27話「現地調達と知らぬが仏」
原生林の夜が明けると、太古の天蓋越しにわずかな薄墨色の朝光が差し込み、結界の表面を淡く照らし出した。
冷え切った朝の湿気を払うべく、一行は手早く撤収作業へ取りかかる。大型テントの留め具を手際よく外す唯の横で、響は【ストレージ】の虚空へと迷わず腕を伸ばした。
引き抜かれたのは、淡い紫色の稲妻のようなサシが美しく走る、サンダーバイソン(青眼の豪雷牛)の分厚いバラ肉。魔力を帯びた脂の甘美な匂いが、早朝の澄んだ空気の中へ瞬時に解き放たれる。
響の調理に一切の無駄はない。湯気を立てる大型の深鍋へ、手際よく刻まれた乾燥野菜とハーブ、そして大粒のコンソメキューブを放り込み、サイコロ状にカットしたバイソンのバラ肉を惜しげもなく投入。焚き火の強火で一気に煮立たせれば、魔獣の芳醇な肉汁とハーブの爽やかな香気が溶け合った、極上の即席コンソメスープがあっという間に仕上がっていく。
並行して、熾火の網の上へ厚切りのバラ肉スライスが豪快に並べられた。
ジューッ、と小気味よい熱音とともに、余分な脂が炭火へ滴り落ちて香ばしい白煙が立ち上る。軽く炙って表面を香ばしく閉じ込めた熱々の肉塊を、外側をカリッと焼いたハードブレッドの切れ目へ豪快に挟み込み、ピクルスと粗挽き胡椒で味を整えた。
仕上げに、携帯用ドリッパーへ挽きたての粉を落とし、熱湯を細く注ぎ入れる。豊かな苦味と酸味を湛えたドリップコーヒーが琥珀色の雫となってカップを満たした。
香ばしい肉汁が溢れ出す厚切りバイソンサンド。
冷えた身体の芯まで熱を行き渡らせる、具だくさんのバイソン肉入りコンソメスープ。
そして、鼻腔を心地よく刺激する淹れたてのドリップコーヒー。
過酷な原生林の奥深くとは思えない贅沢極まりない朝食が、撤収の合間を縫うようにして湯気とともに並べられた。
ステータスがコソコソと明滅する。ちょっとした初級から中堅覚醒者クラスなみのステータスを表示したのである。
「うわぁ……! 朝からこんなご馳走、本当にいいんですか……!?」
差し出された厚切りバイソンサンドを両手で受け取った葵の目が、輝きを帯びる。
カリッと焼き上がったハードブレッドに歯を立てると、肉厚なバラ肉から稲妻のような痺れる旨味と濃厚な脂が奔流となって溢れ出した。すかさず温かいコンソメスープを口に含めば、ハーブの香りと野菜の甘みが脂っこさを包み込み、冷えた五臓六腑を心地よい熱で満たしていく。
「んん〜っ! パンもサクサクでお肉がすっごくジューシーです……! スープも温かくて身体に染み渡ります……!」
夢中で頬張る葵の頭上へ、響はさりげなく視線を泳がせ、意識の端で鑑定を発動させた。
視界の隅に浮かび上がる半透明のウィンドウ。そこには、一般の覚醒者が血のにじむ鍛錬を重ねてようやく辿り着く領域の数値が、無機質に刻まれていた。
佐伯 葵
筋力(STR):20(初期値8+カルノタウルス4+ベヒモス8)
耐久(CON):26(初期値10+カルノタウルス8+ベヒモス4+パイソン4)
敏捷(AGI):17(初期値9+パイソン8)
知力(INT):20
精神(MND):11
魔力(MP) :1
(……よし、敏捷の穴も埋まったな)
空中に淡く灯る鑑定ウィンドウ。響は、スープを夢中で飲み干す葵の背中を確認し、しゃがみ込んだ。
足元に広がる黒土へ木の小枝の先を走らせ、数値の並びを素早く刻み込んで唯に教える。
『STR 20 / CON 26 / AGI 17』
並んだ半角英数字を一瞥した瞬間、唯の眉間へ深い縦じわが刻まれた。
「……響さん、これ本気ですか?」
声のトーンを極限まで落とした唯の囁きに、響は小枝をへし折って土を靴底で均しながら、不敵な笑みを返す。
「嘘ついてどうすんだよ。これで足回りの鈍さも解消された。初級から中堅覚醒者の前衛に引けを取らねえ数値だぞ」
「筋力と耐久だけでも頭が痛かったのに、一晩と朝食だけで敏捷まで一般兵卒の基準を軽く超えさせるとか……常識という概念が粉々に砕け散りそうです」
