通りです。だが現行の国際基準では、累積ポイントさえ満たせば誰でも深層への入場資格が発給されてしまう。彼らを救助するために投入された合衆国軍の地上部隊や特殊作戦班までもが巻き込まれ、損耗率はすでに限界を超えています。……背広組の議員どもはスポンサーの顔色を伺って制度改定に動こうとしない。このままでは軍の即応戦力がすり潰される』
通信の向こうから、ステラの切迫した懇願が重なった。
『響様、お願いです。全米、いえ全世界の覚醒者たちが命を落とし、現場の兵士さんたちが巻き込まれています……! リゾナンス本部の最高代表である響様から、現場の命を守るための厳格な「立ち入り規制の基準」を言い渡してください! ペンタゴンも国連も、響様がサインした規程であれば、国際緊急部会令として直ちに強制適用すると約束してくれました!』
作戦室内に重い沈黙が落ちる。真鍋が息を呑み、桐生が眉根を寄せてモニターの損耗データを見つめていた。横に控える御子柴が、静かに手元のクリップボードを抱き直す。
「……なるほどな」
響は腕を組み、冷え切った視線をコンソールの通信口へと向けた。
「おい、真鍋。桐生。……市ヶ谷の作戦会議室で、俺が防衛省の連中に言った話を覚えているか?」
「え……? ええ、覚えていますとも」
真鍋が眼鏡を直しながら答える。
「あの時、響さんは半分皮肉交じりに仰っていましたね。『単独で階層主を殺せない連中にSランクの看板を与えるな』『足手まといの集団を深層へ送り込むのは自殺志願者を放流するのと変わらない』と」
「そうだ。あの出鱈目なポイント稼ぎの首輪をそのまま全世界に適用させた結果が、画面に映っている無残な死体の山だ。――ライアン少将、話は決まった。口頭のやり取りだけで済ませる気はない。こちらで正式な規程文書を作成し、最高代表としての電子署名を添えてペンタゴンへ電送する」
『……! 感謝する、響殿! 直ちに受付ラインを最優先暗号で確保する!』
ライアン少将の張り詰めた声が跳ね上がった。響は通信を切ることなく、隣に控える御子柴へと視線を走らせた。
「御子柴。お前の手腕を見せてもらおうか。俺が口頭で出す基準を、国際軍事規程の書式へ即座に落とし込め」
「了解いたしました」
御子柴は表情を一切崩さず、白衣のポケットからタッチペンを抜くと、作戦卓のメイン入力端末を迷いなく起動させた。
「条項の起草を開始します。響様、要件の骨子をご指示ください」
日本支部の作戦室が、世界規模の防衛基準を再構築するための緊迫した実務の場へと一変した。
「さっき市ヶ谷の地下で日本のクラン連中に叩きつけてやった基準を、そのまま国際規程にスライドさせるぞ。――御子柴、打て」
「はい」
御子柴の指先が迷いなく動き、硬質な打鍵音が作戦室に響き渡る。
「まず大前提だ。これまでの累積納入ポイント制は全面破棄。浅い階層でどれだけ魔石を納めようが、雑魚を何千匹間引こうが、そんな数字遊びでの昇格は一切認めん。既存の看板Sランクも、実証データのないライセンスは即刻すべて失効扱いにしろ」
「第1条、累積ポイント審査の全面撤廃、および未認証ライセンスの暫定凍結。……次をお願いいたします」
「低階層――ゴブリン、オーク、スケルトン程度を安全に間引けるのが最低ラインのD。実戦投入不可の資材回収要員だ」
響はモニターの等高線図を冷淡に見据えたまま言葉を継ぐ。
「オーガ、トロール、ミノタウロス、ガーゴイルを受け持つならC。ただし単独突入は禁止、パーティー編成を義務付けろ。ここまでは現行維持でも構わん。問題はそっから上だ」
スピーカーの向こうで、ライアン少将とステラが息を呑む気配が伝わってきた。