唯はこめかみを指先で押さえ、天を仰いだ。視線の先では、完食した葵が満足げに息をつき、自らの手のひらを握ったり開いたりしながら不思議そうに首を傾げている。
響はカップの縁から立ち上る湯気を眺めつつ、内心で小さく口角を吊り上げる。
初期値9という鈍足の原因だった敏捷値へ、豪雷牛の俊敏な雷撃筋肉がしっかり定着。耐久値も26まで伸び、ちょっとした中堅前衛クラスの頑丈さを獲得した。これなら足元のおぼつかない原生林の悪路でも、遅れを取ることなく踏破できる計算。
「……響さん、またやりましたね」
背後から忍び寄った唯が、ドリップコーヒーのカップを片手に、ジト目を向けながら囁く。
「昨晩の筋力と耐久の異常値だけでも大概でしたのに、朝食で敏捷まで底上げするなんて。あの子、見た目は華奢な女子高生のまま、中身は完全に中堅クラスの前衛スカウトですよ」
「生存率を上げるための投資だ。文句あっかよ」
響は平然とした横顔のまま、ブラックコーヒーを喉へと流し込んだ。
二人の密かなやり取りなど露知らず、葵は最後の一口を飲み干すと、満足そうに両手を合わせる。
「ごちそうさまでした! ……なんだか今朝は、足取りまで羽根が生えたみたいに軽いです!」
立ち上がった葵が、片手に握ったモーニングスターをくるりと軽やかに回してみせた。トゲ鉄球の風切り音が低く唸りを上げ、唯の引き攣った眼差しがその凶悪な先端へと釘付けになる。
「今日はこの原生林を抜けるぞ」
響の簡潔な号令が、湿った朝の空気を切り裂く。
一行が踏み込んだ太古の樹海は、一歩進むごとに険悪な牙を剥き出しにしていた。地表をびっしりと覆う巨大な根がのたうつ大蛇のようにうねり、土を締め上げて平坦な足場を完全に奪い去っている。根の隙間から這い出た低木や鬱蒼としたシダ植物が膝上まで届き、行く手を阻むように葉先を揺らしていた。
潜む魔物の輪郭をかろうじて識別できる程度の視界は残されているものの、足元の不安定さは歴然。わずかな踏み外しすら捻挫や転倒に直結する天然の落とし穴が延々と続く。
鬱蒼とした天蓋の裂け目から、時折細い木漏れ日が筋となって射し込み、薄暗い森の底へまだらな光斑を落としては揺らめいた。
「葵、足首を取られるなよ。根っこの上を踏むと滑るからな」
前を行く響が背後へ短く投げかける。
「そうですね。無理に大股で進まず、低木の根元をしっかり見極めて……」
唯が忠告を重ねようとした、まさにその刹那。
ガサリ、と頭上の枝葉が不穏に揺れ、湿った空気を引き裂く甲高い奇声が轟く。
木陰の死角から飛び出したのは、赤く濁った双眸をぎらつかせた1匹のゴブリン。手には節くれだった粗末な木製棍棒を振りかざし、獲物と定めた葵の無防備な頭部めがけて一直線に飛びかかってきた。
響はすでにその気配を完全に捉えていたが、あえて動く気配すら見せない。背後の唯もナイフの柄へ指を掛けつつ、即座の介入を控える。二人にとって、この程度の雑魚敵は格好の試験台。現在の葵がどれほど動けるのか、実戦での力試しに打ってつけの獲物に過ぎなかった。
だが、突如として牙を剥かれた葵にとっては、世界の終わりにも等しい恐怖。
「きゃあああああっ! こ、来ないでぇぇっ!!」
悲鳴を轟かせた葵は、半狂乱のまま目をつむり、両手で握り締めた漆黒のモーニングスターを我武者羅に振り回した。
筋力20の剛腕が生み出す凶悪な遠心力。空気を切り裂く重低音が唸りを上げた瞬間、振り抜かれたトゲ鉄球の側面が、飛び込んできたゴブリンの顔面を真っ向から捉える。
グシャリッ、と鈍い破砕音が空間を震わせた。
鋭利な鉄棘が分厚い皮膚をズブリと容赦なく抉り込み、頭蓋の骨ごと陥没させる。それだけで終わらない。恐怖に駆られた葵が「あっち行って! あっち行ってよぉ!」と絶叫しながら、両腕をブンブンと激しく左右へ振り乱し続けた。
バシィッ! ズチュッ! メキメキッ!
暴風のように荒れ狂うモーニングスターの連打が、宙に浮いたゴブリンの顔面を無慈悲にミンチ状へとすり潰していく。トゲが肉を抉り、骨を粉砕し、肉片と緑色の体液が周囲の木の幹へ派手に飛散。
人間離れした膂力で繰り出される無軌道な滅多打ちに、ゴブリンは反撃どころか断末魔を上げる暇すらなく、ただただ肉塊へと解体されていく。
「……うわぁ」
背後で見届けた唯が、引き攣った表情のまま小さく呟いた。
「響さん……あれ、力試しっていうより、ただの処刑ショーですよ」
「うわ、えっぐ……。あんな無慈悲なミンチ製造機、俺ですらドン引きするレベルだぞ」
響は引き攣った顔で後頭部を掻き、心底やりすぎだと言わんばかりに肩をすくめる。
「全幅の信頼を込めて同意します」
唯も乾いた笑みを張り付かせ、深く首肯した。
二人の視線の先では、激しい呼吸を繰り返す葵がなおもモーニングスターを胸元に固く抱え込み、生まれたての小鹿のように膝を震わせている。足元に転がっているのは、頭部の原形すら残さず木っ端微塵へと粉砕された哀れなゴブリンの残骸。飛び散った生臭い体液が周囲の苔やシダを深緑から赤黒く塗り潰し、原生林の湿気と混じり合って強烈な異臭を放つ。
「ひっ、うぅ……っ! な、なんですかこれぇぇっ……!?」
半べそをかきながら惨劇の現場を見下ろした葵が、恐怖と混乱の限界を迎えて震える声を絞り出す。
両手で抱えたトゲ鉄球は、激しい乱舞を終えてピタリと止まっていた。足元には頭部を木っ端微塵に粉砕されたゴブリンの残骸。飛び散った体液に青ざめ、涙目で後ずさった葵は、背後に立つ響と唯を縋るように見つめた。
「ひ、響さん……! それとも唯さんですか!? あ、危ないところを見えない魔法か何かで助けてくれたんですよね……!? 私、怖くて目をつぶって夢中で振り回してただけなのに……恐る恐る目を開けたら、なんで怪物がこんなグチャグチャのミンチみたいになって倒れてるんですかぁ!?」
自らの両腕が生み出した暴力的な遠心力と怪力には微塵も思い至らず、「先輩ふたりが背後から超常的な援護射撃をしてくれた」と信じて疑わない。目をうるませ、救世主を拝むようにぺこりと頭を下げる。
「ふたりとも、本当にありがとうございます……! 私、死ぬかと思いました……!」
感謝の言葉を全身で浴びせられる響と唯。
視線が空中で無言のまま交錯し、二人の口元から脱力しきった深いため息が同時に零れ落ちた。
「……あー、うん。そうだな...」
響は引き攣った口角を強引に引き締め、適当に話を合わせる。
「響さん、葵さん無自覚すぎませんか……?」
唯が額を押さえ、乾いたささやき声でツッコミを入れた。だが、無邪気な女子高生は「やっぱり響さんだったんだ……!」と目を輝かせ、手元の漆黒の凶器を無邪気な手つきでひょいと肩へ担ぎ直す。
足元に散乱していた生々しい痕跡は、ふっと淡い光を帯びると、無数の粒子となって夜気の中へ霧散していった。
後に残されたのは、湿った下草の上にコロンと音を立てて転がった、小指の先ほどの小さな魔石が1つだけ。
「……あれ? 消えちゃった……?」
肩にモーニングスターを預けたまま、葵が目を丸くして立ち尽くす。
「ダンジョンの魔物は倒せばこうやって消える。そういう仕組みだ」
響は短く説明を挟み、しゃがみ込んでその魔石を拾い上げた。土を払い、手のひらの上で転がしてみせる。
「ほら、これがお前の戦果だ。持ってていいかい?」
「わ、私の……? でも、倒してくれたのは響さんと唯さんですし……」
葵は躊躇いがちに視線を揺らし、隣に立つ唯の顔を伺った。
「い、いえっ、葵さんがトドメを刺したのは間違いありませんから! 記念に持っておくべきです、はい!」
唯は両手をブンブンと激しく振りながら、引き攣った笑顔で必死に押し戻す。
「……葵、唯もこう言ってる。無理に断らなくていい、受け取ってくれ」
「……うん、ありがとうございます! 私、大事にしますね」
葵は恐る恐る小さな魔石を受け取ると、両手で包み込むようにしてポケットへ収めた。