「階層主を単独、かつ外部支援なしで屠れる実効戦力をA。そして――未踏の深層を単独で制覇し、五体満足で生還できる怪物だけをSと定義しろ」
「……Aを階層主の単独討伐、Sを未踏深層の完全制覇者……ですね」
御子柴が淡々とキーを叩きながら、補足を添える。
「衛生管理の観点から附則を付記します。戦闘後の自力帰還能力、および魔力枯渇による即時行動不能の除外。相打ちや瀕死による辛勝は、実戦能力としてカウントしません」
「それでいい。ライアン少将、聞こえたな。この基準を満たせねえ自称Sランクどもは、各国のダンジョンゲートで全部隊力ずくで叩き出せ。従わねえならライセンスを剥奪した上でダンジョンから永久追放だ。お前ら軍の兵隊を、看板だけの阿呆の尻拭いで死なせる筋合いはねえ」
通信の奥から、ライアン少将の低く、確信に満ちた声が返ってきた。
『……完璧だ、響殿。その言葉を待っていました。合衆国軍および有志国連合のダンジョン統制プロトコルへ、本規程を即座に全面組み込みさせてもらいます。議会の背広組が騒ごうと、リゾナンス最高代表の公式令である以上、何者にも覆させません』
『響様、本部サーバーでも全世界のギルドネットワークに向けて緊急発効の手続きを走らせています!』
ステラの引き締まった声が重なる。作戦卓の中央に、御子柴が組み上げた『覚醒者連盟リゾナンス世界統一作戦基準令』の完成原稿が展開された。末尾の承認枠が青く明滅している。
「響様、最終承認の電子署名を」
差し出された電子ペンを受け取った響は、流れるような動作で画面へサインを走らせた。
【Approved: HIBIKI (Supreme Representative)】
承認完了の重厚な電子音が作戦室に鳴り響く。
「電子署名完了。ペンタゴン統合参謀本部、ワシントン本部、および国連安全保障理事会へ同時電送……送信完了いたしました」
御子柴の報告と同時に、大型モニターに映し出された世界地図上で、全米および欧州の主要ダンジョンを示すアイコンが次々と黄色から「厳格封鎖」を示す深紅へと反転していった。モニターに並ぶ深紅のアイコンは、瞬く間に太平洋を越え、極東の日本列島へも波及した。
「……おいおい、これ本当に全世界の全ゲートで一斉執行されてるのか」
桐生が腕組みを解き、画面のログに目を凝らす。
「ええ。ペンタゴンの軍事衛星ネットワークとリゾナンスの直通ラインが同期しました。日米地位協定の特例条項に基づき、日本国内のダンジョン管理権限も自動的にこの規程へ上書きされています」
御子柴は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹な事務官の表情を崩さない。
「現在、国内で稼働中のゲート警備隊へ直ちに通達が下達中。先ほど市ヶ谷で伊達陸将から単独討伐を言い渡された日本のクラン代表4名――神林、白石、桐野、永見の各氏についても、ゲート到達時点で観測班の監視下に置かれ、例外なくこの新プロトコルで処理されます」
「あいつら、今頃ゲートの前で泡吹いて倒れてるんじゃないですかね」
唯がマチェットの鞘を指先で弾き、楽しそうに笑う。
「身から出た錆ですよ」
葵が安堵したように息をつき、画面から響へと視線を向けた。
「でも、これで無駄な犠牲を出さずに済みますね」
「現場の兵隊が死なずに済むなら、それで十分だ」
響は手元の端末を軽く叩いて画面を暗転させた。
「ステラ、ライアン少将。こっちの仕事はこれで終わりだ。あとはそっちで徹底的にゲートを締め上げてくれ」
スピーカーの向こうから、ステラの安堵に満ちた声と、ライアン少将の節度ある礼が返る。
『はい! 響様、本当にありがとうございました!』