「唯、突っ立ってないで周囲の警戒を続けろ。次は立ち止まらずに抜けるぞ」
「ひぃっ、了解ですっ!」
響の事務的な指示に唯が小さく飛び上がり、一行は再び薄暗い通路の先へと歩を進め始めた。
原生林の木々が途切れた境界から、一行は吹き曝しの平野部へと歩を進めた。
頭上には鈍色に濁った雲が低く垂れ込め、吹き抜ける強風が衣服を激しく打ち据える。冷気を帯びた小雨が横殴りに肌を叩き、地面を濡らし始めていた。
足元は枯れ草と硬質な土壌が入り混じる不整地。視界の奥、風雨に霞む空間の先で、何者かの輪郭が微動だにせず佇んでいる。
遮蔽物のない平地において、強風は音による知覚を著しく阻害する。風音と雨の叩きつける音が支配する状況下、相手との距離を詰めるべく、響は風雨の抵抗を避けるように歩幅を狭めて先頭を進む。
距離が縮まるにつれ、灰色の雨煙越しに人影の細部が露わとなった。
地面に突き刺さった錆びた大斧の柄に、両手を重ねて寄り添うようにうつ伏せる人影。泥濘と返り血に汚れた武骨な革張りの胸当て、そのひび割れた装具の隙間から、隆起した黒褐色の剛毛が荒々しく覗く。
肉体から放たれるべき生体反応の熱気は失われたかの如く希薄であり、まるで活動を完全に停止させた残影が、風雨に晒され続けているかのような異様な光景。
「……動いてねえな」
響の呟きは風切り音にかき消されそうになりながらも、その側面へと移動を行う。
周囲を覆う魔素の残滓は濃い、だが敵対する気配はまだ無い。平野の中央に遺されたその標識のような残影は、我々がやってきた森へと視線を移し、目があった!
その刹那!
「フシューーーッ! ブルルルルルァァァァァッ!!」
巨大な鼻孔から白煙のような呼気を爆発させ、喉奥をすり潰すような重低音の咆哮が湿った大気を殴打する。
静止していた剛毛の巨躯が、大地を抉るすさまじい踏み込みで初速を叩き出した。
質量そのものが弾丸と化して一直線に肉薄。
叩きつける雨煙を力づくで薙ぎ払い、振り上げられた錆びた戦斧が狂乱の弧を描く。空気を断ち割る巨大な鉄塊が、逃げ場のない突風を巻き起こしながら頭上へと迫りくる!
血走った瞳が葵の細い体躯を捉えた瞬間、獣の狡猾な選別が完了する。
「グァッ、ブシュルルルルッ!」
獲物を確実に圧殺すべく、濁った唾液を撒き散らしながら喉を鳴らすミノタウロス。
狙われたのは葵。
本能的な恐怖で身を強張らせながらも、両手で握り締めたモーニングスターの柄を頭上へ掲げ、斜めの角度で強烈な質量を迎え撃つ。
直後、硬質な金属同士が激突する甲高い破砕音が平野を鋭く引き裂いた。
鉄球のトゲが斧の刃先をわずかに逸らすも、叩きつけられた運動エネルギーの桁が違う。受け止めた両腕の腱が悲鳴を上げ、地面を捉えていたはずの足裏が摩擦を失って宙に浮く。衝撃を相殺しきれず、小柄な身体は後方の枯れ草交じりの土壌へと激しく吹き飛ばされた。
だが、大振りの一撃を放ったミノタウロスの体勢には、致命的な硬直が生じている。
「唯、左脚!」
響の低く鋭い号令と同時に、二人の影が泥を蹴って左右へと散開した。
動揺も躊躇も一切ない。振り下ろされた戦斧の軌道を見切っていた唯は、相手の死角となる左側面へ滑り込み、逆手に構えた短剣の切っ先を深く突き入れる。狙うは体重を支えるアキレス腱。泥に濡れた太い筋繊維を、自重を利用した体重移動で正確に引き裂く。
時を同じくして、響が低空を滑るような足運びで右側の懐へ肉薄していた。
抜刀の初速を乗せた刀身が、雨煙を切り裂いて銀の軌跡を描く。狙い過たず叩き込まれた鋭利な刃先は、ミノタウロスが踏ん張りを利かせようとした右膝の腱、そして追撃を封じるべく振り戻されようとした前腕の筋を、寸分の狂いもなく断ち切っていた。
両脚と前腕の筋を断たれ、前のめりに崩れ落ちるミノタウロス。
その巨躯が地面へ激突するよりも早く、響の影が滑り込む。
狙いは左胸。強靭な筋肉の緊張が解けた一瞬の弛緩を見逃さず、鋭利な切っ先と化した手刀を左肋骨の隙間へ深々と突き入れた。
肉を割り、骨を軋ませて体内を抉る冷徹な一撃。
奥深く、胸腔の核として脈打つ硬質な魔核の基部を鷲掴みにする。指先へ伝わる異様な脈動ごと、全体重を後方へ引き戻す勢いで力任せに引き抜いた。
「ゴブッ……ッ!」
肺腑を突き破って引きずり出された角とともに、赤黒い血煙が雨中へ噴き上がる。核を失った巨躯は推進力を完全に絶たれ、泥濘の地表へと重々しく崩落した。
吹き飛ばされた土壌から辛うじて身を起こした葵は、目の前で繰り広げられた刹那の解体を捉えきれず、泥に汚れたモーニングスターを握りしめたまま硬直していた。荒い息の白さだけが口元から漏れ出る。
雨煙の立ち込める中、響が平然とした足取りで横たわる巨躯の傍らへと歩み寄る。
血振るいを済ませた切っ先を泥濘へ向け、視線だけで唯を促した。
「一応こいつも解体するぞ」
間髪を入れず、唯は短刀の柄を握り直して返事代わりに頷く。巨大な魔物の絶命を確認するまでもなく、二人の意識はすでに次の作業へと切り替わっていた。
血と泥の臭いが立ち込める中、葵は震える声で問いかけた。
「あ、あの、何をしているんですか? その魔物を解体してどうするつもりなんですか?」
荒い呼吸を整える余裕すらなく、倒れ伏した巨躯を見下ろす二人の背中に視線を投げかける。
返ってきたのは、あまりに場違いな平熱のトーン。響は刃先をミノタウロスの分厚い皮下へ当てがい、手首を返しながら事もなげに言い放つ。
「あ、こいつも焼肉にしてまた食うのさ。うまかったろ?」
迷いのない手際で筋膜を切り離していくその横顔には、強敵を屠った余韻など微塵も残っていない。ただ今日の糧を淡々と処理する日常の作業だけが、泥濘の平野に広がっていた。
「は……?」
間抜けな声が葵の口からこぼれ落ちる。
死線を越えた直後の張り詰めた空気は、あっけなく霧散。両手に握りしめたモーニングスターの重みすら忘れ、葵は顎が外れそうなほど口を半開きにして立ち尽くした。
「や、焼肉……? うまいって……えええええっっっ!!! 昨日のあの肉、まさか! これだったんですか……!?」
直前まで自分を叩き潰そうとしていた筋骨隆々の異形と、昨晩キャンプの網の上で香ばしい脂を弾けさせていた極上の肉片。脳内で絶対に結びついてはならない2つの映像が直結し、葵の顔面から急速に血の気が引いていく。
胃の奥がキュッと縮み上がる感覚に襲われ、思わず口元を手で押さえた。
「うっ、ぐえぇっ……!? ちょっと待って、待って……っ! 上がって、胃から何か上がってきてますってぇぇぇっ!!」
込み上げる酸っぱいものを必死で嚥下し、涙目で喉を押さえながら絶叫する。
「嘘でしょ……っ! 頭が牛だからセーフとか、そういう次元の話じゃないですよ! 首から下はどう見ても筋骨隆々の二足歩行、ほぼ人間みたいな体つきの怪物ですよ!? 普通は『食べる』っていう発想そのものが頭に浮かばないですから! なんで当然みたいな顔して『また食う』とか言えるんですかぁっ!!」
当惑と戦慄が入り混じった悲鳴のような叫びが、泥濘の平野に虚しくこだましていた。
「安心しろ。葵が食べたのはこいつじゃないよ」
響は手首を軽く返し、血糊のついた刃先でミノタウロスの巨躯を指しながら、事もなげに笑い飛ばす。
だが、その言葉は何の救いにもならなかった。
葵の脳裏に、さらなるおぞましい想像が雷鳴のごとく駆け巡る。人型ですらない、あるいはこれ以上に人間寄りの何者かを口にしてしまった可能性が浮上し、顔面蒼白のまま両腕を前へ突き出した。
「ち、ちょっと待ってください! 何を食べさせたとか、まだ絶対に言わないでください!!」
今にも泣き出しそうな裏返り声で、葵は首を横へぶんぶんと振る。
「心の準備がまだできていません! これ以上の新事実を今聞いたら、本当に魂ごと胃の中身を全部吐き出しますからね!?」
戦々恐々としながら後ずさりする葵の姿を見て、それまで黙々と作業を進めていた唯が短刀の手を止め、深々とため息をついた。
「そうだよね。あれを言われちゃうと、ちょっと私でも引いちゃうもんね」
同情するような声音で呟かれたその言葉は、葵にとって引導を渡されたも同然の響きを帯びていた。