『深く感謝申し上げる、響殿。これより合衆国軍全軍をもって、現場の秩序を回復させてもらう』
通信が切断され、作戦室に再び静寂が戻った。響は大きく肩を回すと、真鍋に向き直った。
「真鍋さん。これで急ぎの用件は片付いたな」
「ええ、完璧に。……ですが響さん、防衛省の上層部と外務省から、このあと山のような確認電文が飛んでくるのは確実ですよ」
真鍋が額の汗をハンカチで拭いながら苦笑いを浮かべた。
「知るかよ。いちいち全部なんか確認してられるか」
吐き捨てて背を向けかけた響の足が、不意にピタリと止まった。作戦室の大型モニターを見上げていた桐生が、顎に手を当てたまま、何かに気づいたように低く呟いたからだ。
「……待ってください、響さん。これ、かなりまずいことになりませんか」
「あ?」
響が眉をひそめて振り返る。桐生は腕を組み、深紅に塗り潰された世界地図のダンジョンマーカーを指差した。
「新基準を敷いてゲートを厳格に封鎖すれば、無能な連中の犬死には防げます。だがそれは同時に――今日この瞬間から、国内外を問わず『第40層以深の深層へ潜れる攻略者が世界中からほぼゼロになる』ってことですよ」
その指摘に、端末を操作していた御子柴の手が止まり、真鍋の顔から血の気がサーッと引いていった。
「あ……っ!?」
真鍋が息を呑み、眼鏡をガタつかせながら画面へ詰め寄る。
「そ、そうです……! 覚醒者の再格付けと実技審査が完了するまで、深層へ入れる正規のSランクなど事実上存在しなくなります! しかし、ダンジョン内の魔獣の繁殖や魔力蓄積は止まりません。定期的に階層主を間引いて圧力を逃がさなければ、数日から数週間で地上への魔獣氾濫――スタンピードが世界各地で連鎖的に発生します!」
作戦室の空気が、先ほどとは全く別の種類の凍りつくような緊張感に包まれた。葵がハッと息を呑み、唯が目を丸くして響の顔を見る。
「……ということは、真鍋さん」
桐生が恐ろしい結論を淡々と口にした。
「新基準を満たす覚醒者がまともに揃うまでの間、世界中で氾濫寸前になった深層の階層主を、一体誰が片付けに回るんです?」
室内にいる全員の視線が、音もなく一斉に響へと突き刺さった。
「…………」
響の眉間深くに、猛烈な青筋が浮かび上がる。
「おい、待て」
その直後、作戦卓の通信コンソールが、けたたましい緊急警報音を室内に響かせた。赤く点滅するディスプレイに、合衆国国防総省、国連安保理、さらには防衛省中央指揮所からの優先割り込み要請が雪崩のように表示されていく。
『響様!? 大変です!』
切断されたばかりのホットラインから、ステラの悲鳴のような声が飛び込んできた。
『ゲートを完全封鎖した途端、オハイオとネバダの特級ダンジョンで深層の魔力圧が異常沸騰を起こし始めました! ペンタゴンから悲鳴が上がっています! 「規程通りSランクのヒビキ殿に即時スクランブルを要請したい、輸送機はすでに横田で待機させている」と……!』
御子柴が冷徹な手つきでサブモニターを叩き、無慈悲な事実を読み上げた。
「国内でも同様です。市ヶ谷の統合幕僚監部より緊急打診。先ほど単独討伐を命じられた4つのクランが全員ゲート前で突入を拒否して逃亡したため、上野、千葉、埼玉、池袋の4箇所すべてで深層ボスの活性化が確認されました。迎撃可能戦力――該当者、響様1名」
真鍋がハンカチを握りしめ、青ざめた顔で乾いた笑いを漏らした。
「ひ、響さん……1日30億円の請求書を何十枚切れるか分かりませんが……これ、当分ベッドで寝るどころの話じゃありませんよ」
「……あいつら、ぶっ殺すぞマジで」
響の低く唸るような怨嗟の声が、真新しい作戦室の防爆壁に虚しく反響した。




